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2016年1月27日 (水)

ショーペンハウエル『読書について』から「思索」①(岩波文庫)

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 ショーペンハウエルについては、知っている人は知っていて、興味のない人にとっては知りたいとも思わないだろうから、特に説明しない。

 ずいぶん昔に表題に惹かれて購入し、眠り薬としてところどころ拾い読みしていたけれど、どういうわけか今回一気読みした。一気読みした、といっても、本文は150ページ足らず、それが「思索」「著作と文体」「読書について」の三部に別れているのだから、その気になればそれほど苦労しないで読める。

 「思索」の冒頭にどんなことが書いてあるのか、引用しよう。

 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それをほかのさまざまな知識や真理と結合し、比較する必要があり、その手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである。われわれが徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。だが知っているといっても真の意味で知られるのは、ただすでに考えぬかれたことだけである。

 当たり前のことが書かれている、と読み飛ばせばそれまでだけれど、ショーペンハウエルは主に19世紀前半(1788-1860)のドイツの人である。産業革命以後、イギリスやフランスがそれによってどんどん国力を増大する中、ドイツは思想的な部分で自国のアイデンティティを保持しようとしていた。デカルトやフィヒテ、シェーリングという哲学者たちがもてはやされている中で、それに苦虫を噛み潰しているショーペンハウエルの気持ちがこの本にもあふれている。

 そんなことを抜きにしても、「考える」ということと「読書する」ということの根本的な意味をこの文章は示している。これは『論語』の「子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし。」と同じだと思う。

 蛇足だが、論語を現代訳すれば、
「知識や情報をたくさん得ても、思考しなければまとまらず、どうして活かせばいいのか分からない。逆に、思考するばかりで知識や情報がなければ一方的になり、独善的になってしまう。」(加地伸行訳)。「まとまらず」、というのは、観念ばかりになってしまう、ということだろうか。

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