漱石の「愚見数則」から
小生素養不足理解能力劣弱の故、その文章をただ読み流すことしか能わざりしが、幸いにも意味が朧気に勝手読み出来たところも僅かにあり、興にまかせてそこだけ抜き書きす。粗忽者の抜き書きの故に本来の意味を損なっていること確実なれど、御海容願いたし。
勉強せねば碌な者にはならぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸氏に面する毎に、勉強せよ々々という、諸氏が余のごとき愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉旃(これつとめよ)々々。
(漱石が教師として学生に対して述べている)
余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり、その不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、これ現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非(えせ)教育家でも御茶を濁して享受し得ると云う、悲しむべき事実を示すものなり、世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの沢山あるべし、真正なる教育家を作り出して、これらの偽物を追出すは、国家の責任なり、立派なる生徒となって、かくの如き先生には到底教師は出来ぬものと悟らしむるは、諸氏の責任なり、余の教育場裏より放逐さるるときは、日本の教育が隆盛になりと時と思え。
善人ばかりと思う勿れ、腹のたつ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。
多勢を恃んで一人を馬鹿にする勿れ、己の無気力を天下に吹聴するに異ならず、かくの如き者は人間の糟(かす)なり、豆腐の糟は馬が喰う、人間の糟は蝦夷松前の果へ行(いっ)ても売れる事ではなし。
厭味を去れ、知らぬ事を知ったふりをしたり人の上げ足を取ったり、嘲弄したり、冷評したり、するものは厭味が取れぬ故なり、人間自身のみならず、詩歌俳諧共厭味のあるものに美しきものはなし。
権謀を用いざる可らざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ、利慾に迷う者に施せ、毀誉に動かさるる者に施せ、情に脆き者に施せ、御祈祷でも呪詛でも山の動いた例しはなし、一人前の人間が狐に胡魔化さるる事も、理学書に見えず。
馬鹿は百人寄っても馬鹿なり、味方が大勢なる故、己の方が智慧ありと思うは、了見違いなり、牛は牛伴(づ)れ、馬は馬伴れと申す、味方の多きは、時としてその馬鹿なるを証明しつつあることあり、これ程片腹痛きことなし。
言う者は知らず、知る者は言わず、余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし、況んや毒舌をや、何事も控え目にせよ、奥床しくせよ、無暗に遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり、万感の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙に等し。
損徳と善悪とを混ずる勿れ、軽薄と淡泊を混ずる勿れ、真率と浮跳とを混ずる勿れ、温厚と怯懦とを混ずる勿れ、磊落と粗暴とを混ずる勿れ、機に臨み変に応じて、種々の性質を見(あら)わせ、位置有って二なき者は、上資にあらず。
欺かれて悪事をなす勿れ、その愚を示す、喰わされて不善を行う勿れ、その陋を証す。
一部のみ紹介。こういう文章は変換がなかなかスムーズに行かないのでちょっとたいへん。読み直してまちがいのないように注意したつもりだが、ないとはいえない。ただ、漱石独特の漢字の使い方をそのまま写しているから、まちがいに思えるものがあるかもしれない。
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