アメリカ型愚かなヒロインは可愛いか
ドラマはほとんどリアルタイムで見ないで、録画しておいて後から見る。
「アメリカ型愚かなヒロイン」はハリウッド映画の定番だが、NHKの大河時代劇ドラマでそれを見ようとは思わなかった。
長澤まさみ演ずる「きり」が、自分の置かれている状況などお構いなしに奔放な行動をし、思ったままを放言する。そのことで回りがたいへんな迷惑を受け、危機に瀕するのだが、自分のせいだとはまったく考えない。
もともと「タッチ」のヒロイン、南役の長澤まさみは私のイメージと違ったから、なんとなく好みではなかったのだが、この「きり」のような女性は大の苦手である。
ではますます長澤まさみが嫌いになったのかと言えば、逆である。このような役をうんざりする女として見事に演じていることに感心して、実は見直した。
真田昌幸の妻で、真田信之、信繁の母親が、似たような性格の女性であることを見事に高畑淳子が演じている。しかしこの女性はそもそも公家の出だから、これでいいのだ。
しかし「きり」は違う。たぶんこんな女性は当時日本にはいなかったはずだ。そのような育て方をする親はいないし、それでは生きていけなかっただろう。江戸時代ならば、いたかもしれない。それは江戸の街が、男性に対して極端に女性の数が少ない世界だったからだ。
そしてハリウッド型の愚かなヒロインは、まさに西部劇の時代の圧倒的に男性に対して女性の数の少ない、特殊な社会にこそ出現した。内田樹老師が喝破したように、ほとんど女性との縁が得られない男性社会では、男どおしの関係がきわめて濃密になる。そんななかで、たまたま女性との関係が生じても、男社会の関係と、女性との生活のどちらを取るか、という葛藤が生ずる。そのとき、男は女より、男同士との関係を選ぶことがしばしばであっただろう。
そうなると、女と別れた男は「女というのはわがままで、立場や状況をわきまえず、愚かである」となかまに言う、それになかまたちは、深くうなずく、というのがパターンであっただろう。
これがアメリカの男社会での心性ではないか、それが反映したのがハリウッド型の愚かなヒロインと言うイメージではないか、というのが老師の解釈から私が読み取ったことである。アメリカ型のウーマンリブはそれをどう乗り越えるのか、というアメリカ女性の運動だった、という見方も出来るのではないか。
そのイメージそのもののヒロインが「きり」という女性ではないか、と勝手読みしたのである。それが計算されたものなのかどうか知らない。ただ、面白いな、と思ったので述べた。
繰り返すが、「きり」のような女性は、いくら美人でわがままこそが可愛くても私は苦手である。ものを知らなかった若いときならいざ知らず、わがままなところが好き、などとは決して思えない。でも可愛いさだけが見えている男が多いのかなあ。
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コメント
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なるほど。。。。
勉強になります
投稿: 藤子 | 2016年2月22日 (月) 21時56分
藤子様
半分受け売りで恥ずかしい。
でもドラマでそれを感じたのは私のオリジナルな感想です。
投稿: OKCHAN | 2016年2月22日 (月) 22時04分
自分が美しいということを認識していて、そのことで何事も周囲に許されていると
思っている女に多く見られるタイプだと思います。
美しいとは言えない女性のわがまま・・・論外、でしょうね^^
投稿: おキヨ | 2016年2月23日 (火) 12時36分
おキヨ様
命の危険があるときに、逃げるよりも気絶して見せたりして、回りの足を引っ張るのがこういう女性でしょうか。
美しくても私はおつきあいはごめんですね。
美しくはないのですが、ある女性のことで一生苦しんでいるところです。
だから身にしみてそう思うのです。
わがままであること、周りが見えないのは、ある意味で人間的な弱さでしょう。
投稿: OKCHAN | 2016年2月23日 (火) 12時45分