誰から助けるのか
「稼ぐに追いつく貧乏なし」ということわざがある。一生懸命に働いていれば、それに追いつく貧乏神はいない、つまり働けば生活は何とかなるものだということだ。
ところが現実は厳しいから「稼ぐに追い抜く貧乏神」ということばもできたそうだ。貧乏人は働き続けても貧乏から抜け出せないという、あきらめのことばだ。
私は金持ちではないが、同時に自分が貧乏であるとは思っていない。慎ましく生きれば食べるに困らず、ささやかながら楽しく生きる事はできる。そんなに夢中で働いたわけではないが、そういう老後を送れるのは、運が良かったのかもしれない。
リストラなど受けずに済む会社に勤めることができたという好運と、比較的に右肩上がり気味の経済の時代に生まれたことの好運とがあった。
現代は「稼ぐに追い抜く貧乏神」の時代だと、民主党や社民党や共産党は声高に叫んでいる。貧乏な人が貧乏なのは安倍政権が悪いからだ、と糾弾する。「われわれが政権をふたたび与えられればそれを変えてみせる」と本気で思い、本気で主張しているようだ。そして本気でそれを信じる人も少なからずいる。
しかし、世の中に恨み言を言いながら、慎ましく生きれば生きられるのに、自分が金持ちでないことを怨んで不平をかこつ人も多い。マスコミで取り上げられる貧困者の中には、よく見るとずいぶん無駄な暮らしをしていたりして、これでは蓄えを残せないだろうな、と思うこともある。そもそも時代が変わって、ゆとりのある時代ではなくなっている。そのことが分かっていない人をあおって弱者救済を叫んでいるのが一部野党の面々である。
いうまでもないことながら、アメリカや日本が右肩上がりの経済成長ができたのは、中国をはじめとする、世界の多くの貧しい人々がいたからである。彼らが「稼いで」くれたものの恩恵をわれわれがさきに受け取っていたからである。その人々が「稼ぎに稼ぎ」次第に豊かになっていけば、分け前が減るのは当たり前である。中国は国内の貧富の差をその稼ぎの元手にしているが、それも限度があるだろう。
だからますます自分で稼いだ分しか手元に残らなくなっただけのことである。いままでが過剰だったのだ。だから自分で稼いだ分でやりくりしなくてはならないわけで、夢よもう一度はもうないのである。もう金利生活などというものはあり得ないのだ。
貧乏の基準を変えないといけない時代なのだ。世界はどんどん平均化していくだろう。エントロピーの法則は経済にも当てはまるらしい。金持ちでないことが貧乏なのではない。
話を戻そう。限られた予算から誰かを救済するのなら、それに優先順位をつけざるを得ない。まず助けなければいけない人は、「稼ぐ」ことのできない人であろう。働く意欲がありながら、子どもや寝たきり老人を抱えて働けない人、自分が病弱で働けない人などである。
それをきちんとしないで「稼げない」人ではなく、「稼ごうとしない」人を救済すべき弱者に含めてしまうと、弱者救済の主張は空論になってしまう。野党の主張がしばしばうさんくさいのはそのせいかもしれない。ほんとうの弱者だけでは票にならない。
彼らは優先順位を考えないから、却ってほんとうに助けなければならない人が置き去りにされるおそれがある。
社会の仕組みに正すべきひずみがあることは承知している。しかしそれが現実の世界である。その中で人は生きていくしかない。いまは選り好みしすぎなければ、仕事はたいてい見つかる。働く気があるかどうかなのだ。
誤解されるおそれのあることをあえて書いた。
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日本国民より在日外国人のほうが生活保護の受給率が高い、ある都市では特定の人達に優先的に現業職公務員の枠が設けられている。
生活保護は、本来外国人には適用されないものです。少なくとも日本人並みに支給する必要はないと思います。国民年金受給者より無年金の生活保護のほうが受給額が多いというのも変です。
被害者らしき人を優先することによる被害をなくすのが先と思います。
投稿: けんこう館 | 2016年2月11日 (木) 09時41分
けんこう館様
ほんとうに困っている弱者よりも作られた弱者、自称弱者のほうが声が大きいので、先に救済の恩恵にあずかっているように見えます。
人権主義者の歪んだ平等意識が社会的コストをつり上げているように感じます。
彼らの自己満足のために、優先順位が狂っているような気がします。
投稿: OKCHAN | 2016年2月11日 (木) 11時24分