東海林さだお「ショージ君の満腹カタログ」(文春文庫)
題名が題名なので、食べものの本の中に紛れ込んでいたが、食べものの話ばかりではない。「ショージ君」シリーズの第十番目の本で、巻末には著者による「このシリーズを十年続けてきたけれど、これで終わります」のことばが添えられている。実際に終了したのか、もしかしてまたつづいたのか、確認していないので知らない。
東海林さだおのエッセイはまさに雑文そのもので、読んでためになるようなことはほとんどないし、そんなことは死んでも書きたくない、と思っているのが東海林さだおである。だから軽薄で表面的なことだけがだらだらと書き連ねられているだけ・・・にみえるが、どっこい、その文章力をなめてはいけない。
とにかくさらさらと読み進みながら、そこに描かれていることが眼前にありありと見えてくる。ありありと見えてくるのは風景や事実だけではなく、心の働きまで見えるのだ。この人のセンサーは過敏なくらいだが、それがユーモアにくるまれて語られる。
そういえば、私も一目置く、作家だったか書評家が、東海林さだおの文章を誉めていたのを見て嬉しかったことを覚えている。誰だか忘れた。谷沢栄一だったかしら。
そのおもしろさの一端を紹介する。「伊豆にて自主トレ」という一文のなかから、漫画家の野球チームが、伊豆で自主トレと称して国民宿舎で一泊二日の合宿をしたときの話である。チーム結成以来初の併殺を達成したエピソードだ。
ランナー一塁で打球はショートゴロ、ゆるいゴロをショート(ぼく)はゆっくりと待ちうけ、ややファンブルしつつ捕球し、しかるのちに重厚な動作でふんわりとセカンドに送ると、セカンド(しとうきねお)は、ややわななきつつこれを捕らえ、しばしの躊躇と思案ののち、けっしてあわてることなくファーストへふんわりと送球した。
これだけの出来事が山積したにもかかわらず、超鈍足の走者は一塁でアウトになった。
だが併殺は併殺である。
6・4・3と渡ったダブルプレーであることにはちがいがない。
ぼくとしとうは、試合終了後も声高にこの壮挙を回顧し、人々の賛同をうながし、宿舎に帰って入浴のときももう一度声高に回顧し、食事のときにもう一度回顧したのであるが、賛同者は次第に少なくなっていくのであった。
« 乱れまなこの勝手読み(35) | トップページ | 小公子とアメリカ大統領選挙 »
コメント