けんこう館様から拙ブログに、「(前略)全体・真相を見ないで、(細部にこだわり・引用者註)ヒステリックな反応をしていては、先がない」という意味のコメントをいただいた。
それに対しての私の返事のコメント。
「どんどん内申書重視になっていくのは、入試に対する負荷を減らす効果があると考えられてのことのようです。
ここで生ずるのは、絶対評価ではなく、クラスや学校内での相対評価の価値観の重視です。そうなると、他の人を引きずり下ろすと、相対的に自分の価値が上がる、という思考にとらわれます。
突然何を言うのか、とお思いでしょうが、誰かを非難することが自分の値打ちを上げる、と擦り込まれた人が、あらゆるところにその矛先を向けて、攻撃することにつながっていると思うからです。まともな人はそういう人を軽蔑しますが、まともでない人が普通になり、まともな人の反論を許さなくなりつつあるのが現代であるなら、嫌な世の中です。」
いただいたコメントに対して、思いつきで書き出したので、文中にあるように唐突な話が繰り広げられているように見えるかも知れない。少し補足したい。
私が「お客様は神様です」ということばを毛嫌いするのは、在職中営業という役割に従事してきて、そこでときに理不尽な人に出会ったことが理由かも知れない。そんな人は滅多にいないのだが、絶対的な正義を振りかざすので、一人だけでもかなりやっかいである。そういう人は同業たちからも鼻つまみの担当者とみられていたが、ご当人は全くお気付きでない。
また唐突な話になった。書いている本人もどこへ行くか分からない。うまくおさまればよいが。
クレームは大事にしなければならない、という。クレームのなかに本質的な問題が隠れていることがしばしばあり、それに対処することで、会社として大きな改善が得られることが多いからだ。しかし、クレームを付ける人のなかに、本気で自分が「神様」だと思い込んでいる人がいる。
そもそも現代は、人間はみな平等である。クレームを付ける人もそれを受け付ける人も対等である。クレームを受ける方がへりくだって受け答えし、反論しないのは、ただただ功利的な理由による。それを嵩にかかり、罵倒し、自分の損なわれた利益をはるかに超えたものを要求し、無理難題を言うクレーマーは、神様ではなく悪魔のようである。社会にはなんの益もなく、感情的なしこりだけが残る。
学校に異常なクレームを付けるモンスターペアレンツの話を見聞きするに付け、この「お客様は神様です」の三波春夫の声が聞こえる。
平等ではあっても、人間は千差万別であるように、子供も千差万別で、その能力もそれぞれ違う。それは体重や身長、容貌が違うように、違う。ところが、現代の神話として「子供はちゃんと教育を受ければ、みなおなじように一流大学に受かる」、「成績が悪いのは備わった能力の問題ではなく、教育などの環境の問題である」が信じられている。
「ビリギャル」という映画がうけるのも、そういう神話のなせるものであろう。もちろん能力があっても、努力なしによい成績が取れないのは自明なことで、能力があって努力しない者と、そこそこの能力しかないがよく努力する者とでは、後者が必ず勝利することは、「ウサギとカメ」の話を持ち出すまでもないことであろう。ビリギャルは努力すればそういう結果が出る、というもので、能力がないものが勝利する、というものではないはずだ(なにせ観ていないので)。そもそも努力出来る、というのは最大の能力なのだから。
そんなことがあやふやになった学校教育の現場で、点数主義が否定されている。点数をもって生徒を序列づけてはならない、という理由から、いままで以上に内申書重視に移行しつつある。点数はおおむねテストの結果であるから、教師の偏見は入りにくい。しかし、内申書となれば、偏見の入り込む可能性は増大する。私も小学生のときは特定の教師と相性が極端に悪い時期もあり、テストのときはそこそこなのに、通知表はかなりひどい成績を付けられた。さいわい親はこちらを信じて、通知表を見て笑っていたので心強かったが。
そもそも点数による評価を否定する心性にこそ、点数主義が隠れている。点数はたまたまある教科の知識を習得したかどうかの結果を見るためのものである。だから点数の評価が、その生徒の全人格を評価する、などということではないので、それをさも平等主義に反するが如き言い方で否定するのは、点数が生徒の人格を評価する、と見ているからにほかならない。
ますますどこへ向かうか、わけが分からなくなってきた。
すでに重視されてきた内申書的な評価は相対的である(そもそも通知表の評価はクラスのなかでの本人の位置づけ的側面が大きい)。数が限定されている集団のなかの相対的な評価が定常化するとどうなるか。自分の立ち位置を上げるための努力に要するエネルギーよりも、他人を引きずり下ろすために必要なエネルギーの方がしばしばはるかに少なくてすみ、容易である(この言い方、内田樹老師の本で読んだような・・・)。
このテクニックと生き方を生徒は長年にわたって学校で学ぶ。身についたその思考は、社会ではたいてい通用しない。評価は相対的な面もあるが、同時に絶対的な評価があるのが普通である。なにせ集団が学校よりはるかに大きいからだ。
そこでたいていの人間は自分の思考に修正を加えるが、それが出来ない人間がいる。だから他人を非難し、なんとか引きずり下ろそうとする。民進党の揚げ足取りの姿勢に、その実例が見える。自民党安倍政権を非難すれば、自分たちの立ち位置が上がる、と確信しているのがよく見えるではないか(私だって安倍政権が全部正しいなどとは思っていないが、少なくとも安倍首相は、何をしようとしているのかよく分かる。しかし民進党は日本をどうしたいのかさっぱりわからない)。
シールズのラップ踊りにうんざりするのも、彼らの主張そのものよりも、その自己陶酔的な正義感の故である。マスコミが、権力の暴走や、腐敗に対してメスを揮うのは、役割として当然である。ところが、しばしば枝葉末節としか見えないあら探しには辟易する。読者聴取者の知りたいという要望に応えている、というのなら、日本人は悲しいことに、そのようなのぞき趣味者が多い国民となりはてたのか。
なんとなくおさまりかけてきたぞ。
他人のあら探しをして、正義の味方を自認し、シュプレヒコールと共に叫ぶ人たちに、身体に染みついた、その他人を引きずり下ろせば自分が上がる、という思考が働いている、というのが私の結論である。
蛇足だが、韓国の反日にはまさに日本と韓国という限られたなかでの相対主義が見えるではないか。しかし韓国がいくら日本をこき下ろしたところで、韓国の地位が上がるわけではない。韓国がここまで成長し、発展出来たのは、そんなやり方などせずに、しっかりと日本に追いつき追い越せと努力した多くの人たちがいたからにほかならない。
これでけんこう館さんの「--ヒステリックな反応をしていては先がない」ということばに対する私のコメントの、思考の流れが多少は説明がついたであろうか。やはり無理か。
長文乱文多謝
お慰みに写真を添えましたが、本分とは関係ありません。
最近のコメント