危うし、知識人
中国の習近平国家主席が知識人の代表との会合で「共産党・政府の指導者・幹部は知識人からの批判を歓迎すべきだ」と述べた。
さらに「批判に誤りがあって正確ではなくても、包容力を持って寛容であるべきで、弱みにつけ込んだり、レッテルを貼ったり、懲らしめてはならない」とも述べた。
習近平政権は知識人に対する言論統制を強めており、内外からの批判が高まっていることを意識しての発言だろう、とニュースは伝えている。
中国の近現代史に多少の知識のある人なら、必ず思い出すことがあるはずだ。毛沢東に権力が集中しつつあるとき、それまでの中国国民のため、という施策よりも、「国家のため」と称しながら毛沢東のための施策が進められたことを批判する知識人からの意見が相次いだ。彼らは命がけだった。
それを見て毛沢東は「言いたいことをどんどん言ってくれ。それを歓迎し、参考にしよう。批判的意見を言ったからといって処罰したりしない」と国民に約束した。
そこで中国の知識人は「国のため、国民のため」に良かれという気持ちから、いろいろな提案をしたり、国家の施策に対する問題点の指摘を行った。「百花斉放(百花争鳴)」と呼ばれるこの全国的な盛り上がりは、中国の未来に大きな希望を抱かせた。
約一年後、毛沢東は「右派分子たちが、社会主義を批判している」と言う社説を新聞に発表。その後、掌を返したように言論統制と、批判した知識人達への弾圧を開始した。拘束され、拷問を受けて廃人になったり、死亡した数がどれほどあったか分からない。
最初は批判に高をくくっていたのが、思った以上の盛り上がりに危機感を覚えたのだろう。最初からそのような知識人をあぶり出そうとした、とまでは言い切れないが、その可能性も否定しきれない。
たぶんそのときに批判的意見や提言をした人々こそが中国の良識であり、国を支える能力のあった人たちだったのかも知れない。しかし彼等は粛清された。それが後の文化大革命の時に繰り返され、知識人であることがすなわち悪である、として紅衛兵たちの暴走のターゲットとなり、百花斉放後の粛清の犠牲者をはるかに超える、恐ろしいほどの数の犠牲者を生んだ。一千万とも二千万とも言われる人が殺されたとも言われる。少なくとも数百万単位であったことは、中国政府自身が認めている。
そのことを習近平が知らないはずがない。言論統制を強化しながら、自由にものを言ってよい、などという矛盾したことを言う習近平を信じられるだろうか。それでも言ってもいいと言われたら、ついどんどん言う人間がいるだろう。中国では過去の歴史は隠されているとはいえ、知識人たるものが全然そのような前例を知らないということはないだろう。ところが知識人というのは、ものを言いたくてたまらないものだ。
だから、危うし、知識人。
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