どうしていけないの?
三菱自動車が不正行為をしていたことで非難を浴びている。悪いこととは知りながら、やめられなかった人たちがいた。自分だけ、「これは間違っている」と言い立てることができなかった人たちがたぶん少なからずいただろう。誰かが言い出せば是正されたかどうか、今となっては分からない。
どうしてそうなったのか、弾劾する方は正義の立場だから、正論で追い詰めるが、たぶん非難される側にも言い分がないわけではないだろう。ただ、そんなことを言えば火に油を注ぐだけだから沈黙している。
以前、人殺しはいけないことだ、と語った教師に、「先生、なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問した生徒がいた。教師はうまく答えられずに、最後は絶句した。このことがマスコミでとやかく言われ、なるほど、と思うような答えもあった(小浜逸郎氏の答えなど「なぜ人を殺してはいけないのか」洋泉社・のちPHP文庫)けれど、ほとんどは生徒を納得させるようなものではなかった。
数多くの論客がすっきりした答えが出せないものをわたしが出せるわけもないが、そのときの小浜逸郎氏の答えを参考にすれば、そもそもこの生徒はこの質問の答えを本当に聞きたかったのか?ということがまず気になる。質問には何らかの解答の期待がなければならない。わたしには、この生徒は先生が答えに窮することを期待はしただろうが、どんなことを答えても、それに「どうして?」を重ねる用意をしただけで、答えを求めていなかったのだと思う。
そんな質問にはそもそも意味がない。意味のないものに真摯に答える事自体が徒労であろう。頭の体操にはなるが。
熊本大地震の混乱に乗じて、地震情報を聞いてすぐに現地に乗り込んで窃盗を働いた連中がいるという。阪神大震災の時にも数多くの窃盗があり、それで味をしめた者がいたという。それを聞いて今度は俺もうまいことやろう、と手ぐすね引いていたのかも知れない。東日本大震災の時にもいただろう。
誰かがうまいことをやっているなら今度は自分も、という心性を人はどこかにもっている。しかし人はふつうはそれを抑える。それが犯罪であればもちろんだが、合法的であっても「うまいことやる」ことに抵抗がある。それが「うまいことができるときにはやる。やらないのはバカだ」というのが中国だろう。そんな国や人々はいくらでもあるにちがいない。
彼らこそ「どうしていけないの?」と問うだろう。
パナマ文書が暴露されていろいろ議論があるが、「タックス・ヘヴンは合法的な行為である」ということばを繰り返し聞いた。そうなのだろう。では合法的なことがどうして非難されるのか。「うまいことやる」ことに対しての抵抗の裏返しの気持ちが大いにあるはずだ。だから非難されている人たちは「どうしていけないの?」と反論する。
人がうまいことやることに抵抗感があるのは、他人よりも自分が利益を余分に受け取ることに対するやましさの故だと思う。だから列に並んでいるときに割り込むようなことは、ずるいこととして非難される。
しかし、金銭的なことになると、しばしば人はその抵抗感を見失う。「うまいことやった」人に対する非難が、ずるさに対する不快感よりも、実は、「自分もうまいことやれたら良かったのに」という嫉妬から生じているとすれば、「どうしていけないの?」という反論に窮することになるだろう。
それは、「自分はうまいことができるときにもうまいことをしない」と意識して生きることでしか回答出来ない質問なのだろう。
こうして「どうしていけないの?」という問いが自らに問われることなく拡大して、人の生き方の倫理的なものが見失われていき、ついには「どうして人を殺してはいけないの?」という質問につながっていく。世界はますますそのような、倫理観を喪失した時代になりつつある。
わたしは子どもたちに「損をしても平気でいられるような人間になれ」という意味のことを教えたつもりだ。覚えているかどうか知らないが、少しは頭の片隅にあると有難い。サバイバルだったり弱肉強食だったりする現代では、生きにくい生き方を選ぶことになるが、それに耐えられる強さこそ、本当に強い人間であるという美学を信じたい。ではわたしは?意識はしているつもりだが・・・。
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