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2016年4月 1日 (金)

北大路魯山人(平野雅章編)「魯山人味道」(中公文庫)

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 細かい活字で300ページあまり、それを一日数ページずつ読み進めていたので、読了するのに一ヶ月以上かかってしまった。

 昭和初期から亡くなる昭和34年までの、魯山人が書いた小文が多数と、大小の講演会での講話を文章にしたものなどがまとめられている。魯山人の主張と価値観はほとんど変わらないし、語るのは料理と美についてだから、書かれていることは、多くが同じことを言い換えているだけである。素材別に詳しく書かれているものなどは傾聴に値するが、一度読んだ総論的美意識については三度読めばあとは又か、と思うだけである。

 編者である平野雅章氏はたぶん魯山人の傾倒者であろうから、大事なことだから繰り返しても心地よいかも知れないが、そこまで思い入れのない読み手(私のことです)はちょっとうんざりする。たぶん半分にしてもまったく問題ないのではないか。

 この本については、子母沢寛の「味覚極楽」との比較で一度取り上げ、ちょっと辛口の批評をしたが、読了しての印象は変わらない。魯山人の美意識、鑑賞眼、味覚の敏感さは人に秀でたものであることを認める。しかしその劣っているとみなしたものに対する切って捨てたような物言いは、人に嫌われたであろう。

 直接的ではないが、こんな文章を読んでどう思われるだろうか。少し長くなるが引用する。


 私は美味いものが好きで、昔から手の及ぶかぎり、事情の許すかぎり、美味いものを食って来た。私は書を愛するところから、これも力の許すかぎり、書を見て来た。その他、建築にせよ、庭園にせよ、およそわれわれの生活を美化する一切のものについて、力の及ぶかぎり手を伸ばして来た。しかるに、はじめはいろいろ外国のものなどに魅惑されるのであるが、やがて目が肥えるに従い、次第に日本のものがよいということが分かって来る。これは書にせよ、絵にせよ、陶器にせよ、料理にせよ、建築、音楽、花にもせよ、庭にもせよ、すべてについて言えるのである。たとえば書である。書は誰でも初心の頃は、一応中国人の書に惹きつけられるようである。私も初めは、中国人の書をよいと思った。しかるに、少しく書が分かって来ると、自然と日本人の書に帰って来る。

 中国人の書は、形態はよいが内容において欠けている。言わば、役者の殿様が衣冠束帯をつけたようなもので、なるほど、見てくれは殿様らしく立派だが、所詮、役者の殿様であって、本物ではない。すなわち、内容がないのである。風采容貌だけだ。これは陶器についても言える。中国で出来た古染付などというものは、時代の反映となって、中国のものとしては、なかなか秀れたものである。けれども、現在このよい陶器を生かし得るものは、中国人ではなく、日本人である。又、日本に陶器が移ってからは、単なる陶工の造り物であったに過ぎないものが、立派な芸術と化して創作されるに至っているのを見ても分かる。

 翻って、料理を見るならば、その差は一層明らかに看取される。まず日本は、第一に料理の材料たる魚類でも、野菜でも、肉でも、あらゆるものが、比較にならないほど立ち優っている。料理の技においても、私から見て、中国人に学ぶべきなにものもなしと言ってよい。

 絵でもそうである。印刻においてもそうである。だが、これはひとり中国に対して言えるばかりでなく、広く欧米諸国に対しても同様のことが言えるのである。

 私は洋画というものが、形や柄の表面美に囚われていて、ものの神髄を掴む点においては、到底日本の線描名画に適し得ないものであると思うが、仮に百歩を譲って、洋画には洋画でなければならない点がありとするも、日本人は、立派に描き得るが、外国人にして日本画をよくするものあるを聞かない。ただに絵ばかりではない。建築でもそうである。音楽でもそうである。日本人は西洋人の建築を立派に自分のものとして造り、洋画も相当なものであるが、外国人にして日本音楽を解し、これを日本人の洋楽における如く、一人前によく成し、よく歌うものあるを聞かない。まして延寿太夫の如き清元を、あるいは義太夫をあるいは謡曲を解し歌い、且つ語る者に至っては、恐らくただの一人もないであろう。彼らには安来節ひとつ満足に歌うことが出来ないのである。

 ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが独り世界に冠絶した素質を有するか考えざるを得なくなった。これは、なにもお国自慢でもなんでもない。あらゆる方面における作品と行為を見れば見るほど、私のみでなく、誰だってその感を深くすることであろう。(昭和十年)


 まだまだ魯山人の日本賛美はつづくが、ここまでとしよう。 

 思うに、魯山人は自ら求める美を極め、彼の求める至高に至ったのであろう。その独立峰とも言うべき魯山人の山には、他人はとりつく島がなかった。魯山人の供する料理を、そして器を褒めそやした人々は、真に魯山人を理解していたのだろうか。魯山人は優れていたのだろうけれど、彼の求める美は彼だけのものであった。だから彼の美意識から見れば、中国だろうが欧米だろうが、よその山の話なのであろう。不遇に始まり、絶頂を極め、そして晩年再び不遇のなかに死んだ魯山人は、自らの狷介さをエネルギーにして、彼だけの快楽を追求した人のようである。

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