会田雄次「新選 日本人の忘れもの」(PHP)
昭和52年(1977)出版の「表の論理・裏の論理」、昭和55年(1980)出版の「逆説の論理」、昭和47年(1972)出版の「日本人の忘れもの」の三冊から抜粋し、一冊にした本である。
会田雄次といえば、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)にあったイギリス軍統治の捕虜収容所での経験をもとに、西洋文明の本質とは何かを考えぬいて書いた「アーロン収容所」で知られる。この本を若いときに読んで、文化の違い、人間の違いというものについてずいぶん考えさせられた。
常に著者の根底にはそれがある。それと、こちらの本にしばしば念を押すように書かれているのは「人間とは哀しいものだ」ということばである。過去の日本人にはごく当たり前に理解出来るこのことが、西洋人には不思議な思考にしか見えないのではないか、と著者は云う。しかもその「人間とは哀しいものだ」という思いを、今の日本人は失いつつあるのではないか、という嘆きのようなものが読み取れる。
たぶん中国や韓国でもそのような「人間とは哀しいものだ」という思考は希薄であるように感じる。
正しいか正しくないか、という論議が喧しい。しかし物事には半分正しくて半分正しくないこともあるし、ほとんど正しくないけれど、少しだけ正しいこともある。それは人間が全く正しい人と、全くの悪人がいることなどないのと同じで、当たり前のことなのに、それが見えなくなっている。
池波正太郎が鬼の平蔵の口から、人は悪事ばかりしていても、ときに思わず善行をしたりするものだ、と語らせる言葉にも表れていて、その意味は私などには即座に理解出来る。自分が不実な人間であることを知っている。不実であることを知っていれば、どうにかそう見えないように実を込めようと意識するものだ。
いま、民進党などが昔の社会党とおなじように、何でも反対、といっている。安倍政権の政策に不満なところもあるけれど、この点は賛成だ、という冷静な、是々非々の論議を行おうとしているように見えない。安倍首相は悪者だから、すべて否定する、という姿勢である。まるで毒を吐く怪物であるかのようにあしざまに言う。
その、自分は正義だから相手は悪、という物言いにはうんざりしている。谷沢栄一が「正義の味方の嘘八百」という本を書いていて、その怒りはよく分かった。なにさまのつもりなのか、と言う物言いが、代議士ばかりでなく、マスコミでも頻繁に聞かれるのは嘆かわしい。そう書いている私も同様か。
なぜそうなるのか、それがこの本に著者流に解析されている。一部釈然としないこともあるが、それは書かれた時期と現代との時代差によるものかも知れない。現代はこの本が書かれたときよりも、より嘆かわしい状況なのだろうか。
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