話を聴かない
テレビで、コメンテーターが意見を言っている最中に、言葉を差し挟む人がしばしば見受けられる。たしかに自分の意見ばかりを滔々と述べていて、放送時間を独占してしまうが如きコメンテーターもいるから、口を挟みたくなる気持ちが分からないこともないときもある。しかし、じっと他の人の話を聴いたあとで、自分の意見を語りだした人の、肝心のところで、平然と腰を折るような割り込み方をする者がいる。
自分の語りたいことだけを語り、人の話を聴く気がないとしか思えない。そのような人を見て私などは不快感を感じるが、それを不快と感じない人も多いから、ふたたびみたび番組に呼ばれるのだろう。
世の中が、自己主張を良いこととして強めていく風潮は、今まで日本や日本人が、自己主張を抑制してきたことの反動なのかも知れない。沈黙よりも自己主張が美徳とみなされる時代になったのか。黙っているのをいいことに、あることないこといわれ放題に言われ続けていた、という気持ちの反発が、このような風潮につながっているのだろうか。
団塊の世代のしっぽにつながる者として、正義の名による自己主張の嵐を見聞きし、その場に居たこともある。政治活動のようなものはしなかったけれど、それらの人と対峙したことは少なからずあった。学生寮に暮らし、オルグ活動(情宣活動である)にやってくる人々と言い合いをした。教条主義を毛嫌いする敬愛する先輩のもと、寮を防衛しようとしたのだ。
こちらのお粗末な論理でもなんとか追い返せたのは、先方は地方の駅弁大学の寮など、本気で攻略しようとしていたわけではなかったからか。どちらにしても、やって来たのがみなたいした知識のない低レベルの連中だったことが幸いであった。下手したらこちらも取り込まれかねなかったのだから。
そんなときでも、真摯に思いを伝えれば、相手はこちらの話を聴く耳を持っていた。だから互いが違う思想の持ち主であるけれども、敬意を持って遇するに足る者である、という点で了解出来、感情的、暴力的にならずに別れることが出来た。
今、テレビで見ている世界は、私にとって驚くべき世界である。もともとそうなので、驚くにあたらないのかも知れないけれど、人と人とが互いに相手の言い分を全く聞こうとしなくなったように見える。
これでは交渉など成立しないのではないか。交渉は利害の反する者どおしの自己主張の場である。しかしそこに妥協点をさぐる、つまり妥協点があること、それを求めようと思うことにおいてだけは最初からの一致点、出発点であることが了解されている。
さらに交渉によって決まったことは(互いがよほどの理由が無い限り)それを遵守することも了解されている。
人間はそうして数々の危機をなんとかくぐり抜けてきた。その人間の知恵があみ出した危機回避の方法のひとつが民主主義だと思う。だから意見の対立があっても、最終的には多数決で決めて、決まったことには従う、というルールを了解したのである。
そしてもうひとつが、代議制、というシステムである。各個人がすべて参加してものを決めるのは、物理的にロスが大きいから、優れているとみなす代表者を選び、その代表者たちに物事を判断し、決めてもらう、という方法を採用しているのである。
書いているうちに話がだんだん拡大したが、民主主義というものはそういうもので、相手の言い分を聴くことが前提である。
社会主義の国が、相手の言い分を聴かない社会であることは、北朝鮮や中国のニュースを見ていれば、だれにでも分かることだろう。ところがテレビを見れば自分の言いたいことだけを言い、相手の言葉を遮り、話を聴かないという場面をしばしば見せられる。
甚だしい場合は、司会者自らがそのようである。
これが私が不快を感じる、という所以である。
司会者の隣の女性が、ときに相手の話を聞いた上で、全く話を聞いていなかったとしか思えない、自分の考えをもとにしたことばを挟むことがあり、これも不快だが、これは不勉強により、擦り込まれた自分の知識内でしか考えられない愚かさの故であるから、なんとか我慢することにしている。
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