和田正信「中国旅行がしたくなる本」(連合出版)
この本が出版された(1995年)当時、著者はJTBに勤務し、中国滞在の後、東京支店次長。2003年に退社し、現在は中国旅行の旅行会社を立ち上げている。
この本では中国旅行の楽しみ方(それは海外旅行の楽しみ方ということでもあるが)を自分の体験による実感から伝えている。
安全で、安心で、しかも楽しい旅を期待するのなら、自宅のこたつの前のテレビの海外紹介番組を見るべし、と著者は言ってのける。同感である。海外に行けば、物事は予定どおりにいかず、不愉快な思いをたびたび経験し、腹も立ち、というのが当たり前のことで、次第にあきらめの境地に到り、ついにはその予定どおりでないこと、不愉快な経験そのものを楽しむ、というところまでいって、初めて海外旅行をした、といえるのである(ちょっと負け惜しみっぽいが、その方が思い出に残ることは間違いない)。
この中で紹介されている旅行のコースのひとつに、北京の万里の長城で初日の出を見る、というのがあるが、これは著者の発案だという。何度か述べているが、私もこの企画のコースで、八達嶺の2000年の初日の出を子どもたち二人と拝んでいるのだ。
この本はただ、中国旅行は面白いよ!と客を誘う本ではない。
著者の体験した数々が、いかにも理不尽な中国そのものなのだが、その中国人の発想そのものの不思議さを通して、日本人と中国人の違いを識るのである。そして日本人の考え方こそが正しい、という発想が、いかに井の中の蛙であるか、それを気づかせてくれる。そういう発想、そういう考え方もあるのか、と気づくことの意味の大事さを識ること、それが海外旅行の目的であり、楽しみなのだ。
本文中から面白いエピソードを引用する。日本人の考える「サービス」というものが中国人にどう受け止められたのか、という話である(いまはだいぶ変わったけれど)。
日本から初めて進出してきたホテル・マネッジメントは中国人従業員とのコミュニケーションを深めることを目的にその代表と定期的な会合を持つことにした。
その最初のミーティングで経営の代表はこう言った。
「ホテルとしてお客様への感謝の気持ちを常に忘れないで欲しい。又、それを態度で表すようにして欲しい。例えば、ロビーに居たとして、入館するお客様には『いらっしゃいませ』と頭を下げ、お帰りになるお客様には『有り難うございました』と頭を下げる、といったように」
これに対する従業員代表の反応は、
「よく意味が分からない」、であった。
日本人マネージャーはごく当たり前のことを当たり前に言っただけなので、「意味が分からない」という意味が分からない。聞いてみるとこうだ。
「よい場所を選び、立派な設備を備えてここにホテルを造りましたね」
「その通り」
「多くのお客が来ると思って造りましたね」
「その通り」
「お客が来るのは、そういったものに魅力を感じて、自分の意志で来るのですよね」
「その通り」
「だとすれば、私たちはお客の要望を満たしているわけですね。私たちは役に立っているのですね」
「その通り」
「だとすれば、感謝すべきなのは、私たちではなくお客の方ではないでしょうか」
さすがにここでは「その通り」とはいわなかった。
中国人は、人に頭を下げる必要がない生活を最も尊ぶべき理想の生活と考える、ということの意味がこのあと詳しく分析されていく。
中国人の夫婦喧嘩の話。
中国人は夫婦喧嘩も他人に聞かせるためにするという。夫が妻に向かって、あるいは妻が夫に向かって何かを言うのではない。通りやベランダに出て、自分の正しさ相手の非道さを大声で怒鳴りあう。当人たちは舞台の上の弁士であり、近所の人たちは観客兼陪審員になる。周りに向けたパフォーマンスである。
「野次馬が居ないと、中国人は喧嘩をしないだろうか?」
中国人の知人にこう尋ねたことがある。
「当たり前ですよ。見る人もいないのに喧嘩をしてどうするんですか。バカみたいじゃないですか」
「しかし当人同士のコミュニケーションでもあるでしょ」
「そういう面もないことはないかも知れません。しかし周りがあっての当人同士ではないですかね。中国人は内輪と外側をいつでも意識していますよ」
こういうことではないだろうか。
大勢の人間に取り囲まれた環境が中国人の生きる精神風土である。彼は常に群衆に見られている。見られていることを意識している。同時に、常に群衆のひとりとして誰かを見ている。
(中略)
ともかくも、日本人の観光客は、「彼らはどうして他人の喧嘩には走って寄っていくのに、このレストランのウェイトレスは俺のところに注文を取りに寄って来ないんだ」、とイライラしながら待たされることになる。
これは私も同様な経験をした。
こういう話が満載である。その体験をついには楽しむようになった時、日本人と中国人は違うのだ、という当たり前のことが、知識ではなく、実感として分かって来るのだ。そのことは、つまり自分と他人とは違う、という分かっているつもりでも、実は人はみな同じ、という間違った教育を受けてきた日本人には、つい忘れがちの事実を思い知らせてくれることになるのだ。違うからこそ話すことで理解しようとする。同じだと思うから相手が間違っている、悪意がある、と思う。その差はとても大きいことなのだ。
私がものの考えの基本の一つにしていることを分かりやすく書いてあるこの本は、案外の掘り出し物なのだ。
もうひとつ面白い文章があるのだが、次の機会にする。
« 帰雲城址(かえりくもじょうし)とお小夜稲荷 | トップページ | 国と民族 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 前回の具体例(2025.01.28)
- 激越な文章にあおられて熱くなる(2025.01.27)
- 『塩の道』備忘録(1)(2025.01.26)
- 製塩と木地師の里(2025.01.24)
- 痛快な毒舌、罵詈讒謗(ばりざんぼう)(2025.01.23)
眼病を患っている私、著しく読書力が衰えました。
でなければ、ご紹介の本を全部読みたいぐらい興味がわきます。
貴ブログを拝見するだけでも本の面白さが伝わるだけになお目の衰えが悔しい。
遅まきながらこんな良い本があったのかといつも思います。
投稿: おキヨ | 2016年4月 4日 (月) 13時15分
おキヨ様
私が糖尿病の治療の指示に素直にしたがっているのは、なにより眼を大事にしたいからです。
網膜剥離などになって、目が見えなくなったら、人生はそれこそ真っ暗です。
それにしても、以前読んだ本を読み直すと、新しく気が付かされることが多いです。
それだけ雑な読み方をしていたのでしょう。
とはいえ、多少の経験と知識が備わった点もある(と思いたい)はずです。
投稿: OKCHAN | 2016年4月 4日 (月) 16時11分