先崎彰容(せんざきあきなか)「違和感の正体」(新潮新書)
久しぶりに新しい視点を知る喜びを教えてもらった。内田樹老師以来かもしれない。標題や帯の文句から、単純なリベラル平和主義批判かと思うかもしれない。私もそんなつもりで購入した。読んでいて正義の味方に対しての痛罵が気持ちいいと感じることもあるからだ。
ところがそんな揚げ足取りの本ではなかった。帯の端に書かれた「本格社会評論」というのがこの本の正しい位置づけなのだ。
なぜ国会前のシールズの集会やそれに和しているリベラル政治家や音楽家がうさんくさいのか、それをうさんくさいと感じるこちらに問題はないのか、そんなレベルのことを論じた評論ではないのだが、読み終わると結果的にそれに自分なりの答えが出て、すっきりしてしまう。
デモや集会についてのテーマでは、カール・シュミットが、教育論では福沢諭吉が、時代閉塞論では石川啄木が、反知性主義論では北村透谷とエマソンが、平和論では高坂正堯が、沖縄論では吉本隆明が、震災論では江藤淳が、時代を読み解く診断士の役割を与えられて、その言説を手がかりにそれぞれの新しい見方考え方を提示する。
だからそれぞれの論を読みながら、診断士(つまり石川啄木や江藤淳たち)の人たちの見方考え方を知り、それを通して自分の頭にこびりついたものの見方考え方の洗い直しを迫られる。それが快感なのだからこの本は私と相性がいいのだろう。
著者はこの春から日大の教授。福島県在住で、原発から40キロ圏内に住んでいて、埼玉に自主的に転居した経験を持つ。破綻した生活からようやく再建の過程にあるらしい。
生活が全面的に崩壊した経験は、観念的な平和論とは別のものではあるけれど、観念的な考えなどは生活の危機の前では吹き飛んでしまうのだ。そのことは経験者のみしか分からないことで、私は母の空襲体験と、焼け出されたあとの苦労話を子供の時に再三聞かされていたから、実感として多少は分かる。実感と観念のどちらを優先して思考するのが正しいのか。この本はその当然のことを原点から見直す必要があることを知らせてくれる。そしてその実感のたたき台が、過去の優れた思索をしてきた人たちの文章のなかにちゃんとあることを気づかせてくれる(ちょっと分かりにくい。この本を読めば分かるだろうか)。
幸福のみしか知らず、家族に問題もなく、人生の波風の経験のない人にしばしば冷たい人がいる、ということを何度か書いた。これは私の経験から云っている。眠れないほどの、自分の力ではどうしようもないつらい事態の経験のない人には、人の痛みは分からないものだ。
なぜ突然そんなことを言うのか。脳天気な平和主義者の集まりに、しばしばそのような幸福そうな人々が集っているのを感じるからだ。イルカのために頑張っている人にとてもよく似ている。
苦労を知らない人がしばしば弱者のために論を張り、ときに弱者を装う。
そしてそれらの言説にまともな人はしばしば違和感を感じる。その違和感は正当であることをこの本は懇切丁寧に裏付けてくれている。良書である。
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