小さな出来事(魯迅「吶喊(とっかん)」から)
少し長いですが、出来れば最後まで読んで下さい。
魯迅をご存じだろうか。中国の大文豪である。代表作の「狂人日記」や「阿Q正伝」などを読んだことのある人もいるだろう。彼は日本への国費留学生として仙台医専にやってきた。そのときに見せられたスライドを見て医師になることを辞め、文学者になることにしたのは有名な話である。医学を修得して中国人の身体を治すことより、まず文学から精神を治さなければならない、と考えたのだ。
どんなスライドだったのか。ロシアのスパイであるとして日本軍に逮捕された中国人が、引き据えられて日本刀で斬首される様子を映したものだ。魯迅が見たのはその様子を眺める同胞の中国人たちの姿だった。
魯迅の初期の作品集である「吶喊」には、そのような中国人たちの姿が描かれている。「狂人日記」や「阿Q正伝」もここにおさめられている。ここに描かれている中国人は、現代風にいえば目覚めていない。ただ、いまの中国人が魯迅の期待したように目覚めているのかといえば、それも心許ない。日本人だって同様だ。
そんな「吶喊」の中に「小さな出来事」という小文がある。今回ちくま文庫の魯迅文集を拾い読みしていて、思うところがあった。反芻するためにここに全文を紹介してみたい。
「小さな出来事」 魯迅(竹内好訳)
私がいなかから北京へ来て、またたく間に六年になる。その間、耳にきき眼に見た国家の大事なるものは、数えてみれば相当あった。だが私の心にすべてなんの痕跡も残していない。もしその影響を指摘せよ、と言われたら、せいぜい私の癇癖をつのらせただけだ--もっと率直に言うと、日ましに私を人間不信に陥らせただけだ、と答えるほかない。
ただひとつの小さな出来事だけが、私にとって意義があり、私を癇癖から引きはなしてくれる。いまでも私はそれが忘れられない。
それは民国六年(*)の冬、ひどい北風が吹きまくっている日のことである。私は生活の必要から、朝はやく外出しなければならなかった。ほとんど人っ子ひとり歩いていなかった。ようやく人力車(**)を一台つかまえ、S門(***)まで行くように命じた。しばらくすると北風がいくらか小やみになった。路上の埃はすっかり吹ききよめられて、なにもない大道だけが残り、車はいっそうスピードをました。やがてS門に行きつこうとするころ、不意に車のかじ棒に人が引っかかって、ゆっくり倒れた。
倒れたのは女だった。髪は白毛まじり、服はおんぼろだ。いきなり歩道からとび出て、車の前を横切ろうとしたのだ。車夫はかじを切って道をあけたが、綿のはみ出た袖なしのうわ着にホックがかけてなかったために、微風にあおられてひろがり、それがかじ棒にかぶさったのだ。さいわい車夫がはやく車をとめたからよかったものの、そうでなかったら、ひっくり返って頭を割るほどの事故になったかもしれない。
女は地面に伏したままだし、車夫も足をとめてしまった。私は、その老婆がけがしたとは思えなかったし、ほかに誰も見ていないのだから、車夫のことを、おせっかいな奴だと思った。自分からいざこざをおこし、そのうえ私にも迷惑がかかる。
そこで私は「何ともないよ。やってくれ」と言った。
しかし車夫は、耳も貸さずに--聞こえなかったのかもしれないが--かじ棒をおろして、老婆をゆっくり助けおこし、腕を支えて立たせてやった。そして訊ねた。
「どうしたね」
「けがしたんだよ」
私は思った。おまえさんがゆっくり倒れるところを、この眼で見たんだぞ。けがなどするものか。狂言にきまってる。じつに憎いやつだ。車夫も車夫だ。おせっかいの度がすぎる。それほど事をかまえたいなら、よし、どうとも勝手にしろ。
ところが車夫は、老婆の言うことをきくと、少しもためらわずに、その腕を支えたまま、ひと足ふた足歩き出した。私はけげんに思って前方を見ると、そこは派出所だった。大風のあととて、外は無人だった。車夫は老婆に肩を貸して、その派出所をめざした。
このときふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかもかれは、私にとって一種の威圧めいたものに次第に変わっていった。そしてついに、防寒服に隠されている私の「卑小」をしぼり出さんばかりになった。
このとき私の活力は、凍りついたように、車の上で身動きもせず、ものを考えもしなかった。やがて派出所から巡査があらわれたので、ようやく車からおりた。
巡査は私のところへ来て言った。「ご自分で車をひろって下さい。あの車夫は引けなくなりましたから」
私は反射的に、外套のポケットから銅貨をつかみ出して、巡査に渡した。「これを車夫に・・・」
風はまったく止んだが、通りはまだひっそりとしていた。私は歩きながら考えた。しかし考えが自分に触れてくるのが自分でもこわかった。さっきのことは別としても、このひとつかみの銅貨は何の意味か。かれへのほうび?私が車夫を裁ける?私は自分に答えられなかった。
この出来事は、いまでもよく思い出す。そのため私は、ここ数年の政治も軍事も、私にあっては、子どものころ読んだ「子曰く、詩に云う(****)」と同様、ひとつも記憶に残っていない。この小さな出来事だけが、いつも眼底を去りやらず、ときには以前にまして鮮明にあらわれ、私に恥を教え、私に奮起をうながし、しかも勇気と希望を与えてくれるのである。
*民国六年・・・1917年。辛亥革命のあった1911年の翌年1912年を民国元年とする。
**・・・人力車は明治初年に日本で発明され、中国でも普及した。日本のものと違い、中国の人力車はかじ棒が長い。車夫はかじ棒の根もと、客に近いほうを持って走るので、しばしば先で人に当たることがあり、わざと当たるものもいたという。
***S門・・・宣武門。北京の故宮の西側の門。
****子曰く、詩に云う。経書のこと。
注釈は竹内好の註から一部引用。
中国は、この小文に書かれた魯迅の気持ちを受け止めているのか。そういう私はなにを見失っているのか。引き写しながらいろいろなことを考えた。
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最近は…己に不利な物事は・・・深く考える時を持たずに・・・バタバタとプラス思考で生きています。読書量もずいぶん減っているで・・・・ガツンと一発くらった感じです。高峰秀子さんの本も図書館で探してみたいと思いました。
投稿: かすみ風子 | 2016年5月28日 (土) 22時03分
かすみ風子様
同じものを読んで同じように感じてもらえる人がいることは嬉しいことです。
高峰秀子の本はお薦めです。
投稿: OKCHAN | 2016年5月28日 (土) 22時16分