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2016年5月17日 (火)

陳舜臣「中国任俠伝」(文春文庫)

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 俠者とは他人のために、自分の身をかえりみない者である、と著者は書き、任俠映画のやくざ、あるいは暴力団のたぐいは、自分たちのグループの利害しか念頭にないから、任俠とは言えず、博徒、無頼--中国語では「流氓(りゅうぼう)」と呼ぶべき者であろう、と書く。

 いまはそれほどではないが、ひところやくざ映画や任俠映画が好きであったから、陳舜臣先生に反論したいところだが、現実のやくざや暴力団に、任俠映画に出てくるような、他人のために自分の身を捨てて生きる人物がいるとは思えないから、うなずくしかない。

 ただ、任俠映画の中の主人公達は、他人のために自分のすべてを投げ出すことをいとわないことも確かである。現実にはまずいないと承知しているものの、いるのではないかと願い、または多少とも自分もそうでありたい、と思わないこともない。

 この本には8話が収められている。ほぼ「史記」の世界の人物達である。最初が荊軻の話(秦の始皇帝暗殺を依頼され、あと一歩及ばず失敗した)で、これが第一に挙げられることで、著者が任俠というものをどうとらえているのか分かる。そして話は孟嘗君など、戦国の四君とその食客たちの話に転じていく。さらに季布、郭解、朱家などの典型的な俠者の話となると、男伊達を標榜することで、自らがそれにしばられて俠者としての生き方を選ばざるを得なかったという、皮肉な話に変じていく。

 とはいえ、そのような生き方を貫いたという点で、傑出していたことは確かであり、後世に名を残しているというのも事実である。そもそも他人のために身を捨てるという生き方をできる人間は滅多におらず、それは昔も今も変わらない。むかしはそれでもそのような生き方を美とする考えがあったが、今の中国ではそんな者はただの愚か者とみなされるだろう。

 しかし本の中で指摘されているように、そのように名を残すような人ばかりではなく、大事のために自らの身を捨て、しかも全く名を残していない人がいる。実はそのような名も残さなかったような人こそ、本当の俠者といえるのではないかと著者は云う。その通りであろう。歴史にはこのような人たちの屍が累々としていると言って良い。

 だからこの本は歴史に名を残した人と、それが記録されている文章を元に、著者がかなりフィクションを交えて、そのような名を残さなかった人を書き加えている。小説だから当然である。だからある面で任俠の士を貶めるかのようなところもある。著者も、この小説を歴史の勉強のつもりで読むようなことはしないでくれ、とわざわざあとがきに書いている。

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コメント

おはようございます。
任侠の記録といえば『史記』の「遊侠列伝」が有名でしたね。
私の友人で中国史を専攻した人は「遊侠なしでは中国史や中国文学は語れない」
と申しています。
では、
shinzei拝

shinzei様
もちろんこの本も、ベースは「史記」の「遊侠列伝」ですが、それ以外の部分とも関連させて小説にしています。陳舜臣が若いときに書いた本なので、少々シニカルなところがあるのが面白いです。

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