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2016年5月29日 (日)

無明から無明へ

 魯迅、そして中国のことを考えている。

 魯迅が、医師になることをやめ、中国人の身体を治すことよりも精神を治すことをめざして文筆家になったことは述べた。

 その頃の中国人は無知で、自分の置かれている立場というものが見えていなかった。その蒙昧からの覚醒を働きかけようとして、魯迅は中国人の姿を小説の形で、そのまま、あるいは誇張して目の前にさらして見せた。

 チャン・イーモウの「紅いコーリャン」や「菊豆(チュイトウ)」などの映画も、そんな自分たち中国人の姿をさらけ出して見せたものだと思う。自分の姿を知らなければ、そこから覚醒することは出来ないと考えたのだろう。

 無明(むみょう)という仏教用語がある。真継伸彦という作家の「無明」という小説と、それの前作にあたる「鮫」という小説で、無明ということばの意味を教えてもらった。ものを、世界を「識る」、ということ、それは知識の問題ではなく、自分の認識している世界は一皮めくれる(私流で分かりにくくて申し訳ないが)ということ、そこには違うレベルの認識があると云うことを「識る」と云うことなのだ。

 魯迅は世界はめくれる、ということを、いま自分を取り巻く世界はみえているままの固定的なものではなく、違う見方、有り様があるのだと知らせたかったに違いない。つまり無明からの覚醒である。

 中国は長い長い無明の時代から脱却し、第二次世界大戦後、新生中国が希望と共に始まった。ほとんどの人はまだまどろみのなかにいたとはいえ、知識人達を先頭に、次第にその眠りから覚めていった。

 魯迅が生きていれば、それを言祝いだに違いない。

 そして文化大革命がおきた。これが権力闘争であった、と歴史家は云う。その通りなのだろう。高校生のころ以来、私は文化大革命についてずっとこだわってきた。権力闘争について、そしてどんな悲惨な事態だったか知るために、何冊本を読んだか分からない。

 文化大革命以後、そして天安門事件があり、知識人は、つまり無明から覚醒した人たちは、徹底的に共産党の支配する中国では弾圧されてきた。無明からの覚醒を中国共産党王朝は恐れたのだ。文化大革命は、実は文化の抹殺、知識人の抹殺の時代でもあった。中国を旅すれば、いたるところにその傷跡を見たものだ(いまは隠蔽されていることが多い)。共産党が民衆の覚醒を恐れ、弾圧してきたことは歴史に明らかだ。それは中国だけではなかったことを、いまは誰でも知っている。

 そして中国の民衆は無明から覚醒しかかったところで、ふたたび無明の闇に戻ることを余儀なくされている。知識があることが覚醒をもたらすのでは、断じてない。だからインターネットで情報が飛び交っても、無明の闇から脱することが可能だとは限らない。

 いまの中国がふたたび無明の闇にいることを、魯迅ならばなげくだろう。

 豊かであることが覚醒をもたらすとは限らない。そのことはいまのアメリカや日本を見ていればよく分かる。

 私は少なくとも自分が無明であることを、覚醒した先人の本を読むことで気づかされた。そのことは必ずしも幸福をもたらさないが、良かったこと、有難いことだ思っている。まだまどろみの中で、無明のときより混沌としているけれど。

 ソクラテスの云う「無知の知」、「自分は知らない」、ということを知っている、という言葉が無明からの出口、出発の原点だろうか。

 優れた人は洋の東西を問わず、同じことを考えるものだ。それが考えぬかれた上の正しいことだからだろう。

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