山本夏彦「世間知らずの高枕」(新潮社)
「夏彦の写真コラム」シリーズ。平成元年から三年にかけて、週刊新潮に連載されたもの。
山本夏彦の文章が好きなので、影響を受けている。自分のブログにそんな部分が混じる(つまり、真似である)ことがあるのを自覚しながらやめられない。それほど好きである。
日本の文章は論理的ではないといわれる。確かに哲学や思想を語るには不向きかも知れない。それだけ情緒的だとも言えるし、中国から漢字と共に中国思想が大量に入ってきたことにより、本来の日本語による思想の進化が止まったままとなって、思想を語るには漢語で済ますことになったからとも言われる。
日本語はことばとことばがきっちりつながらずに展開していく。墨が紙ににじみ、そのにじみがかすかになったところと次のにじみがかろうじてつながるようにイメージがつながっていく。俳句の世界はもともと連歌から発展しているが、句と句のつながりはそのようなもので、それが日本人になじむのは、もともとそういう連想を楽しむ傾向が日本人にあるからだろう。
こんな考えはどこかで読み散らしたことばかりだけれど、それぞれなるほどと自分で感じたことだからそれを私のものとして書くことをご容赦いただきたい。
何が言いたいのか。山本夏彦は文章をひたすら削りに削り、かろうじて意味がつながるかつながらないか、ぎりぎりの書き方をする。彼がしばしば書くように「わかる人には一言で瞬時にわかり」、「わからぬ人には千言万言を費やしてもわからない」。だから彼の書いたものは読み慣れた私でも意味が読み取れずに途方に暮れることもある。私はその山本夏彦の文章こそ日本の文章そのものだと思うのだ。
そこに書かれていることばから、その裏にあるものを想像し補って読む。ギリギリ次へつながって行くその文章が読み取れたときは、山本夏彦の笑顔が見えるようで嬉しい。書いた人と読むこちらがつながる。
そのまま字面で読むと、前の文章と後の文章が全く反対のことを書いていたりするが、それは視点が変わっているのだ。彼は時空を越える。ときに過去の人になり、子供になり、女性になる。それは仮になるのではなく、まさになりきって書く。当然言っていることが変わる。
わかる人には読めばそのことの意味が瞬時にわかるが、わからない人には永遠にわからない。私は彼の文章をにやりとしながら楽しむような人と友だちになりたい。
この本に限らない、彼の本は文庫でたくさんでている。ときに歯ごたえのありすぎるものもあるので、読みやすそうなものを選んで一度お試しあれ。
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