大好きな平岩弓枝のエッセイ集。日常の出来事について彼女が感じたさまざまな思いが綴られている。
その中から特に感銘を受けた一文を紹介する。
「書写山幻想」
八月七日午後七時、姫路の書写山圓教寺(えんぎょうじ)の常行堂で「書写山幻想」と題した、お夏清十郎の物語を素材とする舞踊劇が開幕した。
この企画が私のところへ持ち込まれてから、実に一年半の歳月がかかっていた。その間、何回、スタッフを案内して御山へ登ったことだろう。
書写山は、その縁起によると、醍醐天皇の延喜十年に誕生された性空上人が五十七歳のとき、ここを霊地と感じて開山されたという由緒のある名刹で、花山法皇をはじめとして皇室の御幸も多く、和泉式部も参籠したといわれている。
けれども、関東では、それほど知名度が高いとはいえず、私もむかし弁慶が修行をした寺といった程度の知識しかなかった。
たまたま、姫路在住の知人に案内されて御山へ登ってみて、私は自分の不明を恥じた。
海抜五百メートルくらいのものだろうか、だが、書写山は深山幽谷の気配を保っている。天を圧するような杉木立の中を行く参道には、夏とはいえ、山の冷気が漂っているし、ロープウェイを降りて、ゆるやかな山道を登って行くと、木の間に塔頭(たっちゅう)がみえがくれする有様は時空を超えて、私達を開山の古(いにしえ)へ誘い込んでしまう。
公演の行われた常行堂は本来、東向きの建物でその北側に細長い切妻屋がついていて、その中央がさらに張り出して能舞台のような恰好になっている。その舞台は正面の広い空間をへだてて大講堂と向かい合い、その御仏に舞楽を奉納するのに用いられたようだ。
そして、大講堂と常行堂は西側の食堂(じきどう)の建物によって、コの字型につながっている。
とにかく、私もそうだったが、長い山道をひたすら登ってきて、この三つの建物のある広場へ来た人々は、例外なく呼吸(いき)を呑み、しばらくは声も出ないほどの感動を受けていた。
そのスタッフの方々、出演者の方々の書写山へ対する感動と、長年、ひそやかに、この御山へ思いを深くしてきた地元の方々の熱意が八月七日の「書写山幻想」へ向けて盛り上がったのだったが、当日に到るまでの労苦は当初、私が想像したものどころではなかった。
が、私達はそれを乗り越えて当日にたどりついた。しかし、いちばん、恐れていた天気は朝から時折、小雨のぱらつく、どんよりしたものであった。雨になると客席は野外だから、どうしようもない。
はやばやと山へ登った私達は圓教寺御住職の大樹孝啓師にお願いして、大講堂でこの公演の成功を出演者一同、心をこめて祈願した。
御住職は、こちらの観音様はここぞというときには必ずお力を貸してくださるのですよ、と私達をはげましてくださったが、空はいよいよ暗くなり、空気は湿り気を含んで、青いビニールシートをかけられている客席を眺めている限り、不安は濃くなるばかりであった。
出演者の大半は昨日の新幹線の大事故で、十数時間もかけて姫路にたどりついた。おまけに一休みする間もなく、真夜中の午前一時半から三時にかけて舞台稽古をし、それでも誰一人、苦情もいわない。徹夜で私達を運んでくれたロープウェイの係の人々も、いやな顔一つみせず、むしろ、みんなをいたわってくださった。何日も準備のために、本業をほったらかしにして山へ泊まり込んでいるボランティアの人々の気持ちを想っても、天気になってもらいたい。
五時すぎ、どしゃ降りになった。どこもかしこも水煙が立つほどのひどさである。
なんとなく父を想った。病院のベッドで酸素吸入を受けるほどの重態だった父に付き添って、姫路へ発つ前夜、私は病院にいた。父はいつものように娘の明日からの仕事について聞きたがり、私は書写山のイベントのことを話した。七日は書写山、九日と十日は文化ホール、その日の夜には帰郷するといい、私は父と別れた。
お父さんが助けてくれるといいな、と、そのときの私は雷雨を眺めていた。子供の時から困ると、いつも、神職である父を通じて神様にお願いする習慣が私にはある。
雨は六時前、奇跡的に上がった。疲れ切っていた「ちょぼちょぼ会」の方々がタオルを持って飛び出していき、そのあたりにいた関係者の方も一緒になって客席の椅子を拭いた。
雨宿りをしていた観客が続々と登ってくる。
自分の関係した仕事のことを自慢らしくいうのは決まりが悪い。しかし、その夜の舞台は凄いものになった。照明はわずかに残っていた霧をスモークの代わりにして、まさに書写山を幻想の世界にし、最高の音響効果は山々の夜の中から湧き上がるようであった。出演者の素晴らしさはいう言葉がなかった。照明が朝の日を舞台に照らし、効果が夜明けの鐘を峰々から響かせるまで私は観客の一人として酔っていた。父の死を知ったのは翌日のことである。
*平岩弓枝は代々木八幡の宮司のひとり娘。ご主人が父上の後を継いでいる。
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