精神の縛り
人には、してはいけないことがある。他人のものを盗むこと、人を傷つけたり、殺すこと、騙すこと、などである。これは宗教とは関係ない。
これらの、してはいけないことは、しようと思えば出来ることでもある。だから、してはいけないことはしないように子供の時に繰り返し親などから教え込まれる。
そのような精神の縛りが備わって人間になる。人前で排泄することは出来ないように、してはいけないことはしないようになる。
芸人になることは人間を捨てることであり、恥ずかしいことをあえてすることが出来るようでなければならない、などという。公衆の面前で脱糞することが可能なくらいでなければならない、などと聞いたことがある。つまり人間を捨てるくらいの覚悟がいる仕事らしい。とても常人に出来ることではない。しかしいまはその馬鹿なことをする人間が拍手喝采を浴びる。
人前で排泄することも、盗みをすることも、人を殺すことも、物理的に誰にでも可能なことである。可能だけれど、しないのは、そのように精神に歯止めが掛かっているからだ。
その歯止め、精神の縛りを楽々と解いてしまう人間が増えているように感じられる。それがそもそも普通の人より歯止めが弱かったからなのか、その縛りを解くような社会的な催眠術が蔓延しているのか。
人権という言葉の魔力が個人のわがままを正当化し、自分が肥大化し、社会と自分との関係を配慮するという、心の働きを持てない人間が増えているような気がする。
テロで次々にひとを殺戮する若者、通りがかりの人間を無差別に殺す高校生、バレエ教室の女性講師の親指を工具で切断する男、浮気の報復に相手の性器を切断する男、ついこの数日の間にニュースで報道された事件だ。
社会は、してはいけないことはしない人、出来ないような精神の縛りが備わっている人間が構成するものであって、そこにその縛りの箍(たが)が外れている者がいれば、それは人家に出没する熊のようなもので、危険きわまりない。熊のように見た目でわからないからいっそう恐ろしい。
どうしてこんなことになってしまったのか。
理由があってやむを得ず犯罪を犯した、という言い訳が肥大化している。正義が肥大化している。
そのためにはしてはいけないことの精神の縛りを強化する必要があるが、それは道徳教育反対、という声によって否定される。人権至上主義になにか歪んだ正義を感じてしまうのは私だけだろうか。こうして精神の縛りの箍が緩んだ人間が次々にこの世間に輩出し、徘徊している。
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残念ながら自由・人権をはき違えてる人が多い気がします。
厳罰をもって臨まなければ歯止めがきかないようです。
沖縄の翁長知事を選挙違反で逮捕出来ない司法では情けないです。(一例です。)
投稿: けんこう館 | 2016年7月 8日 (金) 10時04分
けんこう館様
弁護士会などの主張を見ていると、被害者よりも加害者に過剰に肩入れしているのに怒りを覚えることがあります。
加害者が不当に扱われていた時代は確かにありました。
しかしいまはそのようなことはないのに、彼らには現代もその時代に見えているのでしょう。
そう言えば社民党と共産党に推薦されて前回の都知事に立候補した、宇都宮氏が再出馬するらしいですね。
ところで、翁長氏については将来その評価が大きく変わるような予感がします。
その予感はけんこう館さんと少し違うかもしれません。
投稿: OKCHAN | 2016年7月 8日 (金) 12時21分