表音文字のみにする
いつも拝見している「shinzeiのブログ」のshinzeiさんからいただいたコメントによれば、「南北朝鮮の人々は『ハングルは科学的・合理的文字だ』と誇っている」そうである。ただし、shinzeiさんが南北朝鮮の人と同意見だというわけではもちろんない。ハングルのみにしたことで韓国の知性が損なわれたのではないか、と考えておられる。韓国の中にもそう考えている知識人がいるという。
確かにハングルは表音文字として優れている面もあるといわれる。それならエスペラントは同様に科学的で合理的なことばであり、文字だと言われるが、どれほどの普及をしているのか。
ことばも文字も文化である。文化はときに科学的でも合理的でもないが、文化こそ人間のアイデンティティを作る大事な要素であり、その継承は民族にとってかけがえのないものである。
アルファベットも表音文字である。しかし単語の発音とスペルは一致しないことが多い。アルファベットが読めれば文意はともかく、文章を正しく読めるわけではない。単語はそれ全体で一つの表意文字だ、と言う意見もある。アルファベットで書かれた文章を単語ごとにイメージできるのが知識人だとも言う。
それがイメージできない病気があるらしい(認知障害の一種)。有名なのはトム・クルーズだ。彼は文章から意味を読み取れないので、脚本を読んでもらって理解し、記憶するという。
ひらがなだけで書かれた文章を想像してみて欲しい。日本語は同音異義語がとても多いことばである。これはもともと日本にあったやまとことばに、外来語である漢語をふんだんに取り入れてきたのが日本語だからである。だからひらがなだけで書かれると、その単語の意味が文章の前後を良く読み込まないとわからないことになる。漢字があるのとないのでは、理解のスピードが著しく違うはずだ。
ところが国語審議会は究極的に漢字をなくそうとした、というのが高島俊男師の主張である。それは荒唐無稽な話のように聞こえるが、じつは事実であるらしい。戦後、志賀直哉などが日本は日本語ではなくフランス語を公用語にすれば良い、などと主張したことは有名で(敬愛する志賀直哉がこんなことをいったのは残念でならない)、同様の言説が横行した。日本の文化そのものを断絶させることが、日本を二度と戦争に導かないための方法の一つであると考えられたのであろう(これは文化大革命的発想である)。
国語審議会の意向はまさにそれに沿ったものである。漢字全廃までの一過程として、漢字を簡略化して、使用制限をかけたのだ(教育漢字・当用漢字の指定、当用漢字はのち常用漢字)。つまり日本も韓国がハングルのみにしたことと同様、ひらがなだけの国にすることを目指したのだ。韓国に出来たことが日本では出来ていないことを残念に思っていることだろう(同時に国民は愚かだから難しい漢字は手に負えない、だからやさしくしてあげようという意識があったこともうかがえる。国語審議会の面々の俗物根性が感じられるのはわたしの妄想か。結果的にそれが愚民化につながるかもしれないとは思わなかったのか)。
つい話が高島俊男師の本の話をなぞるものになってしまった。
表音文字だけの文字などは表現できる内容に限界があるとわたしは思う。漢字撤廃はいまはありそうもないことになっているのは幸いである(漢字習得に苦労している子どもたちは別だろう。でもその苦労があとで役に立つのだよ!)。そして誰もが古典を読めるためにも、漢字におかしな制限や改変を加えないで欲しいものである。
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