森本哲郎「サムライ・マインド」(PHP研究所)
侍精神は日本人の精神的支柱であった、という論が展開される。「あった」のであれば、いまはないのか。本当に「あった」のか。それはいつからで、いまはどうなのか。
「サムライ・マインド」は万人が等しく持つようなものではないが、日本人にはなんとなく分かるもので、外国人にはそれが日本人に対する理解の難しさと、若干のリスペクトを感じさせるものでもあるだろう。
まず幕末の武士階級がなくなっていくなかでの喪失感から、失われたものはなにかが問われる。次いで突然「ドン・キホーテ」の騎士道が武士道との対比で語られる。もちろん「ドン・キホーテ」は騎士道をカリカチュアしたものだが、その裏にはセルバンテスの「騎士道」に対する強い思いが込められているという。さて騎士道の精神的支柱とは何か。そこに著者はキリスト教を見る。
では「武士道」の精神的支柱である「サムライ・マインド」は何に支えられているのか。そこから「葉隠」の必死の美学が説明され、そして芭蕉の「不易流行」の意味が語られる。
続いて、中国宋の時代の「士太夫」のエートス(後天的に形成される性格、気質・ある意味で品位のことか)が対比される。時代の要請による朱子学の登場、そのモラルとルールは武士道に似ていなくもない。士太夫の精神はある意味でスノッブなエリート主義でもあるが、英国のジェントルマンでもあるエリートのノブリス・オブリージュ(高い身分にはそれに伴う義務を負うという自覚)の精神と相通じる。宋の時代の中国の情勢を語りたいが切りがないのでやめておく。
さらに続いて、朱子学、それを美学の基本に置いた徳川幕府と、日本の知識人達の系譜が語られる。山鹿素行、太宰春台、大原幽学、貝原益軒、宮本武蔵、沢庵禅師、鈴木正三(しようさん)、山岡鉄舟、さらに明治となり、夏目漱石、正岡子規、新渡戸稲造、福沢諭吉、西郷隆盛の「サムライ・マインド」が個別に論じられる。
最後にルイス・ベネディクトの「菊と刀」が批評される。戦時中に日本人の精神構造、特に武士道を論じたこの本は、戦後一時日本でももてはやされたが、じつは著者のルイス女史は「日本に行くことが出来ない(戦時知勇だったから当然だが)から資料が不足していた」と言い訳しているが、もともと英語で書かれていて、アメリカで普通に手に入る新渡戸稲造の「武士道」すら読まずに、自分の日本人に対する思い込みを論拠に書いたかなりお粗末な本である。
そのことがいかにアメリカの日本観を損なったか罪は重い。そこに「サムライ・マインド」に対するアメリカの偏見が影響し、それがひいては日本人の本来的な美学である「サムライ・マインド」を損なわせる結果につながったからである。
いま「サムライ・マインド」は衰亡しつつあるが、失われたわけではない。それは阪神大震災、東日本大震災、熊本大震災のときにまったく暴動がないことに世界が驚嘆したことに現れている。そう、それが損得を越えた日本人の美学として生きていると私は思う。そして損得を最優先にするアメリカのグローバリズムに侵された人々を見ると、なんとなく不快感を感じる心につながっている。もっともノブリス・オブリージュを持たねばならない人々ほどアメリカ式、ときには中国式のグローバリズムに侵されていることに、危機感を感じる。
この本は1991年に出版された本であるが、いま読んでも新しい。いろいろなことを考えさせてくれる本だった。
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