計量法
これも梅棹忠夫氏の本を読んでいて考えたこと。
梅棹忠夫氏が計量法について問われて文章を書いた。メートル法を基準とすることを決めた際に、計量法で尺貫法を使用することを国家が罰則まで適用して禁止したのは行きすぎではないか、というのが氏の意見であった。
メートル法は地球を基準とした単位であり、尺貫法は人間の身体を基準とした単位であるという。ときに尺貫法のほうがなじみやすいこともある。職人仕事には尺貫法でなければ困ることが多い。
母は洋裁も和裁もしたが、特に和裁が得意であったから、尺や鯨尺の物差しを持っていた。それを弟とチャンバラの刀にして遊んだものだ。ところが計量法によって尺貫法の物差しは作ることも売ることも禁止され、それに違反すると摘発されることになった。
私達が傷めてしまった物差しを、母は新しく買い換えることが出来なくなった。母はその物差しを宝物のように大事に使い続けた。
そのことを思い出したのである。
梅棹忠夫氏はメートル法に反対したのではない。公的な単位をメートル法にすることには煩雑さをなくすという意味でむしろ賛成なのである。ただ、尺貫法も必要な人がいるのだから摘発してまで禁止することは行きすぎではないかと書いたのだ。
梅棹忠夫氏とはべつに、当時永六輔たちが同様のことを言い、自ら尺貫法の物差しやはかりを手に入れて必要な人に販売するという運動を起こした。もちろん摘発覚悟である。というより摘発されることで話題を盛り上げ、行き過ぎを告発しようとしたのだ。
尺貫法の物差しを販売したとして、地方のお店が摘発され続けたのに、永六輔はついに摘発を受けなかった。騒がれるのがまずいと判断したのだろう。地方のお店の主人は計量法の意味がよく分かっていなかった。永六輔は分かってやっていた。それに対する法律の適用の異常さを感じるところだ。
その後あまりに批判が大きくなったことから、メートル法との併記のものならば許可されることになった。つまり暗黙に行き過ぎを認めたのである。併記されているといっても尺だけ使えば尺貫法を使用していることと同じことである。
もちろんすべての公的文書には尺貫法の単位は使用が許されない。ところがヤードやフィート、ポンドが公的文書に登場することがあるという。このことはどういうことなのか?尺貫法を撲滅することこそが正義だったのだろう。これは漢字排斥論者の論理に似ていることを梅棹忠夫氏も指摘している。漢字をなくすことなどあり得ないことだろう、と梅棹氏は言うが、韓国は漢字を禁止し、ハングルに統一した。
梅棹忠夫氏の文章に対して当局の役人が専門誌に激しい非難を浴びせた。その批判はメートル法をやめて尺貫法に戻せなどという暴論は許しがたい、というものだった。
梅棹氏はメートル法をやめろなどと言っていない。メートル法に統一することは合理的であると最初から認めている。ただ、必要なこともあるのだから、尺貫法も場合によって使用を認めても良いのではないか、摘発してまで禁止するのは行きすぎではないか、と問題提起しているのである。
わたしにはこのように文意をまったくくみ取ることが出来ずに非難する人がある意味で恐怖である。突然矛先が向いてきた経験もある。自分が正義である人の思い込みはときに愚かだが、それだけにその怒りには止めどがない。触らぬ神にたたりなしで除けて通る方がいい。梅棹忠夫氏もあえて反論は控えたようだ。そもそもそういう人に、反論の文意をきちんと読みとってもらえる可能性はほぼないのだから。
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尺貫法は日本文化そのものなのに、廃止の考えが浮かぶことのほうが変です。
投稿: けんこう館 | 2016年8月22日 (月) 17時05分
けんこう館様
文化の継承性に価値を感じられない人が多いように思います。
これはある意味で敗戦が過去否定につながっているからでしょうか。
否定しなくても良いものまで否定するというのは、コンプレックスが根底にあるのかもしれません。
投稿: OKCHAN | 2016年8月22日 (月) 18時21分