故郷
「故郷を出て故郷が見え、失って初めてその価値に気づく」と星野富弘さんが書いていた。
車寅次郎はしがらみを捨て家族を捨てて、旅にさすらう生き方を選んだ。しかし彼は故郷を捨てたはずなのにその故郷の葛飾柴又に戻った。
故郷を離れて、心に故郷を思いながら故郷に戻れない人々が、寅さんの帰る葛飾柴又にふるさとを感じる。寅さんの旅する、どこか懐かしい場所にふるさとを感じる。
その故郷は現実の故郷なのだろうか。いま故郷は大きく変わってしまい、古い記憶の故郷などほとんど残っていない。寅さん映画を作るために、スタッフが必死で記憶のふるさとといえるような景色を探し求めて、ようやく映像に切り取った光景があの懐かしい故郷「のようなもの」である。
多くのひとは故郷を離れたが、戻りたくても故郷はすでに失われていて、そこへ行っても記憶のままの故郷はすでにない。
寅さんの訪ねる柴又もまた地元の努力のお陰で残されているとはいえ、やはり映画のイメージを損なわずにおくための、作られた故郷ではないか。
「故郷を出て故郷が見え、失って初めてその価値に気づく」ものだけれど、故郷を離れたから故郷が失われたのではなく、故郷そのものの多くがすでに失われているのかもしれない。
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」と藤沢周平は書く。
車寅次郎は捨てた故郷になぜ戻ったのか。なぜ捨てたはずのしがらみにからまりに戻ったのか。寅さんに気の弱りが忍び込んだからだろうか。
故郷に戻れば、家族をはじめとして現実の社会とのしがらみがそこに待っている。蜘蛛の巣のようなしがらみに絡まってもがきながら、彼は「奮闘努力」する。それはもがけばもがくほど回りに迷惑を掛けるだけの結果となる。もがけばもがくほどがんじがらめになるのが現実だが、しかし寅さんはするりとそこから逃れ出す。
捨てたはずの故郷を旅先で思慕していたけれど、その故郷の現実に触れれば、自分の思っていた故郷との違いと重さに気づかされる。そのときあの「とらや」の面々だからこそ懐かしく思い出されるのだろう。実際にはあんな善い人たち、寅さんを迷惑に思いながらも同時に心から心配してくれる人などいない。すでにあんな人情などふるさとと同様すたれかけている。
寅さん映画を観ると好い気持ちになれるのは、実際にはない故郷と、実際にはいない善い人たちを見ることが出来るからなのだろう。
そしてそれを見るためにわたしは旅に出かけ、そこに現実を越えた自分の見たい幻像を見ようとしているだけなのかもしれない。
寅さんのさすらいの旅の寂寥をちょっとだけ味わい、失われた故郷のかけらを探す。それは中国の雲南省の僻地にも、西安や上海や台北の裏道にもあった。そしてそれはわたしの見たくて見ただけの幻なのだろう。
« あこがれる | トップページ | 開けたら閉めるについて再び »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 虐待児は虐待する(2024.10.07)
- すぐ決まる(2024.10.06)
- 引っ込みがつかなくなる(2024.10.06)
- 愚かさに気がつかない(2024.10.06)
- きっかけ(2024.10.05)
コメント