草莽の志士とテロリズム
清河八郎について考えているうちに、草莽の志士とテロリズムのことに思いが行った。幕末の政権を担っていた幕府側から見れば、倒幕を旗印にする草莽の志士はテロリストと見なされていただろう。そのテロリストが暗躍する京都で、テロを殲滅するための特殊部隊が新撰組ということである。その新撰組の成り立ちの発端に清河八郎が関わっていることは述べた。
当時京都は暗殺が横行していた。人斬りと呼ばれたのは一人ではない。田中新兵衛、岡田以蔵、中村半次郎、川上彦斎などたちまち名前が並ぶ。彼等が標的にしたのはもちろん尊皇攘夷に反するものであり、守旧派である。しかし無能な人は標的にされない。有能で自分の役割を命がけで遂行する人が標的にされ、殺されていったはずである。
生き残っていれば国家にとって財産となったであろう人たちがどれだけ功成り名を遂げる前に殺されたことであろう。それは逆も言える。その草莽の志士たちこそ有能な人たちが多かったに違いない。家族を捨て、故郷を捨てて命がけで来たるべき未来に向けて身命を賭していたであろう。それが思い半ばでどれだけ新撰組に殺されただろうか。
少し前に読んだ長谷川伸の「相楽総三とその同志」(講談社学術文庫)をみれば、それらのほとんど無名の人たちが非命に倒れた話が満載されている。それぞれの人に人生があり、家族があり、熱い思いがあった。
自分の損得を優先する人から見れば、志士たちは信じられない愚かな行動をしているように見える。その違い何なのだろうと思う。物事を日教組のように現代の価値観で善悪判断してはならない。その時代にはその時代の価値観がある。それを感じるには歴史にどっぷりはまってそこからものを見なければならないが、なかなか出来ることではない。
自分が常にどんな視点でものを見て判断しているのかを問い続けることこそが歴史を知るためには必要だろう。そういう手がかりとして今は清河八郎のことを考えたというわけである。答えなどもともとない。
ところで伊藤博文を暗殺した安重根は正真正銘のテロリストである。そしてISの戦士達もテロリストである。彼等と草莽の志士とはどう違うのか。そのことを考えるのは無意味なのだろうか。
どうしても座標軸の原点がいまの自分自身になってしまうから、よく分からない。もともと二元論的な考え方に不信感をもっているから、原理主義的な思考様式であるテロリズムが分からないのかも知れない。旗幟をあきらかにしない人間はテロリズムの標的になりやすい。とはいえ大物でなければ標的にはならないだろう。佐久間象山や清河八郎は二元論では測れない人物だったと思う。だから暗殺された。
妄想は続くがくたびれたのでこの辺にする。
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おはようございます。
先日は私の拙いトランプ論を見て頂きありがとうございます。
安重根の記念館(安重根義士記念館)がソウルの南山タワー(まあ、東京タワーのようなものでしょう)の近くにあります。私も行った事がありますが、さすが韓国では彼はテロリストどころか義士として扱われ、日本側もそう見ていた、という記述がなされていました。
しかし、彼はあくまでも元首相を殺したテロリストだと、日本側はあくまでも言い続けなくてはならないと思います。クリスチャンだった彼を韓国の市民団体などはバチカンに聖人(?)として認定して欲しいと活動していますが、私たちとしてはそれを断固阻止しなくてはならないでしょう。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2017年1月25日 (水) 07時25分
Shinzei様
安重根が素養の有る人だったことは確からしいですね。
ただ、日韓併合に反対していた伊藤博文を殺して却って促進したことは韓国では知らされていません。
義士の功績に不都合だから隠されているのでしょう。
安重根は正しい現状認識がなく、思い込みで行動したのだと思います。
投稿: OKCHAN | 2017年1月25日 (水) 08時27分
草莽の志士や新選組と違い、今まで勇気がなくて躊躇することの連続でした。情けないとおもうところもありますが、もし行動に移してたら相当後悔してたことが多かった気がします。
違う見方をすれば、ブレーキが正常に機能してたのかもしれません。
でも、これからでも間に合うことはあると思いますので前向きに生きて行きたい思ってます。
投稿: けんこう館 | 2017年1月25日 (水) 09時54分
けんこう館様
自分のためよりも誰かのために身命を賭すというのは自己犠牲であり、崇高なことですが、誰にも出来ることではありません。
しかし、損得ではなくて、人の捨てたゴミを拾うことから始めることは出来ます。
いま世界は自分だけのために生きることを優先することが大合唱されています。
それだからこそ、ほんの少しでも好いからなにか自分のためだけではないことが出来たら良いですね。
投稿: OKCHAN | 2017年1月25日 (水) 10時45分