張岱(ちょうたい)について(1)
いまでも中島敦の愛読者は多いという。若い人も次々に新しい愛読者に加わるということは、わがことのように嬉しい。それは文語文と漢文という、日本人として大事な文化を知るための入り口に立つことでもあるからだ。そのリズムと格調は読む人を好い気持ちにさせる。それは読めば分かる。
偉そうに言うのも、私自身が中島敦の「山月記」をきっかけにその楽しさ面白さを知ったからだ。
少し前に清河八郎の「西遊草」を手に入れて、読むのを楽しみにしていると書いた。そのときに愛読書の一つとして言及したのが、張岱の「陶庵無憶」という本だった。中島敦の面白さを感じることの出来る人なら、少々歯ごたえがあるけれどこの本を是非とも薦めたい。実は紹介したときに取り出して読み始めたら、その面白さにあらためて引き込まれてしまった。私の持つこの本には文中に分からない言葉を漢和辞典で調べたものが書き込んであるので、なおさら読みやすいのだが(本に書き込むのは好きではないのだが、先般書いたように理由があって同じ本を二冊持っているのである。だから心置きなく書き込めるのだ)。
この本を読了しようと思ったらかなり骨が折れる。注釈が多いが、その注釈はある程度の知識を前提に書かれているので、注釈を読むためにちょっと勉強が必要なことも多い。書かれている中国江南地方一帯についての知識も必要であり、その景観、その時代だけではなく中国の悠久の歴史と物語と遺跡について素養が必要なのだが、それは読み進めながら蓄えれば好いと開き直れば済む。要は書かれていることに好奇心と興味を覚えようと努めることであろうか。一年もあればかなりの中国通になっているはずだ。ただし15世紀から16世紀頃の視点から見えることだけれど。
張岱本人について、訳者の松枝茂夫の前書きや張岱の詩文などから引用して紹介していきたい。(つづく)
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