百田尚樹・石平「『カエルの楽園』が地獄と化す日」(飛鳥新社)
副題は「中国は本気だ!」。
中国の海洋侵略に対する世界の対応は常に現状の追認に終始してきた。そのことが何をもたらすのか、それを寓意的に書いたものが百田尚樹の『カエルの楽園』であるらしい。らしい、というのは未読だから。その現状追認型の対応が「茹でガエル」の様相であるということには同感である。
その『カエルの楽園』を読んで、いたく共感し、感激したのが石平で、この対談の中では尖閣に対して中国がどのようなもくろみをもっているのか、今後どのような行動をするか、ついにはどうなるのか、ということを二人がシミュレーションして見せたのがこの本である。
日本が歴史に遅れて列強に互すようになり、その列強の過去のふるまいを真似して見せたのが中国大陸への侵攻だと見なすこともできる。ヨーロッパは中東やアフリカ、そしてアジアで先に利益を得たものと遅れたものとのせめぎ合いを続け、その果てに大小の戦争を繰り返した。その争いにくたびれ始めていたときであったから、日本のふるまいには眉をひそめた。そのことに鈍感だったのが日本だった。
いま、その中国が日本のふるまいをなぞろうとしている。二重に遅れているのだ。だから中国の今後のふるまいは歴史を振り返ることによって予測することができるかもしれない。
その予測のもっとも最悪なものを百田尚樹と石平は語る。
この本に書かれているシナリオはまさかここまでは、と云うような最悪なものであるが、世の中にはそのまさかが起こりうるのも事実である。それに対してどうすべきか、と云う論を対談では語られているけれど、私はそのことでなにかをプロパガンダするつもりはない。
それよりもこの本で語られている中国の行為の追認の有り様と、「カエルの楽園」で描かれているという侵略者に対する弱者側の自己釈明の有り様である。まさに平和を唱えていれば敵は攻めてこないと盲信するいまの日本のマスコミや平和主義者の姿そのものであるからだ。
戦いは敵の侵攻に抵抗するから起こるので、抵抗しなければ戦いにはならない。だから平和であるという論理は正しい。なまじ防衛などしようとして武器を持つから攻められるのだ、ということになるといささか首をかしげざるを得ない。侵攻する側が同じ考え方である可能性はまずないからだ。同じならそもそも侵攻してこない。
無抵抗で相手のなすことに理屈をつけて受け入れていれば、その結果どんな幸せな未来があるのか、そのことについて考えることだけは必要だろう。そのときにいまの中国の世界観を受け入れる覚悟があるかどうかであろう(すでにA日新聞は準備万端だろう)。
トランプ新大統領の出現によってアジアのパワーバランスが大きく変わるかもしれない。そのとき中国がどうふるまうかを予測するには、中国の国内情勢をある程度知らなければならない。だから中国のニュースについて今年はいままでに増して注視していきたい。そこから自分なりに考えを述べることにしたいと思っている。
母にはよく「下手な考え、休むに似たり」と言われたけれど。
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