張岱(ちょうたい)について(2)
松枝茂夫氏は、「張岱の名は従来それほど一般的には知られていなかった。一九三四年、周作人(魯迅の弟)が「中国新文学の源流」という本の中で、明末文学の再認識を提唱し、張岱をもって公安・竟陵二派の文学の融合者、集大成者と規定してから俄に人の注目を引くようになったかと思う」と述べている。
ちなみに周作人は張岱の同郷(紹興)人であるが、十三歳の時に祖父の元で張岱の「陶庵無憶」を見て愛読したという。
*ここで辞書が「陶庵無憶」を「陶庵無億」と誤変換した。まさかと思って前回の「張岱(ちょうたい)について(1)」を見直したらこちらも間違っていた。本の写真の表題を見れば一目瞭然なので、気がついていた人もいただろう。恥ずかしい。遅ればせながら直しておいた。
松枝茂夫氏の、張岱の紹介文からの抜粋
張岱、字(あざな)は宗子、一字は石公、号は陶庵、また蝶庵居士(ちょうあんこじ)とも号した。明の浙江省紹興府山陰県の人。彼は自らしばしば誇らしげに「蜀人」と称しているが、これはその遠祖が四川省竹篁県の人で、宋の咸淳年間、張岱の生まれるおよそ三百二、三十年も昔、江南に移ってきたからであった。(中略)
張岱は万暦二十五年(一五九七)八月二十五日卯の刻に生まれた。父はまだ二十三歳の学生であった。母は陶氏。この幼な妻は白衣観音(びゃくえかんのん)に嗣子を得んことを祈って岱を生んだ。
(中略)
彼は七十四歳のとき、「自為墓誌銘」のなかにこう書いている。「少(わか)くして紈袴(がんこ:白い練り絹で作った袴、貴族の子弟のこと)の子弟たり。極めて繁華を愛した。精舎(数寄を凝らした園庭)を好み、美婢を好み、孌童(れんどう:美少年)を好み、鮮衣を好み、美食を好み、駿馬を好み、華灯(華美な燈籠、元宵節に掛ける)を好み、煙火(はなび:花火)を好み、梨園(しばい:演劇)を好み、鼓吹(なりもの:音楽)を好み、骨董を好み、花鳥を好み、かてて加えて茶淫(ちゃずき)であり、橘虐(みかんずき)であり、書蠹(ほんのむし)であり、詩魔(しきちがい)であり、ついにうかうかと半生を過ごし、すべては夢まぼろしとなってしまった」(中略)
しかし張岱の豪奢な生活も、明朝の瓦解と同時に終わりを告げ、思いもよらぬ後半生を送らねばならなくなる。
(つづく)
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