山のようにいて、一握りしかいない
判じ物みたいな言い方で申し訳ない。山のようにいるのは好きな人で、一握りしかいないのは私が嫌いな人である。わざわざ私が、と付けるのは誤解を招きそうだからである。嫌いなのは全部ではなく、嫌いになる理由があるからで、好きになる理由といわば同じである。足の先から頭のてっぺんまで嫌い、というのはそうそうあることではない。
以前私のこのブログは延々と続く私の自己紹介である、と記したことがある。私の目から見たもの、私が感じたこと、私が考えたことを駄文にするのは、すなわち私がどんな人間かの表明に外ならないからである。
面白いのはその駄文を読み直すと私が私を識ることが出来たりする。自分で自分を他人として見ることが出来る。書いた人と読む人はおなじだけれど違う人である。欠いたときと読むときとでは時間の経過とともに自分自身は変わっているのである。しかも書いているときには書くことが勝手に湧いてきて、考えてから書いているわけではない。書いている自分と考えている自分も違ったりするからややこしい。
脇道にそれた。
いま好きな人。平原綾香、吉田羊、麻生久美子、木村カエラ、多部未華子、内山理名の顔が浮かんだ。山ほどいるのに浮かんだのはこれくらい。連想力が貧困なのだ。女性ばかり。たいていの女優は好きである。魅力があるから女優なので当たり前と言えば当たり前か。書いていたらきりがない。
いま嫌いな人。嵐(グループだけど全部嫌い)、木村拓哉、香取慎吾、中居正広、藤田まこと(「はぐれ刑事」、「必殺仕事人」、「剣客商売」すべて嫌い)、EXILE、前田美波里、大地真央、蓮舫、鳩山由紀夫、野田佳彦、菅直人、社民党吉田党首、これも思い浮かんだのがこれだけだった。じっくり考えるのも面倒だ。基本的に恥ずかしげもなく男が激しく踊ってみせるのを見るのが嫌い。明治生まれの祖父がチータカタッタだ、と軽蔑の眼を向けていたのに子供のときに共感したので、この歳ではもう変更がきかなくなっている。政治家は善と悪、正義と悪者という二元論で語る人が嫌い。正義を標榜する朝日新聞が嫌いだが、朝日新聞は人格ではない。
なんだか嫌いな人のほうがすらすら出てきて、書いているうちに何を言いたいのか分からなくなった。嫌いではない人は基本的に嫌いになるまでは好きと云うことにしている、ということにしようか。
昨晩飲みながら思いつきで書いていたら少々酔いが回ったようだ。
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私が、嫌いな人で最初に浮かぶのは『蓮舫』です。自己内省力がなく他人を責めてますが、自身のことを振り返ればとても他人を責められるはずはありません。中国・韓国と同じです。
ごくたまにテレビで見る 「木村拓哉」は、底意地の悪い人に見えてしまいますが、私の偏見なのでしょうか。生理的に合わないと思ってしまいます。
投稿: けんこう館 | 2017年1月21日 (土) 09時06分
けんこう館様
おおむね同感です。
蓮舫も木村拓哉もいまに退場することでしょう。
人を引きつけるものは外観だけではありません。
外見だけで人気をとっても、内面に傲慢さが見えると人は離れるでしょう。
その傲慢さが可愛く見えている面もありましたが、人は飽きます。
投稿: OKCHAN | 2017年1月21日 (土) 10時40分