捨てられない
人は何でもとりあえず取っておく。あとで役に立つかも知れないと思うからだ。もったいないという気持ちもある。もったいないというのは、ものに魂を感じることでもあり、捨てられるものに可哀想だと感じる心のように思う。日本人独特の感性だったから、「もったいない」は世界語になったと聞く。他の国の人にも共感を呼ぶ面があったのだろうが、それは捨てられるものに対する憐憫の思いが共感を呼んでいるわけではなく、浪費はやはり良いことではないという単純な考えのような気がする。
気がつくと使い切れない程ものが家の中にあふれている。経済活動は消費者がものを購入してくれないと成り立たない。心理学まで応用して消費者の気持ちを消費に向かわせ、すぐ必要でないもの、いつか使うかも知れないものまで買わせようとする。気がつくとなくても良いものがあふれ、それに消費者が目覚めたのが現代の不景気の原因だろうと思う。
「断捨離」などという言葉が流行するのもその現れだろう。人々は不要なものを買わなくなった。それでなくても最大の消費集団だった団塊の世代はすでにほとんどリタイヤして昔のような収入がない。この人たちの蓄えた金を吐き出させようとしても、老後の長さに気がついている人たちの財布の紐は固くなっている。
「捨てる」ことを考えるということは、消費とは正反対の行動であろう。デフレが不景気の理由ではなく、消費を控えるという行動がデフレを生んでいる。買ってくれなければ安くして売ろうとする。安くしても売れなければ利益を度外視してさらに安くする。それでも不要なものは買わない。そもそもこれが不景気だ、というのは大消費時代を基準にしているからで、じつは当たり前の時代になったのだ。生産活動もそれを前提に考え直す時代になっているのではないか。
捨てるといえば、橋田壽賀子が九十才を超えて、身の廻りのものの処分をしていると語っていた。女優の清水冨美加が出家するのだという。幸福の科学というのが新興宗教なのかどうかよく知らないが、出家するのだから宗教なのだろう。出家とは究極の「捨てる」ことではないか。
部屋を片付けていて、自分が死ぬまでに使いようがないほどのものが押し入れや書棚やタンスの中にあふれていることにいまさらながら気がついた。そのほんの一部を処分する決心をしたけれど、全体から見れば知れている。なかなか清水富美加のようには捨てられないものだ。
究極の「捨てる」行為は、身の廻りのものを処分することではなくて、自分自身を捨てることだろうか。その覚悟があれば何でも捨てられるだろう。今のところその境地からはほど遠いけれど。
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コメント
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OKCHANさん
ニュースの中に千葉県の
埋もれて両足壊死
タンスのお部屋。

の遊び場2部屋。(6畳✕2)
お片付け「断捨離」始められたんですか?
今日の
ゴミに
昨年5月のこと。
我が家はお部屋たくさんあるので、
暖かくなったら、何とかしようと思う出来事
投稿: ちかよ | 2017年2月17日 (金) 10時41分
何年も着てなくてこの先も着ないと思われる服もたくさんあります。見ることもないビデオ、コミック、過去の資料など、火事で燃えてなくなっても後悔しないと思うものがたくさんあります。
引っ越しをイメージして、持って行くと思われるものだけ残そうかなと思い始めてます。
投稿: けんこう館 | 2017年2月17日 (金) 11時10分
ちかよ様
突然始めたことですが、いつまで続くか分かりません(多分間もなくまた冬眠にはいるでしょう)。
しかし捨てだすと中身がいっぱい詰まったゴミ袋がたちまち山のようになります。
ゴミ屋敷の二、三歩手前でしょうか。
投稿: OKCHAN | 2017年2月17日 (金) 16時06分
けんこう館様
それらのほんの一部に手を付けただけなのに山のように処分するものがあります。
捨てるというのは本当に難しいですね。
投稿: OKCHAN | 2017年2月17日 (金) 16時08分