落語を聴く
ずいぶんしばらく落語を聴かなかった。
寝る前に本を読んだり数独パズルをしていると、つい夢中になって眠れなくなる。眼にも負担がかかるらしく、紙面がうねって見えたり、ところどころ激しく歪んで見えたりする。そこで目を瞑って音楽を聴くようにしていたのだが、CDの並んでいる棚に落語のCDもあるので久しぶりにそれを聴いた。
私のコレクションはほとんどが円生である。いまの円楽の師匠の先代円楽のその師匠である。子どものときからラジオで落語を聴いた。母が好きだったから一緒に聴いていたのだろう。中でも円生が好きだった。言葉が明晰で聴きやすい。メリハリも効いている。馬鹿話よりもストーリーのある話が得意だった。円生は意識して落語の録音を残した。自己顕示欲の強い人だったが、それが後世に財産として残った、
一日一席聴いている。落語の良いところはオチがあることで、そのオチを聞いて太鼓のお囃子を聞くと気持ちも落ち着いてすんなり眠れる。
一昨日は「淀五郎」、昨日は「子は鎹(かすがい)」。「淀五郎」は抜擢された若手歌舞伎役者の淀五郎が芸の道に目覚める話だが、昔は芝居が庶民の話題であり、シェイクスピアが英国人に深く染みこんでいるように、歌舞伎の台詞とその世界観は共有されていた。善悪仁義などが共有されている世界は生きやすい世界だったかもしれない。
突き放すように厳しさを知らせてそこから這い上がって来るのを待つ四代目の市川團蔵、その仕打ちに死まで思い詰める淀五郎に團蔵の真意を教え、優しく手ほどきする中村仲蔵、その正反対の姿に、師と云うものの意味の全てが込められている。淀五郎演ずる塩谷判官(浅野内匠頭)の「待ちかねたぞ」の台詞がオチとなるのだが、それが落語を聴く人たちの感動と、ほっとする気持ちを誘う。落語を聴きながら忠臣蔵の四段目をまざまざと頭に浮かべ、そのときの淀五郎と團蔵の気持ちと演技がはっきりと見えるのだ。これを語れるのはよほど優れた落語家でなくてはかなわないが、さて、語られる歌舞伎の光景を目にまざまざと浮かべて聞ける聴衆が、今はどれほどいるのだろうか(私だって歌舞伎を実際の舞台で観たことがないのだから偉そうにいえない)。
「子は鎹」は別れた夫婦が文字通り子どもがきっかけになって復縁する話だが、別れるまでの事情と、別れて約三年の二人の男女の人生が語られて、聴衆はすっと亭主の心持ちに共感させられていく。最後に亭主が頭を下げ、女はそれを受け入れるけれど、いまこんな殊勝な女性なんていないだろうなあ、と思う。何より理屈で言えば亭主は理不尽なのだから、許せるはずがないと言うだろう。どちらが生きやすい世界だろうか。こんな風に私が思うのは、男中心の世界観の持ち主のままだからだろうか。
こうして語り出すときりがない。これでも語りたいことをとことん縮めたのである。落語は本当に面白い。
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