言い争うことではない
東日本大震災から6年経った。テレビでは(特にNHKでは)震災のドキュメントをよくやる。積極的に見ることはないが、民放はCMの氾濫に堪えられなくなっているので、ついNHKがつけたままになっていて、ぼんやり見ていると、ああ震災の話か、と思うことがある。
うつらうつらして気がついたら、父親を津波で亡くし、ふたりだけになった母子の話を放映していた。母親は小学校の低学年の息子の手をしっかりと握って送り迎えをする。子どもは次第に成長する。他の子供たちの手前もあり、子どもを離さない母親に息子は多分反発はあるだろうが、母親の自分を思う気持ちも分かるやさしさもある。
教師は子どもを抱え込みすぎる母親を心配し、そして抱え込まれている男の子を心配する。すべての危険なことを排除しようとする母親が、息子の成長の機会を損なっていると感じているのだ。子どもには危険なことを乗り越える勇気が必要であるし、それを乗り越えたときに褒め称えられる経験も必要不可欠なのだ。
母親と離れて祖母の元で、母親なら決して許さないかも知れないような、ちょっと冒険的な遊びに男の子が挑戦する。尻込みする男の子がついに勇気を出す。成し遂げた男の子を祖母が抱きしめる。「よくやった」とほめる祖母に、マイクが向けられる。「いつも母親があれをしてはダメ、これをしてはダメと言うからこの子は少し臆病になっていた。それが勇気を出したから嬉しいのだ」と祖母は言う。
ここで脇にいた同じような年齢の女性が、「仕方ないだろう。津波を乗り越えて拾った命なのだから、母親が子どもに危険なことをさせないのは当然だ」と言う。あたかもその男の子の勇気を称えることが、男の子を抱え込む母親を非難することであるかのように言う。
私はここでとても考えさせられた。ふたりの老婆(それほどの高齢ではないので、こう言うのは申し訳ないのだが)は互いに正しいことを言っている。父親を亡くした男の子の健全な成長を願う気持ちと、夫を亡くし、かけがえのない息子の安全を思う母親の気持ちを、それぞれの老婆が互いにわが事として思っているのである。言い争うようなことではない(現に言い争いはない)。ただ思いの重さがどちらにあるかだけの話であるのだから。
私が言いたいのは、これはどちらが正しいという話ではない、ということだ。人は同時には受け入れられないようないくつもの思いの中で生きていく。それぞれの思いを拾ったり拾わなかったりする。
いま世の中はそのわずかな複雑さが耐えられずに、どちらが正しいのか、という論議ばかりに明け暮れているような気がする。白でなければ黒、という単純化した善悪論で語ることばが氾濫しているような気がする。特にマスコミにその弊害が大きい。
正義か悪か、敵か味方か。どうしてこんなに思考がお粗末になったのか。韓国の反日の論理に通じるこのような思考の劣化は、先日読んだ橋本治の本に書かれていた「心のない論理」「心のある論理」「心の論理」というキーワードを思い出させてくれた。このことをずっと考えている。だからいつかその言葉の意味を自分なりに咀嚼して説明してみたい(出来るかなあ・・・)。すごく大事なことのように思っている。
見ていた震災のドキュメントは、ここで取り上げたシーンで感じたことを書きたくて、そこでテレビを消したのでそのあとのことは知らない。震災から6年、その男の子は成長してたくましくなっているに違いないと思う。
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その男の子を思う優しさに囲まれてる様子をみて亡き父も安心してる気がします。
投稿: けんこう館 | 2017年3月21日 (火) 09時53分
けんこう館様
見方の違うふたりのおばあさんは、けんこう館様のおっしゃる通りその母親の気持ちを想い、子どもの成長を想うという意味で優しい人たちです。
ただ、このはなしから、どちらが正しいか、というような論理展開する人がしばしばいて、しかもそれがマスコミに関係する人によく見られるパターンなので、それを先取りしていいたかったわけです。
分かりにくくてすみません。
投稿: OKCHAN | 2017年3月21日 (火) 12時57分