「なぜ」の罠
ネットニュースを見ていたら「教育勅語の復活はなぜ多くの人から問題視されるのか」という中国メディアの記事が目に入った。また「日本人はなぜ結婚しなくなったのか」という記事もあった。
翻訳の問題もあるだろうが、「なぜ」と問う言葉には問われたことが事実であるという前提が付帯している。そういう事実があるけれどそれはなぜか、と問うことで、その事実は検証なしに読んだ人に事実として受け止められるという仕組みになっている。
教育勅語が復活しているのか?教育勅語の内容を承知している日本人がどれだけいるというのだろう。私は読んだことはあるけれど、覚えていないし、知っているとはいえない。そもそも読んだことのない人が大半で、教育勅語に猛烈に反対しているひとにしても、森友学園関係の幼稚園生よりも知らないのではないか。
それが「教育勅語の復活はなぜ多くの人から問題視されるのか」という記事の見出しになれば、中国人は、日本では教育勅語が復活したのだと思うだろう。それは悪いことらしい、と思うだろうが、教育勅語とはなにか、書いている記者も読者も知らないに違いない。ただ軍国主義と単純に結びつけて非難するだけで、そこには非難したくてたまらないときの材料として教育勅語が使われているに過ぎない。
私は教育勅語がそのまま軍国主義につながるとは思わないけれど、わざわざ戦前の教育勅語を持ち出さなくても教育について見るべきものがあれば、その精神だけを新たな言葉にして語ればいいだけのことだと思う。わざわざ教育勅語そのものを持ち出す精神の底にイヤなものを感じるのは当然である。そのことが結局教育勅語の精神そのものを貶め、教育そのものをゆがめることにつながるおそれがある。
森友学園問題の不快で嫌な側面がそこにある気がする。そしてそれをことさらに材料にするマスコミ、それを嬉しそうに語る中国メディアになんだか面白くないものを感じてしまう。
ついでにいえば「日本人はなぜ結婚しなくなったのか」という言葉は、「したいけれど出来ない」というよりも「しない」という意志が感じられて、記事の主旨とは会わない気がする。中国のメディアはこの言葉で、日本をうらやむ中国の若者は多いだろうが、その日本の若者だってお金がなくて結婚できないで不幸なのだぞ、と言いたいのだろうから。
書店で本を眺めていれば、この「なぜ~なのか」とか「なぜ~でないのか」という類の題名をしばしば目にする。前提を擦り込んで自分の言いたいことにひきずりこむ手法で、私はあまり好きではない。
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