無料とフェイク(3)
人は暗い洞窟のなかにいて、たき火の光によって洞窟の壁に出来た大きな影を見て世界を認識しているという寓話がある。それになぞらえれば、私は、人は狭い部屋にいてそれを自分の世界だと認識していると考える。部屋の壁にはいくつかの小さな穴があいていて、そこから覗くと自分の世界ではない外部の世界を見ることが出来る。こちらを覗き、あちらを覗き、外部世界はこういうものらしいと想像し、彼の世界はひろがっていく。
それが本だったり、テレビだったり、新聞だったり、というわけである。他にもさまざまな覗き穴があるだろう。壁をそもそも無いものと出来たのがお釈迦様か、などと思うけれど今はその話はやめておく。
ところでその覗き穴から見えているものがじつは虚像で、事実ではないものが混じっているとしたら、世界についての認識そのものもゆがめられてしまう。それがフェイクニュースの恐ろしさである。
すでに世界はそうした虚像が無数に氾濫している世界なのかも知れない。それを見分けることはとても困難だけれど、そのベースとなるのは信頼できるニュースソースだろう。
だからニュースは有料であるべきではないかと私は思う。十分な経費を掛けて信頼できる取材をしてもらうことが必要で、しかもそれが独立して存在できるものであることも必要だろう。大金持ちのオーナーに支配されてはメディアの独立性は失われてしまう。ましてや中国の金持ちに買収されたりしたら、世界が中国化してしまいかねない。
そのためにニュースが有料になることは仕方がないと思うけれど、そのニュースの信頼をマスコミ自身が損なっていては話が始まらない。ネットニュースを便利に使いながら、そのもとのニュースソースが劣化することを心配している。
( 長文にお付き合い戴きありがとうございした)
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