読書についての森本哲郎老師の言葉
読書に戒むべきは「能率」という概念である。能率的読書などという言葉をよく聞くが、そんなものは到底読書とはいえない。読書というのはおよそ非能率的なものだからである。その点において読書は旅になぞらえることができる。能率的な旅というのはあり得ないことはないが、それはもう旅ではない。出張にすぎない。旅にどうして能率をあげなければならないのか。
私はこういう言葉を読むと震えるほど感じてしまうわけである。その通りだと思うのである。それを忘れて本を読んだり旅をしてみても、もうそれは読書らしきものであり、旅らしきものでしかない。そこにあるよろこびはわずかなものにしぼんでいる。しばしば人生が旅になぞらえられるように、人生だってそうではないかと思うと、ちゃんとその後にそう書いてある。
すでに私はどっぷりと森本節に染まっているのだ。世の中に「能率的」であることが善であるものとそうでないものがある。すべてが「能率的」であることが善だと勘違いしていないか。ここで言う「能率的」という言葉は内田樹老師のいう「ビジネスライク」という言葉と同じ意味かと思う。それが必要な場所とそうではない場所がある。「能率的」がそうでない場所を侵食しすぎていないか。それが生きることの深味を損ねていないか。
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う〜〜んFifty-fifty?
イブン・ハルドゥーンの「歴史序説」を読むよりは、その解説書を読む方がよいと思う自分がいるかと思えば、
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/501/trackback
反面、簡単に読める「解説書」がたくさん出されていても、やはり700ページの『21世紀の資本』そのものを読みたいと思ったりもします。
私は読書の途中で 「得るものがない」 と判断した場合は即、中断します。コスパ優先と言われればそうなのかもしれませんが、それは人には許された時間に限りがあると感じているからです。それは学生時代の書庫での思い出ルーツがあるような気がします。
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投稿: Hiroshi | 2017年4月19日 (水) 16時01分
Hiroshi様
興味が持てる本、面白いと感じる本は人によりずいぶん違います。
自分でも年齢と共に変わることをこの頃実感しています。
自分の興味の赴くとき、本が自分を呼ぶ気がしてその本を手に取るのも楽しみの一つです。
そんな本を本棚に並べています。
投稿: OKCHAN | 2017年4月19日 (水) 18時27分