種田山頭火
①放浪以前
種田山頭火の自由律俳句に傾倒していた頃があった。もともと詩は苦手である。詩のイメージに自分の心がシンクロしない。だからその言葉から紡ぎ出される世界がよく理解出来ない。自分のその能力のなさに情けない思いをしていた。
そんなときに山頭火の句に出会った。その句のイメージが心の中に映像として拡がって驚いた。山頭火の句集を持ち歩いて時々気に入った句を拾って眺めていた。その句集はほとんど解説がない本だったから詠まれた状況と、わたしの描いている世界は全く異なっていたかも知れない。
今久しぶりに山頭火の解説書をひろげている。金子藤太の書いた「放浪行乞」と云う本だ。
その中のまだ山頭火が妻子を捨てて放浪に出る遙か以前に詠んだ句、
「今日も事なし凩に酒量るのみ」
と云う句にしびれた。
「女は港、男は船よ」という言葉が好きだ。港にいるのは仮の姿で、そもそも男は果てしない海原をあてもなく行くものだ。放浪こそ男の真実だ、とわたしは思ったりする。
それは現実逃避だろうか。そうかも知れない。でも逃げ出した生活より放浪の生活の方が遥かに苦難に満ちていることが明らかでも男は放浪に出るだろう。
山頭火は若いとき、父と造り酒屋を始めた。その日常の中で詠まれたこの句に、放浪の萌芽が潜んでいる。
日常が日常として実感されると、あてもない旅に出かけたいという思いが強くなる。旅先で一枚めくれた世界をちらりと垣間見たときに恐怖とともに生きがいを感じる。
②山の色
山頭火の句、
山の色澄みきつてまつすぐな煙
彼が三十五歳の時に彼の醸造所は破産した。その頃に読んだ句だ。金子兜太は、この煙は醸造所の煙、と解釈している。
その解釈は間違いないと思うけれど、私はまっすぐに上る煙は火葬場の煙だと感じてしまう。焼かれた人の魂が天へ昇る煙だ。ユーミンが「飛行機雲」で歌った雲だ。
山頭火の母親は彼が幼い頃、夫の放蕩を苦にして家の井戸に入水自殺している。山頭火は、引き上げられたその死体を目の当たりにして一生それが心につきまとうことになる。
醸造所の煙を見ながら、彼の心に映し出されているのは彼の母親が煙になって天に昇る姿ではなかったのか。それは彼にとってもしかするといささかなりと救われる思いだったのかもしれない。
青い山の色を背景に立ち上る白い煙。あの青い山の向こうを訪ねてさまよう彼のあてのない旅が予感される。実際に妻子を捨てて放浪の旅に出るのはその9年後、四十四歳のときだが。
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山頭火と言えば、「まっすぐな道で寂しい」を思い起こします。
飲んべえの私だからでしょうか?
現実から逃避する。
右脳人間の自己主義が成せるのか?
投稿: 岳 | 2017年4月24日 (月) 20時43分
岳様
現実こそ虚妄だと思っていたのかも知れませんね。
野山で見るもの、感じるものは、自分自身の外皮をすべてはぎ取った上での実感だったのでしょう。
だから彼の句が直接にこちらに迫ってくるような気がします。
酒の味も格別でしょうね。
投稿: OKCHAN | 2017年4月24日 (月) 21時20分