「は」の呪縛
「は」は“わ”と読む、助詞の「は」である。この「は」が気になって仕方がない。
以前、「ハンパない」と云う言葉がどうにも聞き苦しくて嫌いだと書いた。「半端でない」「半端ではない」という言葉がいつから「ハンパない」などという言い方に変わったのか。気がついたのは芸人がテレビでそんな言い方をしているのを聞いたときだが、とても気になった。ところがいまではだれも彼もがそう言う。もともとそういう言い方があったのだろうか。私が知らなかっただけなのだろうか。
むかしは「は」をそんなに気にしなかった。
クラシックの作曲家の團伊玖磨がアサヒグラフという雑誌に『パイプの煙』というエッセイを連載していて、それが朝日新聞から文庫本としてシリーズで出版されていた。「続」「続々」「又」「又々」「まだ」「まだまだ」と延々と続いて何巻出たのか分からないが、出る度に買っていたからたいてい読んだはずである。
余談だが、加山雄三の作曲者としての名前の弾厚作は、團伊玖磨の「だん」と山田耕作(山田耕筰)の「こうさく」を組み合わせたものだと聞いたことがある。
その團伊玖磨の『パイプの煙』のなかに「嫌いな言葉」という文章があって、彼が虫の好かない言葉がたくさん並べられている。おおむね私の感性と合致することが多かったのだが、そこに、「は」について書かれていたのだ。
「まことに由々しき問題ではある」
「いやはやお賑やかなことではある」
などの、たまたま手元にあった新聞からの用例をあげて「鳥肌が立つ」と云う。絶対にそういう「は」は使いたくないし、使おうとしても気持ちが悪くて使えないとまでおっしゃる。この「は」は私の感性に引っかかるものとして感知されていなかった。
それからである。このような「は」に出会うと気になって仕方がない。世の中にはそんな「は」があふれている。この「は」は必然性があるかないか、不要だというものにはセンサーが働いて、読んでいる文章全体がぐらぐら揺れて見えてしまう。そうなって30年以上が経つが、死ぬまで気にし続けるだろう。
だから自分の書く文章にそんな「は」が紛れ込んでいたりすると慚愧に堪えない思いがするのだが、よく見るといくつもあったりして死にたくなる。「は」の呪縛である。
呪縛の言葉は他にもたくさんある。たいてい名文家は言葉にこだわるもので、それらを読むごとに気になる言葉が増えていき、身動きがとれなくなる。それでこの悪文か、と云われると一言もないが。
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コメント
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こんばんは。
私は「ら」抜き言葉が気になっております。
「食べられる」が「食べれる」などなど・・・
おばぁは気にしすぎでしょうかね?
投稿: マコママ | 2017年6月25日 (日) 18時27分
マコママ様
『パイプの煙』では、ら抜き言葉もやり玉に挙がっていました。
私も気になりますが、当たり前になりすぎてあきらめの境地です。
気になるのが本当なのですけれどね。
投稿: OKCHAN | 2017年6月25日 (日) 20時29分