殺すつもりはなかった
殺人事件や殺人未遂事件の時にたいていの犯人は「殺すつもりはなかった」と言う。まれに「殺すつもりだった」などと犯人が言ったりすると、マスコミは大騒ぎで大々的に騒ぎ立てる。マスコミは普通ではない珍しいものにとりたててニュース性を感じるものであるから、それほどまれなことなのだともいえる。
人の心の中など他のひとには解りようがない。明らかに殺意があったようにしか見えなくても本当に殺す気はなかったのかもしれないし、ほとんど事故にしか見えない場合でも実は殺す気だったこともあるだろう。「相棒」シリーズでもそんなテーマの話があってよくできていたから興味深かった。誰もが殺意を感じていないのに右京が誘導して最後に犯人が殺意を自発的に認めたが、認めたことが誰にとっても空しいことのように見える切ないドラマだった。
ところで犯人が「殺すつもりはなかった」かどうかは殺されたり殺されかかった人にとって直接関係ない。事件の罪は同じである。ただ、罰を受けるときに殺意の有無が情状酌量に値するかどうか考慮されるだけである。
問題は、「殺すつもりがなかった」ら、あたかも罪が軽くなったり、あるいはなかったことにされかねないことである。繰り返すがそれが認められても軽くなるのは罰だけである。マスコミの論調を見ていると罪と罰の区別があいまいで、殺意がないことが犯罪そのものをなかったことにしかねない危うさを感じる。それを承知で弁護士の中にはそれを利用して罰を軽くしようとし、さらには罪そのものを否定しかねないような人物も見受けられて恐ろしい。
しばしば法律を破った人間が、そんな法律は知らなかったと抗弁して無実を訴えているのを見る。法律は知っていたか知らなかったで適用が変わることはあり得ない。人は社会的に地域や国の法律の枠内にあるのだ。そういう言い訳をする人間は必ずいるものだが、それが少数ではなく、大勢になると世の中の秩序は崩壊する。
平然とそういう言い訳をする人間をみて、それでもいいのか、と真似をする人間が最も恐ろしい。それに歯止めのきいていない社会が恐ろしい。
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