分からないものは分からないのか
高校生の時に「世界の名著」という全集が刊行された。確か第一巻がニーチェだったと思う。倫理社会という科目で思想・哲学というものに生まれて初めて出会った頃だったから、そういう本を読めば自分が識らなかった世界のこと、人間のことなどが分かるのではないかと思った。
なんとなくニーチェには食指が動かず(だいぶ後に買った)、キルケゴールの巻を買った。キルケゴールは思想の詩人と言われるデンマークの実存哲学者で、書かれている言葉はあまり難しくない。言葉が難しくないということと書かれている内容が分かりやすいと言うことは別である。特にキルケゴールは敬虔な無教会派のキリスト教徒だから、常に神の存在が想定されている。キリスト教的な世界観を知らないと解りようのない部分が多い。
根を詰めて読んだわけではないけれど、二年間くらいの間、折に触れて頁を開いて、なんだか大事だと感じたところを繰り返し読んだ。どうしてそんなに飽きもせず眺めたのか分からない。意味が分からないけれど、大事だと感じたのである。
森本哲郎老師は大学で哲学を学んだときのことをこう云う。
どうしてこんなにむずかしい文章が書かれているのだろうか。
このような文章をむずかしいと思い、理解できないでいるのは、自分の頭が悪いせいなのだろうか。
それとも、何かを説明するに際して、こんな文章でしか書けないという哲学者のほうに責任があるのか。
もし、それをやさしい表現におきかえてみたら、どういうことになるのだろう。
だが、やさしくいいかえてみるには、少なくともこの哲学者が何をいおうとしているのか、それをつかんでいなければならぬ。
じゃあこの哲学者はいったい何をいおうとしているのか・・・。
師が取り組んでいたのは、カントなどの、キルケゴールよりもずっと難解な文章だったからレベルは違うが、思うことは同じであって、そのことは心強い。
では分からないことは分かりようがないのか。では分からないことに、なぜ大事なことがありそうだと感じるのだろう。なぜそれが大事だと分かるのだろう。
この堂々巡りが私自身を少しだけ鍛えてくれた気がする。放り出さずにいたキルケゴールの言葉の断片にある啓示を受けた。自分なりの解釈が突然降ってきた。世界の見え方が変わるほどの衝撃だった。
その解釈はたぶん、いや間違いなくキルケゴールの云いたいことと違う。違うと思うけれど、私が彼の言葉からもがいてたどりついた世界についての解答だった。
見えている世界が見えているままではないこと、そして他のひとに見えている世界は自分とは違うことを識った。自分と他人は違うことを識った。もともと知っていることを識る、と云うことの意味を識った。
いまだに分からないものは分からない。他のひとには解っているらしいのに分からないことだらけだ。でも、ときどき大事なことらしいと感じるものには食らいつく意欲を失わないようにしている。もがいたあとに自分で解答を見つけ出す喜びを少しだけ経験したことがあるから。
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学生時代、難しい言葉の羅列で書かれた本を手にした時・・・
すぐ give upしました。
難解すぎて、 「こんな小説を書く人の頭は どうなっているんだろう~?」
段々 大人になるにつけ・・・名人と言われる人が、簡素な素朴なものに帰依する!!!。と、
感じた時から、
考え方に影響を受けました。
今回 この記事を読んで思い出が蘇りました。
投稿: マーチャン | 2017年6月30日 (金) 10時10分
マーチャン様
慣れてくると、分からないけれども大事なことが書かれているらしいものと、書いている本人も何を書いているのか分かっていないらしいものや、ひとに分かるように書く能力ないためにわけが分からないものの違いがなんとなく分かってきます。
ぴんと来たもの以外は自分に関係ないものとしてとりあえず除けて置くしかありません。
それで残ったものだけでも手に負えないほどたくさんありますからね。
投稿: OKCHAN | 2017年6月30日 (金) 10時18分