新刊書でなくてもいい
たいした蔵書があるわけではないが、欲しくて揃えているシリーズ物や、何巻にもわたる本の中に欠本のあるものがたくさんある。例えば『酉陽雑俎』という面白い本も、本屋を探し回って四巻まで集めたのに第五巻がない。ところがアマゾンで探せばあっという間にそれが見つかる。
何より嬉しいのは、古本屋では全五巻のその『酉陽雑俎』の第五巻だけ買うことはふつう出来ない。欲しければ五巻全て買うように求められる。ところがアマゾンではバラで買えるのである。これはとても嬉しい。
しかしそうなるとあれもこれも欲しくなって止めどがないのだが、哀しいことに懐には止めどがある。だから廉価な中古の本を探す。形ではなく、中身が欲しいので、新刊ではなくてもまったくかまわない。状態が可より良の方が有難い(分かるひとには分かる)のは、経験的に両者にそれほど価格の差が大きくはないからである。
図書館で読めば良いではないか、とブログでいろいろ新しいことを学ばせていただいているHiroshiさんはおっしゃる。本物の人は形ではなく、中身で学んでおられるのだ。だが私は形の人間で(ちょっと開き直っているようだが、その通りである)、形にこだわって生きることができる程度のぎりぎりのゆとりがある。
むかしは図書館が好きで、よく利用していた。テーマを決めて関連図書を調べたり読んだり、図鑑を見たり美術書などを眺めるのに図書館ほど素晴らしいところはない。しかしいまは図書カードを持っていてもほとんど利用することがなくなった。住んでいる街の図書館のお粗末さは哀しいほどである。名古屋市の図書館のカードもむかし作ったけれど今どこにあるのか解らない。
いまは自分の蔵書の中で、自分の世界で浮遊することに忙しいのである。ほとんどその中味が自分で分かっていない。自分の蔵書の世界の広がりが私自身の想像力をはるかに超えていて、もうそれ以上広い世界が必要ではなくなったのである。私には許されている時間の限度がある。それは多分自分が思っているより少ない。
いまは自分の世界のほころびをうずめながら、世界の密度をほんのわずか上げることにだけ喜びを感じている。拡げることより中身だと知りながら、ひろがりすぎて収拾のつかない自分を楽しんでいる。その宇宙を探索して生きることが私の生きがいであり、喜びなのだと思っている。人間の想像力と創造力はすごいなあ。
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