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2017年10月

2017年10月31日 (火)

中国崩壊論

 中国のメディアによれば、中国崩壊論を書いた本が日本で急激に売れなくなっているのだという。それは日本のどこかの記事から引用して取りあげたものらしいが、詳しいことは分からない。多分そう言うのだからそうなのだろう。

 それは崩壊する、崩壊する、といいながら中国の経済は少しも停滞も衰退もしていないで、ますます元気な現実を目の当たりに見せられてのことであろうと論評していた。

 中国の統計数字が正しいとすれば、その通りである。それにいくら中国の統計数字が疑わしいとはいえ、言い訳が効かないほど矛盾している数字はまさか出さないだろう。ただ、中国のGDPに対する国内実質消費の割合が低いこと、投資が過剰ではないかと見られることは不安材料であることは崩壊論者の指摘するところである。

 中国崩壊論にも数々あって(ずいぶんいろいろ読んできた)感情的に明日にも崩壊するという極端なものから、問題点を列記して次第に崩壊点に近づいていると予言するものなどさまざまである。読むに絶えない、感情的でたったひとつふたつの事柄からすべてを決めつけるものは論外として、中国経済の問題点は根拠を挙げてあれば一応説得力を感じる。

 ただ、中国には国民の数が多いから、優秀な人たちもたくさんいて、それらの問題点を承知していることは間違いない。放置はせずにその対策を必死で講じているはずである。そしてその対策が奏功すればソフトランディングして、正真正銘の先進国の仲間入りすることに成功するだろう。

 ところで中国に腐敗が蔓延していることは衆目の認めるところであり、習近平政権も百万人を超える公務員の処罰をした、と功績として発表しているのは、中国社会に腐敗が蔓延している事実を認めていることでもある。腐敗は何も生み出さない社会のコストで、それは経済を蝕んでいる。

 ただ、考え方を変えれば、腐敗を摘発して少しでも減らせば、社会のコストダウンが打ち出の小槌のように達成できるということで、腐敗もひとつの社会のゆとりなのかもしれない。ブラックユーモアである。

 腐敗、少子高齢化、人件費の高騰による競争力の低下など、中国の抱える問題点は山のようにあるが、それは中国に限ったことでもない。ただ極端なところがあるだけである。それを乗り越えるかどうかが、崩壊論とさらなる成長をするという論との境目であって、それはこれから中期的な推移を見なければ誰にも分からない。

 中国崩壊論を中国の問題点のみを取りあげた読み物としてみることは、中国は安泰だこのまま発展すると無責任に言い立てる楽観論を書き連ねた本(不思議なことに、得てしてそのような本はたいてい日本に対して極めて悲観的である)が中国の統計値を無批判に信じて、矛盾があっても目をつぶり論を立てていることが多いから、それを補整して読むためにも役に立つ。疑うことも予測には必要なのである。

 私がどう中国の将来を予想しようと屁の突っ張りにもならないが、少なくともニュースを見るときの楽しみは増える。中国崩壊論の売れ行きが減少しているのは、雑な本が淘汰されているからだろうと推察する。それなりに読みごたえのあるものは、これからも出版されるし読む人も必ずいるだろう。

 そもそも中国崩壊論という括りがマスコミの客寄せネーミングであることもしばしばで、帯に書いてあることはたいてい刺激的で過激であって、内容は冷静で理知的なものも多いのである。たくさん読んだ私が言うのだから間違いない。ただし、中国の将来に楽観的な人は、おもしろいことに中国崩壊論を読まない。逆もそうだからお互い様だけれど。

 明日から中国・雲南省に旅行。関空出発なので今日、大阪に入る。ガラケーしか持参しないので、記事の更新はしばらく出来ない。ただ事前に埋め草の記事をいくつか書き残しておく。この記事も含めて、欄は閉じていないが、コメントをいただいてもお返しするのは帰ってからになるので少し先になる。あしからず。

2017年10月30日 (月)

映画『アウェイクン 監禁島』2015年アメリカ

 監督マーク・アトキンス、出演ナタリー・バーン、ダリル・ハンナ、エドワード・ファーロング、マイケル・バレ他。

 女性ビリー(ナタリー・バーン)は失踪した姉を探して各地を尋ね歩く。その彼女が襲われ、目覚めたのは小さな島の砂浜だった。その島には、彼女同様世界各地から突然この島に送り込まれた男女が暮らしていた。一番古くからいる男がリーダーとなり、集団で役割を決めて自活しているのである。

 そうこうしているうちに得体の知れない兵士達が上陸して仲間のひとりを連れ去ってしまう。これはいままでにもときどきあったことだという。兵士と戦うに武器もなく、みななすすべもない。

 砂浜から別の島が見えている。その島へ行けばさらにその先になにかがあるかもしれない。ビリーは仲間と島を脱出しようと試みるが、リーダーは無駄だといって賛同しない。以前失敗しているのだという。

 ついに筏を組んで島を脱出したビリー達は、見えていた島へかろうじて上陸することに成功する。そこには大きな邸宅があり、兵士達がたくさんたむろしていた。ひそかに様子をうかがい、なぜ自分たちがあの島へ連れてこられたのか探ろうとするのだが、いくつかの兆候らしきものを見ただけで再びとらわれの身になってしまい、元の島へ連れ戻されてしまう。 

 計画を練り、再び脱出を試みるビリー達、そしてその島の驚愕の目的が明らかになる。

 最後は派手な打ち合いでバッタバッタと人が死ぬ。ビリー達との闘いではないのだが、ダリル・ハンナの怪演をキル・ビル以来久しぶりに見ることになった。ある意味しっちゃかめっちゃかである。カルト映画らしいカルト映画の仕上がりである。低予算だから仕方がないことに目をつぶれば、楽しめる。最後に涙のシーンがあるが泣けない。カルト映画の登場人物は乾いているのである。

映画『最終兵器 ムスダン』2015年韓国

 監督ク・モ、出演キム・ミンジュン、イ・ジア、キム・ドンヨン他。

 韓国映画はちょっとえげつないものもあるけれど、おもしろいものが多い。だからだろう、人気が出て来たから日本で韓国映画を見る機会がどんどん増えた。ところがそうなるとお粗末な映画も見ることも増えた。そして、題名で期待させるけれど、この映画はあまりお薦めできない映画であったということである。

 北朝鮮と韓国の境界線にはDMZという非武装地帯がある。ここでは軍事活動は出来ないのだが、映画ではひそかにしばしば両方の兵隊が暗躍しているらしいことが描かれる。ある指令を受けた韓国軍の部隊がそのDMZで消息を絶つ。

 なにがあったのか、捜索調査のために精鋭部隊があらためて派遣される。ほぼ同時に北朝鮮側からも部隊が行動を始めたらしい。ところがその精鋭部隊の隊員がひとり、またひとりと惨殺されていく。何に襲われたのか分からない恐怖が部隊を支配する。これは明らかに映画『プレデター』的な展開である。

 しかし、実はこの派遣には彼らが知らされていないある目的があった。

 彼らを襲うあるものは殆ど最後まで姿がはっきりしない。こういうものは姿を見せてしまうとなあんだ、ということが多いから、その点は巧妙である。しかしそれにしてもワンパターンの襲撃に精鋭部隊が手も足も出ないのに、最後になると対等に闘い出すところがいかにもである。このパターンは多い。

 もう少し金をかけてストーリーも練り込めば、もう少しおもしろくなったような気がする。惜しかった。

2017年10月29日 (日)

モラルの喪失

 世界的にモラルの低下が起きているように感じるのは私だけではないだろう。それがむかしからあることで、とりたてていま増えているのではないという反論もあるに違いない。何しろそんな統計を正確に取ることは不可能だからだ。

 それなのにそう感じるのはそういう報道が増えているからかもしれない。最近はややこしくて、正義感からの告発のためのものではなくて、自分が腐敗しているのに相手を腐敗していると先手を打って叩き落とすこともあり、さらに自分の論を強調するためにさほどでもないものを針小棒大に騒ぎ立てているだけというものあるので、どれがどれほど深刻なのかがわかりにくくなっている。分かっているのは、ちょっと油断するといつ足元をすくわれるか分からないらしいことだけだ。

 腐敗や搾取が成り立つのは、数多くの搾取される側の人々がいるからだ。腐敗した人ばかり、搾取する人ばかりになったら腐敗も搾取も成立しない。

 中国の共産党員達をはじめとする腐敗の話が山のように語られている。すべてが事実かどうかは知らないがすべてがためにする嘘だなどということはないだろう。そういう話を面白おかしく書いてある本を読み、だから中国の将来は危うい、いまに崩壊する、などという話になると、にわかには信じ難いけれど、こちらにはいささか日ごろの日本に対する居丈高な中国政府の態度に不快を感じているところだから、そうだといいなという願望もあったりしておもしろく読めてしまう。

 それを勘違いして、中国人全体がすべて拝金主義で腐敗していて・・・などと思う人もいるらしいが、それではそもそも国が成り立たないだろう。ただ、そういうのが横行していれば心ならずも多少はそれに合わせて生きのびなければならず、それが次第に普通になってモラルの低下に繋がることはあるかもしれない。

 中国人は・・・などと一括りにしてうっかり言ってしまうが、たいていそのときには対象は限定されている。それが見えない人が勘違いする。調査によれば、日本に親和性を感じない、つまり嫌いな中国人は多いがそれでも約半数で、実は日本人の中国嫌いの人の方が8割以上とはるかに多い。伝えられる中国人の問題点のニュースから、中国人はそもそも、と思い込んでいる日本人が多いということである。逆に中国人はそもそも政府や報道をそのまま信じたりしないから、もう少し冷静なのだろう。

 世界が経済で動いているのはたしかな事だが、いまは実体経済と世界を動かしている経済は違うものだなどといわれると、何のことやらよく分からない。どうも金で金を回すのがいまの経済らしい。だから実体経済の何倍もの金が動いていることになっているのだそうだ。そもそも金は幻想だ、と言う決めつけがあるくらいだから、暴走してバーチャルの妄想的な世界になっているのかもしれない、などと私は思う。その妄想に狂奔して上手く乗れると巨額の富がつかめるらしい。それなら拝金主義がはびこるのも当然かと思う。そうしてその結果、格差が信じられないほど拡がっている。

 とはいっても実体経済しか理解できない、私のような人間も数多くいるだろう。そういう大多数の人がいるからこそ格差の頂点にいる人は巨万の富を手にすることが出来ているのだ。バーチャルで得た富で豊かになった人間はバーチャルで浮き沈みし、風の吹きようで失落するだろう。そういう人をうらやむことよりも、失落をひそかに願望する人の方が多いのではないか(私のように)。

 オーウェルの『1984年』では、人々を情報管制下に置き、外部に空想的な強敵を作り上げてプロパガンダを繰り返し、少しでも政府に疑念を抱いたりすると拘束して洗脳する世界が描かれている。いまの習近平政権にそれに似た傾向が出てきた、と私は思っている。

 拝金主義の人々がいるらしいたくさんの話題を見聞きし、しかも情報統制を強化する全体主義的な傾向がある中国にいささか辛口の物言いもしたくなろうというものだ。

 そのときに、中国にもこんな風に真面目でモラルのある人がいる、そしてそれが普通だ、と反論されたりすると面食らう。当たり前である。全員がモラルを失い拝金主義になったら、マッドマックスの世界である。『1984年』のように極端な世界でも、我々から見れば普通の人がいるものである。そのような真っ当な人がたくさんいるから、中国には問題はない、と言う結論にはならないのであって、問題点は問題点である。

 そのことは中国の悪口を言ったから日本は正しいなどということには決してならないことと同じである。日本の問題点は問題点としてあるのである。以下アメリカも同様。モラルの低下がその問題点の背景にあるのではと私は感じているし、そう感じる人は少なくないだろう。

 では自分はどうするか、どう生きるか、と私は考えるのである。それを考えるために本も読み、旅もし、歴史を知ろうと努めるのである。自分のことしか考えていないではないかといわれれば、その通りである。考えても何もしないのである。申し訳ないことである。

橋本治『知性の転覆 日本人がバカになってしまう構造』(朝日新書)

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 若いときから橋本治の文章を読む機会があった。とてもユニークでおもしろいことを書いていることは感じているのに、文意がいまひとつ理解できないことも多かった。

 内田樹老師が橋本治氏を尊敬していると知り、あらためて意識して新しく出た著作を読むようにしていたら、独特の言い回しにはそれなりに意味があることが読み取れるようになった。結論ではなく、考えていく筋道がそのまま呈示されているのだ。だからその筋道を踏みはずさないようにたどっていけば、いかにもユニークな話が、実はとても論理的な話であることが分かるのである。

 氏の文章は書き言葉というよりは話し言葉に近い。だから話を謹聴するつもりで読めば良いのである。話は一見するとあちらに飛び、こちらに飛びするけれど、それは人が話をするときに似ている。相手の顔を見てどこまで理解したのか確認しながら例を次々に挙げて説明していく。それを文章を通して進めていくのである。

 この本では世界がいまどのような状況にあるのか、橋本治氏の視点から解釈していく。ブレグジットを起点にして世界を解釈した前作『たとえ世界が終わっても』に続き、歴史的な転換点にいる世界がどのような危機のなかにいるのか、そして私はそれをどう受け止め、どう生きたら良いのか、価値観の基準をどこに置くべきか、それについてのサジェッションに満ちている本だと思ったのだが、どうだろうか。

 試しに読んでみませんか。

2017年10月28日 (土)

深酒

 昨晩は深酒をした。いつも以上に酒を用意したのだが、あればあるだけ飲んでしまうバカ親父に子どもたちもつき合ってくれて愉しい酒だった。

 いつもは酔うと私が半分以上しゃべって、子どもたちは我慢して聞く側に廻るのだが、昨日はたまたま息子とどん姫が二人で意見交換をしている。いろいろな話題を話していて、とても面白い。いつもなら割り込むのだが黙って聞いていた。

 二人とも子どもの時から私の考えを聞かされ続けて育ったから、聞いていると思考がよく似ていることに嬉しくなってしまう。多分周りの人とは少し毛色の違うものの見方をしていると思うが、それが彼らにとっていいことなのかどうか分からない。

 昨日はご馳走というよりも、ちょっとした料理をたくさん並べた。しかし私にとっては子どもたちの会話を聞いているのが一番のご馳走だった。二人ともずいぶんおとなになったけれど、それでも私の子どもであることが不思議なような嬉しいような気持で、好い酩酊をすることが出来た。

 私が彼らがいることを何よりも悦びとしているように、彼らにとって私が存在していることを当たり前で、なおかつかけがえがないことと思ってくれているらしいことは、泣けるほど嬉しいものである。この頑固親父も軟弱になったものだ。

室谷克実・宮崎正弘『赤化統一で消滅する韓国 連鎖制裁で瓦解する中国』(徳間書店)

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 こういう長いタイトルの本は気をつけないといけない。しばしば強く影響されかねない物言いが満載されているからだ。この本も韓国や中国がむちゃくちゃなところで、明日にも崩壊しかねないなどと勘違いしそうなところがある。

 ではどうしてこんな本を読むのか。まず宮崎正弘という人が感情でものを言う人ではないことをいままで読んだ本で知っていること、その言説には事実の裏付けがたしかにあると信じられることがあげられる。ただその事実がそれとは反する事実を併記していないだけである。しかも彼は中国ウォッチャーではあるが、世界中に目配りが利いていて、その情報の幅が大きく詳細なのである。

 室谷克実にしても机上の韓国ウォッチャーではなく、行動するウォッチャーとして空想で言説を語っているわけではないことも承知している。紹介する事実が少々偏っているに過ぎない。こちらがそれを承知していれば良いだけである。

 へえー、そんな話があるのか、そんなことになっているのか、と私は読んで楽しむ。どうして楽しめるのか。韓国や中国がこんな風になるのではないか、と思うようなことを「こうなる」と言い切ってくれるからである。ひそかに願望していることをいってくれることに楽しさを感じるのである。

 でも実際に必ずしもそうなっていないことも承知している。

 見方によっては彼らは反韓反中そのものである。この本を読んで快感を感じる人のなかにはそれを悦びとする人もいるだろう。しかし彼等が韓国や中国に対してヘイトを叫ぶような連中とは全く違うことに気がつかないといけない。

 彼らがわざわざどうして韓国ウォッチャーだったり中国ウォッチャーになっているのか。こころから嫌いだったらウォッチなど出来ないものだ。好きだから興味を持ち、好きだから人脈も持ち、好きだから情報も集めてウォッチャーになっているのである。そして好きだから、こうであって欲しいという思いが人一倍強いのである。そういうもどかしさが彼らにウォッチする国の問題点をとりたてて語ることに駆り立てているのだ。

 石平氏や呉善花氏のように日本に帰化した人たちがことさらもといた国に厳しいことにいうのとよく似ている。

 私は昔から中国が大好きで、しかも大嫌い、と言っていた。つまりそれほど好きなのである。大好きな国だから気になって仕方がないのである。悪口も言うのである。

 ということで、来週中国に行きます。いろいろ気にさわることを言ったこともありますが、私は貴国が好きなので、中国のスパイ狩りの人は私に眼をつけないでください。

 あっ、本のことを書くのを忘れていた。へえ、なるほどそうなのか、と思うことがたくさんあるおもしろい本です。

2017年10月27日 (金)

いまさら気がつく

 今月初め、会社の後輩が勇退するというのでOBを含めてのささやかな送別会に参加した。時間の制限のある飲み会だったのは飲み放題だったからである。会が解散の時に、最初ビールを飲むピッチが遅いのでどうしたのかと思っていたら、ワインに切り替えてから昔通りだったから安心した、と皆に言われた。

 鯨飲馬食が酒席での私の唯一の芸だったから、息つく間もなしに飲み食いして人をあっけにとらせることが多かった。思えば自分はつくづくバカだったなあと思う。割り勘で飲むときなどはどれほど迷惑をかけていたのかと思うが、それを迷惑と感じさせないために限度をさらに超えて見せていたような気がする。ますますバカである。

 飲み放題食い放題などという店では従業員もたくさん飲み食いする客を見なれているはずだが、その従業員がさすがに眉をひそめていたこともある。ただ私は元を取ろうということはあまり考えず、どれだけ飲み食いできるのか挑戦するのを楽しんでいたつもりだった。

 その記念として糖尿病が持病として残されたが、それは自業自得である。しかし先日の送別会でのみんなの言葉に、いささか忸怩たるものを感じた。自分の鯨飲馬食に「さもしさ」がなかったのかどうか。さもしいことは醜いことだとこころから思っているつもりなのに、気がつくとついそういう行動に走っていたりする。人がそういう行動に走りがちなのは、損をしたくないという気持がどこかに常にあるからだろう。

 金持ちになる人は得をしよう、儲けようのこころが強い人であろう。損をしたくないという人は、見かけ上は得をしたい人に似ている。ところが損をしたくないというばかりの人は決して金持ちにはならない。損をしたくないひとは弱い人だから、負けたくないという思いからしばしばいかにも図々しいことを平気でする。自分が見えていないのだ。そういうのを見るとわたしは嫌な気がする。

 もともと得をしようとする気持はあまりなかったけれど、ある頃からわたしは、損をしてもいいではないか、と思うようになった。そうするととても生きるのが楽になった。もちろん貪る人にこちらの分け前まで侵されるようなことは許さない。それは理不尽を許すことだからだ。そうでなければ目くじらは立てないよう心がけているつもりだ。

 そういう気持で世の中を見ていると、さもしい人々に満ちあふれているように見えたりしてしまう。実はさもしくない人のほうがずっと多いのだけれど、そういう人は自己主張をあまりしないから表面に出ないので見えないのだろう。

 中国や韓国のニュースに笑ってしまうようなさもしい人の話があふれているので、つい悪口を言いたくなるのだけれど、さもしくない人のほうがそれらの国でも多分普通なのだと思う。我慢して天を仰いでいるのだろう。さもしい人が多数になれば世の中は成り立たないはずだと信じたい。我慢している人がいてこそのさもしい人である。

 そのようなさもしい人が日本にもいて、少し増えている気がしているが、それは損をしたくない弱い人が増えていて、その人達をあんたは損をしている、と焚きつける人々がいるからだろう。さいわい私の知っているかぎり、若い人たちには比較的に少ないようで、別に得をしたくないし、ときには損をしてもいいと達観している人が多いようだ。そのことは活力には繋がらないが、未来に違う意味で希望があるような気がしている。そこにこそ、もしかしたら平和があるのかもしれない。

ニュース雑感

 希望の党に合流した民進党議員達が小池党首に対して批判したという。小池氏の不適切な発言が選挙を戦いにくくし、それが理由で敗れた仲間も多いと恨み節を語っているらしい。

 言い分はもっともに思える。たしかに小池さんの言動はおかしかった。批判されて然るべきである。しかし批判することが出来るのは第三者である国民であって、その結果が選挙結果となったのである。当事者である希望の党に合流した民進党議員達はその批判の対象でもあるのであって、少しみっともないのではないだろうか。合流は自己判断で決めたことでそれこそ自己責任である。

 小池党首が悪いのだから、希望の党に合流するときに入党条件とされた党是については無効だという議員もいるという。消息通によれば、そもそも選挙に勝てばそんな約束はうやむやにしてしまうつもりだった人も多いのだという。党首を批判することと約束を破ることが繋がるとはとても思えないが、彼らには整合性があるのだろう。これでは国民に信用されないのも当然である。

 神戸製鋼の不祥事が次々に明らかにされ、思った以上に根深いものであるようだ。製造会社が製品の品質管理を軽んじて改竄するなど、日本ではあまり聞いたことがなかった。それが東洋ゴムに始まり、タカタ、そして今回の神戸製鋼である。日産もそうか。情けない。

 神戸製鋼の不祥事はここまで拡がっているところを見ると、会社ぐるみのようだ。品質などただの絵に描いた餅で良いのだと考えるのが体質として染みついていたとしか思えない。トップが知っていたか知らなかったか、などという論議も出ることだろうが、知らないでいたはずがないし、もし本当に知らなければただの無能者である。どちらにしても責任逃れの言い訳に見えてしまう。

 中国の工事が手抜きでおから工事だと笑っていたのに、もう笑うことなど出来ない。世界的に品質を信頼されて供給してきた会社であるから、巨額の補償請求が発生することだろう。信用失墜は金銭的な損失にとどまらずに会社の存続そのものに関わってくる気がする。解体して他の会社に吸収されるという結果に終わるのではないか。従業員はいま不安でおびえているだろう。それだけ責任が重いのである。

 中国の共産党大会が終わり、新しい常務委員も明らかになった。相も変わらず全員一致の拍手で終わる姿はある意味異様なのは、反対したくても反対できないからだと誰でも分かっているからだ。

 腐敗退治の先頭に立っていた王岐山はやはり継続しなかった。習近平は継続をのぞみ、強く慰留したとも伝えられるが本人は続ける気がなかったという。そもそも続けることは年齢制限の慣例に反することになる。その慣例を破ることも習近平の思惑だ、との話もあった。自分が慣例に反して三期目を正当化する布石だという。

 王岐山は常に命を狙われているので所在は常に不明である。多くの人を獄に送ったから深く恨まれているのである。彼は共産党の存続のため、そして盟友である習近平のために汚れ役を引き受けていた。これからも彼は闇に生き続けなければならない。

 二期目には次期主席候補を常務委員に入れておくのが慣例だが、今回は想定される候補がいない。これは習近平が三期目も主席を続けようと考えているからだという。彼がより立場を強めようと手を打っているのはそのためなのだろうか。

 私から見れば茫洋としているばかりで、習近平にカリスマがあるように見えないのだが、中国ではああいうタイプが権力を握ることが多いのだろうか。これは何の根拠も無いのだが、私は習近平という人間は実は小心で、そのために猜疑心が強く、強権を握るまでは猫をかぶっているが、いったん絶対的な権力を握ると粛清に走るのではないかと危惧している。

 中国では皇帝になると次々に回りを粛清していった例にこと欠かない。漢の劉邦などがたちまち頭に浮かぶ。毛沢東もそうだった。毛沢東の再来を自認しているであろう習近平が時代錯誤的に情報統制を強化している姿に、恐ろしいものを感じる。

2017年10月26日 (木)

集う

 明日の晩、土曜日の友人の結婚式に参列するために息子が帰って来る。それを連絡したら、娘のどん姫も夜遅くなるけれど帰って来るという。

 思わぬ家族集合である。お酒と料理の準備をしなければならない。料理は何を作ろうかなあ。それよりも今、家の中はレイアウトの変更でぐちゃぐちゃである。とりあえずみんながゆったり飲み食いして寝ることが出来るようにしなければならない。あせるなあ。

兆候

 早めに寝るよう心がけているのだが、寝床に入ってからつい雑誌を見たり本を読んだりしていると寝そびれて、眠れなくなって夜更かししてしまう。当たり前だが早く眠れた日は早く起きるし夜更かししたら朝寝坊することになる。貧乏性でもともと朝方だから、起きるのが遅いとなんだか損をしたような気がする。その日の一日が短いからである。

 第三弾の処分用の本を選定した。今回は文庫本と新書が主体だ。だんだん思い切りが良くなってきたので手放すと決めた本の山がたくさん出来た。ブックオフへの引き取り依頼は旅行から帰ってからにする。それにしてもため込んだものの多さにあらためて驚く。本につぎ込んだ金額を思い、その年月の長さを思う。今回はほとんど金にならないだろう。ただ捨てるよりは本が生きる望みがちょっとだけあるということで好い。

 第七艦隊に空母が一隻追加されて三隻体制になるという。第七艦隊は横須賀港を拠点にして、インド洋から日本周辺までの海域を守備範囲とする。通常は二隻体制である。

 アメリカが北朝鮮に対して軍事行動を起こす兆候はいくつかあるが、そのひとつが空母の増強だという。二隻で軍事行動を起こすのは不足で、必ず三隻乃至四隻にするだろうと軍事専門家が言っていたのを思い出す。

 もう一つ、韓国に暮らすアメリカ人の国外避難の動きである。家族を本国に帰国させる動きはあるものの、全体的にはまだ大きな動きは見られない。米韓軍事訓練などとともにアメリカ民間人の避難訓練が実施されている。これは年に一度くらい定期的に行われていたが、その回数がいままでになく増えているそうだ。

 日本政府も不測の事態に備えて在韓日本人の避難を検討しているが、輸送のためには自衛隊の輸送船が出動しなければならない。これは韓国が自衛隊の船の入港を認めなければ不可能で、そのための水面下での交渉が行われているようだが、文在寅政権がそれを事前に認める可能性は低いかもしれない。

 空母の増強と避難訓練の増加が北朝鮮の危機に対しての備えなのか、アメリカの軍事行動の準備なのか。多分両面であろう。トランプが訪韓する前になにかが起こるとは考えにくいが、考えられないときに行動を起こせば奇襲が成功する可能性が高いから分からない。

 とにかく第七艦隊の空母がアジア地域に増強されたそうだ。

2017年10月25日 (水)

長谷川慶太郎『2018長谷川慶太郎の大局を読む』(徳間書店)

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 毎年年末に読むのを恒例としているのだが、今年はずいぶん早く手に入れてしまったので、早速読んだ。

 長谷川慶太郎翁、1927年生まれだから今年御年90歳である。このところ新刊を見ないから、さすがに息切れしたのかと思ったらさにあらず、相変わらず意気軒昂である。

 帯に「三人のアナクロニストとひとりの核信者に引っ掻き回される世界秩序」とあるが、言い得て妙である。誰のことか分かりきったことだが、あえて云えば、アナクロニストとはトランプ、プーチン、習近平、核信者とは金正恩であり、アナクロニストとは時代錯誤者のことである。

 西洋人達は自分たちが傲慢だとは毛筋ほども思わずに世界に雄飛していった。アジア、アフリカ、アメリカ、つまり西洋以外をすべて彼らの思うままに引っ掻き回してしまった。自分たち以外の人間など人間だと思っていなかったから何の疚しさも感じなかったらしい。何しろ神様までそれを善いこととしたのである。

 しかしさすがにどうも見た目に違いはあるものの殺したり奴隷にしていた連中が、実は自分たちと同じ人間らしいと気がついた者が出てきた。接触回数が増えればそれを識る人間が増え、20世紀になってようやく次第に世界は西洋人だけのものではないことが認識されてきた。それが標準的になったのは後半になってからのことである。今世界中でそのツケの支払いが要求されている。誰が誰にどういう根拠で要求しているのかよく分からないけれど。

 トランプが過去の西洋人と同じ意識を持っているとまではいわないが、アメリカファーストにはそのような意識が潜んでいる。中国や日本や韓国との貿易で赤字が出ることは間違っている、という決めつけはそこから発していないか。そもそも対等であることが彼には理解できていない。自由貿易の否定は時代錯誤的である。

 世界の覇権を握っていたイギリスが衰退し、交替してアメリカが主役となって20世紀はアメリカの時代になった。ドルを基軸通貨とし、豊富な原油や資源、豊かな農地を持って世界の富を集中させて繁栄を誇っていた。二度の大戦もアメリカが戦場になることはなく、ひとり勝ちの時代が続いた。

 アメリカやドイツがどうして第二次世界大戦後に急激に伸長していったのか。国土が灰燼に帰し、工場も壊滅したからである。最新式の設備を歯を食いしばって新たに作るしかなかったのである。そのとき、戦場にならなかったアメリカには古い設備が山のように残っていたから、新たに設備を作る必要はなかった。しからば生産性は向上しない。日本やドイツの最新式の工場が稼働し始めたら競争力がどちらにあるか明白である。しかもアメリカは繁栄のなかにあるから人件費にも大きな違いがある。高賃金で生産性が低ければ、工業製品は競争力が低下する。

 豊かな者はあとから来る者に必ず競争力で劣る。日本が韓国や中国に追われ追いつかれた観があるのはその故である。しからば彼らもさらに後ろにつく者に追われていくのである。

 トランプがアナクロニストだというのは、彼が繁栄したアメリカを取り戻す、と豪語するからである。彼はそれを本気で達成しようとする。世界中が大戦で疲弊しているときに、人的被害以外は国土も設備も損なわなかったアメリカは、わが世の春を謳歌し続けた。その時代のアメリカの繁栄を取り戻す、というのである。いかに無茶な夢を描いているのか分かろうはずなのに、アメリカは彼を大統領に選んだ。選んだ者たちは同じ夢を見たのか。まさか。

 プーチンは、冷戦がソ連の敗北に終わったことを認めない。冷戦は彼の元で再開されていると考えている。彼はロシアを元のソ連時代のように強大にすることを夢見ている。ソ連崩壊で独立した周辺国を再び引き戻そうとしている姿を見れば分かる。彼は世界に自らが関与して力を誇示しようとしている。彼もアナクロニストであることは明らかだ。

 習近平は・・・。彼は清王朝時代の領土の維持とさらなる覇権の拡大を夢見ている。西洋列強や日本に蹂躙された中国を19世紀以前の中国に戻すことを夢見ている。彼は中国を取り戻す、と国民に公言しているのである。それは彼の新中国の皇帝としての約束である。発足時の中国共産党が夢見たのは国民が飢えず、生命財産が収奪されない中国であったはずだ。少なくとも孫文はそう考えていた。

 毛沢東にしても歴代の主席達にしても全面的ではないにしてもその志は持っていた(と信じたい)。ところが私の見るところ習近平にはそれがあまり感じられない。彼の目指すものが新王朝的中国であり、自らの絶対的権力であるなら彼はまさしくアナクロニストである。

 核信者の金正恩、語るに落ちる。彼が北朝鮮国民のことを考えて行動していると思う者など誰もいないだろう。彼は自分が殺されないで今のままで体制が維持されることだけを必死で考えている。存在そのものが国民にとって、そして世界にとって悪夢でありながら存続し続けていることに不思議なものを感じるが、猫の首に鈴をつけるのは難しいものらしい。仮定未来的にみれば、彼がいなくなった世界では、どうしてこんな簡単なことをいままでせずに放置していたのだろう、とみなが思う気がする。

 以上は長谷川慶太郎が言っていることではなくて、彼が見立てた世界のポイントとなる人物の人物評から私が考えたことである。

 長々と書いているうちに肝心のこの本について書くには長すぎるものになってしまった。長谷川慶太郎翁はその視点から、これからの直近の世界がどうなるのか明快に解析している。もちろん日本についても予測していて、書いた時点ではまだ起こっていなかったことを驚くほど的確に言い当てている。嘘だと思うなら読んでみて欲しい。

 内容から思ったことをあらためて個別に書く機会があるかもしれない。

映画『山猫は眠らない4 復活の銃弾』1911年アメリカ・南アフリカ

 監督クラウディオ・ファエ、出演ブランドン・ベケット、ビリー・ゼーン他。
 トム・ベレンジャー主演の『山猫は眠らない』はスナイパー映画の傑作であると思う。彼が主演して2と3も作られた。しかし彼が主演しない4以降(人気があるのでさらにこの続編も作られている)はあまり期待しなかったし、がっかりしたくなくて録画していたこの映画を観るのを後回しにしていた。

 スナイパー(狙撃手)は狙う相手から反撃を受けにくい長距離から敵を倒す。そのような場所を確保し、身を潜ませ続けてチャンスを待つためには想像を絶する能力が必要なのであるが、そのことは第一作で詳しく教えられている。

 この映画の主人公は彼の伝説のスナイパー、トーマス・ベケット(トム・ベレンジャー、この映画には登場しない)の息子、ブランドン・ベケット。内心では父を尊敬しているのであるが、まともな息子ならそうであるように父に反発して、才能があるのに普通の歩兵となり、国連派遣軍としてコンゴ国境近くにいる。

 国境を越えた先では反体制派の動きが活発になり、難民があふれている。多くの白人市民が退去勧告により避難しているのだが、頑として自分の農場から動かないベルギーの農場主がいる。ブランドンたちは彼を強制的に退去させるように命令されて国境を越える。

 拒否する農場主を何とか避難させることに成功したかに見えたそのとき、突然部隊が襲われる。次々に倒されていくのだが、どこにどれだけ敵がいるのか分からない。ついには農場主も命を失ってしまう。脱出のチャンスをうかがい思いきって動き出した部隊はついに全滅する。だがブランドンは負傷して死んだと思われて生きのびていた。

 彼を助けたのは地元で金持ち相手に狩猟ハンターをしている男だった。彼は軍にも反体制派にも金をつかませているので、特別扱いをされている。彼の助力もあって彼は生還することが出来たのだが・・・。

 傷を癒やしている彼をリチャード・ミラーという男が訪ねてくる。彼は父のベケットに狙撃の教練を受け、いまは親友であると名乗り、ブランドンに狙撃手にならないかとさそう。

 ブランドンは自分達を狙撃したスナイパーに復讐を果たしたいというつよい気持があった。そしてその襲撃に不審なところがあることも感じていた。

 やがて彼は再び国境を越える。そしてあの与えられた任務の意味とその背後にある黒い闇を知ることになる。その彼をなきものにしようと多数の部隊が迫る。さらにその後ろにはあのスナイパーが潜んでいた。

 日本では劇場未公開らしいが、映像は美しいし俳優の出来も悪くない。ストーリーにも筋は通っているから劇場で公開したらそこそこ客は入っただろう。正し『4』などとつけたら第一作を観た人しか観ないから違う放題にするほうがいいが。

 期待しなかった分だけ儲けもののおもしろい映画だった。

2017年10月24日 (火)

せいたいこう

 西太后は”せいたいごう”と読むのだとずっと思い込んでいた。太后は”たいこう”と読むことは承知している。しかし私にとって西太后は”せいたいごう”であった。

 だいぶ前(多分2011年)にNHKBSで放映された『近代中国に君臨した女性たち』という番組で、西太后、婉容(ラストエンペラーであり、満州皇帝の宣統帝溥儀の正室)、宋慶齢(孫文夫人)、江青(毛沢東夫人)の四人が取りあげられていた。それを録画して一度観ていたのだが、雑な見方をしていたので消さずにとっておいた。それを今回見直して”せいたいこう”であることを知った。

 もちろん”せいたいこう”とよむ人がいたことは承知している。しかし今回解説をしていた加藤徹氏もそう読んでいて、番組に登場した人もすべてそれで統一されていたから、その読みが正しくて私が違っていると認めたのである。

 本妻である東太后は私も”とうたいこう”と読んでいたのだから当然と言えば当然とも言える。私の場合は皇后を”こうごう”と読むからそう思い込んでいたのかもしれない。

 長々とどうでも良さそうなことを書いて申し訳ない。自分で思い込んでいたことが実は違っていることをずいぶん知らずにいて恥ずかしい思いをすることがある。年齢とともに、わざわざ教えてくれる人がいなくなっていることはさびしいことだ。知らぬが仏と言うが、死ぬまで知らずにいればそれで良いと諦める気にはならない。

 自分が間違っているのに相手が違っていると強弁する人を見ると腹を立てていたが、自分がそんなことをしていなかったのか、ちょっと忸怩たる思いを覚えている。

 その四人の女性についてはあとで書くつもりである。

株価が上がっているけれど円安で・・・

 日本の株価が上がっている。選挙の結果が理由だという。いままでの経済的な施策が変わらないことを好感しているそうだ。市場はアベノミクスを悪いものとは考えていないらしい。この評価は些細なことで急変するから単純に受け取れないけれど、市場は安倍政権の存続を是としたのであろう。

 株価が上がっていることは、株を持っている人には朗報であろうが、もう一つの、株が上がる要因である円安については、これから海外に出かけようとする人間にとってはありがたくない。来週には雲南省にいる身としては、円安は痛い。

 ところで中国では100元札の一割(!)は偽札だなどと聞く。それほどではないにしてもあながち嘘でもないらしい。それも手品のように偽札と分かっているのに持たされるおそれがあるなどという。だから高い手数料を取られるから損だと分かっていても、日本で事前に両替しておこうかなと考えている。日本で偽札をつかまされることはまずないそうである。

 レートが昔から見たらとても不利である。とはいえ何割も違うわけではない。どのみちたいした土産を買うわけでもないし、食事でちょっと贅沢するのは最後の上海の晩だけなので、大げさに言うほどのこともない。両替するのを最小限にするだけのことである。だいぶ前から中国では日本人はケチだと思われ始めている。私もそうするだけである。

 それにしても裏道で写真を撮るのが好きな私としては、スパイと見做されないように注意しようと思っている。中国が見せたくないところの写真をわざわざ撮るのが私の趣味である。中国の隠したいところを暴くのはスパイだと言われればその通りである。いままでにも西安で共産党員だというガイドと歴史認識で言い合いをしたこともある。

 習近平は第2の毛沢東になりたいらしいというし、これからの中国はどうも大げさでなしに文化大革命時代の中国に近いようである。文化大革命についてずいぶん本を読んで、文化大革命時代になにがあったのか、普通の人よりはよく知っているつもりである。

 それなら何に注意するのか、知らないわけではないが、まさかという思いのほうが大きい。さあ、中国で何を見てくることになるだろうか。いままでブログで中国のおもしろい話を紹介したと言っても、今回は私はたかが観光客である。見逃して欲しい。

 私は臆病なのである。

2017年10月23日 (月)

北朝鮮が・・・

 北朝鮮が今回の衆議院選挙を、大義なき選挙だった、と報じたことをおもしろく感じた。北朝鮮としては交渉相手としてハードでタフな安倍首相が勢力を維持することはありがたくないことだ、と思っているであろうその本音が見える。安倍首相は光栄に感じて良い。

 選挙が終わってみれば、与党が圧勝だったと誰もが言うけれど、もともとの数より減っているのであるから、見方によれば勝ったのか負けたのか微妙なところもある。しかし安倍首相は、こんなに勝つとは思わなかった、と洩らしたと伝えられる。その気持ちは良く解る。党内にゆるみが見られ、自らもそれを反省しなければと考えていたはずで、それが想定以上に勝ってしまったから、ゆるみは解消されずにさらなる劣化が起こるおそれがある。

 緊張感の欠如は相手に攻撃材料を提供し続けることに繋がるであろう。しかも野党やマスコミは相手が絶対的に強い鉄壁の悪の巣窟として、何を言っても許されるとばかりに却ってかさにかかるだろう。野党に引くに引けない背水の陣をひかせたことは、強敵を生み出したことにほかならない。そのことを自民党の多くは承知していても、間違って受かった連中は気がついていない。勝ったのに憂い顔に見えた安倍首相は、さすがにそのことに不安を感じていたのであろう。

 ところで韓国のマスコミも中国も北朝鮮以上に安倍首相が断行した今回の選挙を批判している。そしてこの結果によって日本が自衛隊を軍隊として増強し、戦争が出来る国にすることが出来る憲法改正への道を開いた、と報じていた。では彼らには軍隊はなく戦争が出来ない国なのか。その軍備を増強などしていないのか。

 世界の中で日本を敵視しているようにしか見えない数少ない三ヶ国が、揃って今回の選挙の大義を疑問視し、与党が過半数を大きく越えて政権を維持した結果を憂慮していることは興味深い。

 いままでは強く出れば必ず頭を下げてきた日本の首相が、アメリカを後ろ盾にしながらではあるものの、一歩も引かないことにやりにくさと不愉快を感じて来た三カ国が、今回の選挙を批判するのは当然といえば当然かな、と思ったりした。欧米や東南アジアでは今回の選挙結果をどう報じているのであろう。

台風一過で抜けるような青空だが

 昨晩は台風で強い雨が降りつづいた。その様子を見ながら、村田諒太のミドル級のタイトルマッチを見ながら、衆議院選挙の結果報道を見ていた。ずいぶん夜更かしをしてしまったが、いつもよりだいぶ朝寝坊して、起きて外を見たら台風一過で抜けるような青空である。ずいぶんしばらくこんな青空を見なかった。吹き戻しの強風が残るといわれていたが、それほどのことはない。

 テレビでは各地の台風の被害の様子が映し出されている。あちこちに甚大な被害が起きたようである。直接被害を受けた方はもちろん、インフラが寸断されて生活に支障を来している人たちも多いことであろう。お見舞いを申し上げたい。

 そうこうしていたら、マンションの館内放送が流れて言うことには、「水道がトラブルになっているのでしばらく使えません。ただいま復旧のため、業者が作業中です。トイレに困ると思いますが、マンションの外の公衆トイレは使えるので、そちらを使ってください」。

 いまのところ復旧したという連絡はない。トイレの水タンクに残る水は二回分くらいはあると思うが、それを使い切ったらどうなるのだろう。館内放送がそれほど深刻そうな言い方ではなかったので、多分大丈夫だろう、と楽観的に考えることにする。

 ところで昨晩の選挙結果を問われた前原さんや小池さんの声に元気がなかったのは当然としても、大勝したはずの安倍首相の声に元気がなかったのが気になる。どこか具合でも悪いのか、選挙疲れだけなのか。私の気のせいなら良いのだけれど。

2017年10月22日 (日)

澤田瑞穂『中国史談集』(ちくま学芸文庫)

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 澤田先生の『鬼趣談義』(中公文庫に収録)という本は私の大好きな志怪小話について博捜した素晴らしい本だった。高濃度でボリューム満点のその本は私の宝物の一冊である。

 澤田先生は早稲田大学の中国文学専攻の教授で、2002年に仙籍に入られた。

 今回読んだこの本は、中国の歴史や文学に興味のある人ならば新たな知見を得ることができることに感激し、なおかつこころから楽しむことが出来るはずの本である。ただし中国関係の書籍をある程度読み慣れて基礎知識を持たないと、読むのに苦労するかもしれない。ふりがながない漢字が多いし、初めて出会う漢字がたくさんあるはずだからだ。ふりがながないのはそもそも日本語で読むことが想定されていない文字であることが多い。ふりがながないことに腹を立ててもしようがないのである。

 知らないし読めない漢字があったらどうするか。文意がとれないなら漢和辞典で調べるしかないが、そんなことをしていたら興がそがれる。全体として文意に見当をつけながら読み進めていればおのずから分かることが多いし、その経験を積み重ねれば、文意のとり方も巧みになるものである。私でも読めるのだから、その気になれば誰にでも読めるだろう。

 この本も盛りだくさんで、高濃度の本である。だから読むのに半月ほどかかった。そもそも一気に読む本ではない。25章くらいに分かれていて、それぞれテーマが異なる。もともと書き下ろしではなく、学会誌に発表されたものや講演から文章に起こしたもの、さらには未発表の原稿の中から選んだものが集められて早稲田大学の出版局が本にしたものである。それが今回文庫化され、読むことができるようになったことはまことに喜ばしい。

 テーマをいくつかあげれば、中国の天一坊事件のかずかず、北宋末期、徽宗・欽宗の話、宦官について(劉瑾、魏忠賢などが章を替えて語られている)、倭寇とニセ倭寇について、明末・崇禎帝の話、刺青の話、残酷刑の話、流言、誘拐、変革と宗教結社などである。

 どのひとつのテーマでもそれだけで本一冊になりそうな内容が凝縮して詰め込まれているのである。一度だけでは表面しか読めていないから、間を置いて二度三度読みたい本である。

 いま三田村泰助『宦官』(中公文庫・名著として名高い)という本を読み始めたところだが、澤田先生の本を基礎に置いて読み進めると立体的に読める。実はずいぶん前に買って、読みかけで放り出していた本だったのだが、手がかりがつかめればこのように読めるようになるものなのだと、あらためて澤田先生に感謝している。

こういう報道は是か非か

 TBSの系列で昨夕報道された『報道特集』という番組で、障碍者を大量殺戮した相模原事件の犯人、植松聖との拘置所の面談の詳細を報じていた。

 なぜあんな犯罪を犯したのか、視聴者は知りたいはずだからその真実を犯人本人と面談して報じよう、というのが番組の主旨であろう。そこに私は異議がある。

 面談した記者はどうして犯人と面談しようとしたか、と問われて、彼の起こした事件は特殊だが、彼は特殊ではない、彼があのような事件を起こしたことには社会的な背景があるのだ、と答えていた。

 この記者の気持ちの底に、一般の人に障碍者を排除する気持があり、それを彼が正直に体現したのだ、という思いがあるのだとしたらとんでもないことである。

 たしかに障害者の施設を新設しようとすれば住民の反対運動が起こるだろう。しかしそれは社会が障碍者を排除しようとしているということと同義ではない。たしかに排除の気持があろうとも、人はそんなものはないように見せるくらいのたしなみを持っている。

 もし社会に障碍者を排除する気持があるから彼は特殊ではない、などという論理を許せば、そのようなたしなみによる歯止めがなくなり、事件は次々に起こるだろう。

 面談した記者の問いかけに答えて、犯人・植松聖の語る言葉が詳しく紹介されていた。これは植松聖の社会に対するメッセージそのものである。私から見れば歪みきった犯人の異常な世界観に基づくメッセージだが、これを見る多数の人々の中には、彼と同様の世界観の人物が稀に存在することは間違いない。しからばこの番組は、彼からそのような人々へのメッセージの伝達役を果たしている。それを受け止めるのが十万人に一人でも影響は甚大である。

 なるほど、そう考えるのは正しいことなのだ、と彼のメッセージを受け取っている人間が必ずいる。その中のひとりでも同様な行為に励起されて行動を起こしたときにこのような番組を報じた人たちはどう責任を感じるのだろうか。

 恐らく何も感じないだろう。何しろ彼らにとって悪いのは社会であり、少しも特殊ではない犯人植松聖はたんなるその体現者であり、考え方によっては社会の被害者なのだから。

 恐ろしい番組を観た気がする。拘置所はこういう取材をどうして許したのか理解できない。そう思う私はおかしいのだろうか。

 被害者自身は障碍者であるから、もともとメッセージを発することは出来ないし、これからも決して発することは出来ない。

2017年10月21日 (土)

手違い

 第二弾の本整理をするためにブックオフに引き取りを依頼してあった。ところが待てど暮らせどその本を詰めるために依頼した空箱が予定の日に届かない。なにかで遅れているのかと思ってさらに一日待ったが来ないので二日目の夕方、電話で問い合わせをした。配送するはずのユーメールに問い合わせて返事をくれるという。

 本日昼過ぎ、手違いで申し訳ありませんでしたと連絡があり、明日箱を届けます、とのことである。引き取りはいつにしましょうか、というので箱が何時に着くか分からないから着いた翌日にしてくれ、と答えた。

 後で考えたら、これでは台風と荷物の引き取りが遭遇してしまう。たしか引き取りは佐川急便だったと思うが、大変である。もっと先にすれば良かったかと反省したが、また電話するのも億劫なのでそのままにしている。

 ところで手違いはブックオフでの問題で起きたのか、ユーメールの問題なのか聞かなかった。電話の口ぶりではユーメールにミスがあった気配だが、こちらに先入観があってそう聞こえたかもしれないので分からない。

 どうせ雨だから箱を受け取ったり本を詰め込んだり引き渡したりするために在宅するのは問題ないが、その前に二日間も空箱がいつ来るかと気を遣って散歩に行くことさえ控えていたのである。

 多分海外ではこんなことは当たり前のことで、日本が特別きちんとしているということだろうが、こちらはきちんとして間違いがないという前提でいるから手違いに遭うと腹が立つ。人間の出来が小さいなあ、と自分で自分を笑っている。

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』2015オーストラリア・アメリカ

 監督ジョージ・ミラー、出演トム・ハーディ、シャーリズ・セロン、ニコラス・ホルト他。

 マッドマックスシリーズ三部作は衝撃だった。ディストピアの近未来を描いたSF小説や映画は数々あるが嫌いではない。カルト映画の多くはこのタイプだ。あの『ブレードランナー』にしてもその範疇であろう。原作を書いたフィリップ・K・ディックがそもそもそういう世界を描く作家だ。そういう世界というのは、未来が明るく豊かで平和でしあわせというわけではない世界だ。

 あのSF小説の名作、オルダス・ハックスリーの『素晴らしき新世界』にしても、ジョージ・オーウェルの『1984年』にしても、ともにディストピア世界が描かれている。現実の世界を見ていても未来がバラ色だなどと、少し前までの人ならいざ知らず、脳天気に信ずるものなど今はあまりいないだろう。

 明るい未来であるべきだ、という人たちが左翼的な思考の人たちで、悲観的な人こそが現実的な保守主義者なのかもしれない。先進国で少子高齢化が進むのは、未来に不安があるからであることはみな薄々気がついている。世界の未来は暗いと思っているのである。

 今回観たこの映画はシリーズの第四作目に当たるが、さすがにメル・ギブソンもこんなど派手なアクションシーンはもう出来ないようで、今回のマッド・マックスを演ずるのはトム・ハーディである。監督はいままでどおりジョージ・ミラー。

 いままでのシリーズのなかで一番好きなのは『マッドマックス2』である。たぶんこのシリーズのファンの多くがそうだろう。バイオレンスシーン満載の『マッドマックス2』は傑作である。その後半の暴走シーンのハイライトが、最初から最後までこれでもかとばかりに盛りだくさんなのが今回の『怒りのデス・ロード』である。

 世界観としては第三作の『サンダードーム』が採り入れられている。人はコロニー、つまり社会を形成しないと生きていけない。そこからはみ出しているのがマックスだが、そのマックスがコロニーの歪みを結果的に正すことになるのが皮肉なのであり、そもそも英雄譚というのはそういうものなのかもしれない。

 これは青い鳥、ここでは緑なす地、を求めて旅立つが実はそれは・・・。というお話でもある。

 典型的な暴力映画でありながら、どことなく哀愁があるのは、シャーリズ・セロン扮するフュリオサという女闘士の存在があるからか。しかし片腕という設定であり、片腕にしか見えない。映像を操作しているのだろうが見事としかいいようがない。特撮技術の進歩は目を見張るものがある。

 巨大な砂嵐のシーンなど、見所満載で、バイオレンス映画が余程嫌いでなければ楽しめる。これは良く出来たお伽噺なのだ。

2017年10月20日 (金)

馳星周『神(カムイ)の涙』(実業之日本社)

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 差別について考えたのはこの本を読んだからである。アイヌに対する差別は実際に目の当たりにしたことがなく、話に聞いているだけだから、よく分からない。しかし当事者にすればずいぶん深刻なようである。

 部落出身であるとか、アイヌであるとかという差別は、理不尽なもので、あってはならないことだと強く思う。しかし差別する人が現に存在することをどのように正していくか、他人を強制できない現代だからこそ難しい問題だと思う。理不尽な差別を撥ねのけることは必要だが、そういう差別を知らない人々に埋没して出自を消そうとする行為を否定も出来ない。

 営業所の長をしている時代に、同和に対して寄付を強要するやくざまがいの人物と一度ならず面談した。逆差別のそういうプロの人間は組織化されていて警察もあまり関与したがらず、余程性根を据えて相手をしないと対応できない。ちらりと詰めた指などを見せたりして、事務所の女の子などおびえてしまう。それを見ると却って意気地なしの私でも勇気が出るもので、事なきを得た。彼らは会社に対してではなく、個人に高額の金品を要求する。覚悟がいるのである。

(閑話休題)

 この小説ではアイヌであることの出自と自然との関わりが物語の背景になっているが、アイヌであることこそが自然を理解し、自然と融和し、自然に祝福されている、ということに心の底から共感した。それがどういうことかはこの本を読まないとわからないだろう。

 物語の舞台は屈斜路湖を見下ろす山小屋である。中学生の娘・悠(ゆう)はそこでアイヌである祖父・敬蔵と二人暮らしをしている。両親はアイヌに対する差別を嫌い、都会に出ていたが二年前に事故で死んでしまい、他に身寄りのない悠は祖父に引き取られたのである。高校になったら悠はここを離れようと考えている。  

 祖父・敬蔵は元猟師、いまは木彫りの職人である。その作品は高く評価されているが、気むずかしく、気にいった作品は手元においていて手放さない。

 そんな山小屋を若い男・雅比古が弟子にして欲しいと尋ねてくる。なぜ雅比古が弟子入りを志願してきたのか、それがこの物語の縦糸である。悠、敬蔵、雅比古のさまざまな思い、北海道の自然、それに関わる人々、それらが横糸となって物語が紡がれていく。

 雅比古の出現によって悠は祖父の敬蔵を見直し、自然に対して目を開かされていく。そして雅比古自身はそれ以上の成長を遂げていく。雅比古は東日本大震災の津波によって祖母と母を喪っていた。そしてさらに雅比古は大きな秘密を抱えていた。

 淡々と物語は進んでいくが、雅比古に関わる人物が現れたことで一気に事態は緊迫していく。奇禍に遭う悠を護るために雅比古が、そして敬蔵が死力を尽くす。

 屈斜路湖、それを見下ろす美幌峠、そして摩周湖、若い頃に北海道へたびたび出張して何度も行った場所であり、情景描写を読みながら脳裏にその風景を思い出していた。げんきなうちに一ヶ月ほど北海道を放浪したいと思っている。その思いを強くした。

なんとなく喉が・・・

 一昨日くらいからなんとなく喉がイガイガしている。熱っぽいというほどではないが、微妙に不調である。風邪をひく前の兆しの気配がする。天候が不順なうえにこのごろ夜更かしすることが続いて寝不足が体調に響いているようである。

 試しに特効薬の酒を少し余分に飲み、一昨晩、そして昨晩と早めに入浴して早めに寝ることにした。夜更かしのときよりも入眠までの時間も短くて良いのだが、二晩とも三時過ぎに目が醒めてしまった。目が醒めると再び寝ようとしても寝られず、本を読んだり数独パズルをしたりして寝床の中でごそごそしている。

 どうもこれがいけないらしい。喉の不調やかすかなだるさが解消しない。間もなく中国旅行に出かけるので、具合が悪くなるなら早めになってしまえば良いのに、などと思っている。今回の雲南省への旅行では石林や虎跳峡など、階段の上り下りがあったり長距離歩く場所がある。そのために意識して散歩していたのだが、この雨ばかりの天気ではなかなかそれも十分に出来ていない。

 出かけてから体調不良になるのが心配である。そんなことになったらテンションも下がり、同行の友人に迷惑をかけかねない。なによりせっかく待ち望んだ旅行を楽しめない。どうしてやろうかといま自分の身体と相談中である。

2017年10月19日 (木)

服を買う

 来月初めから雲南省へ旅行に行く。着ていく服がないわけではないが、この10年ほとんど同じ服で出かけているので、ずいぶん久しぶりに服を買おうかと思ってあちこち物色した。

 どこへ行っても売り場が広くてしかもいろいろな店が軒を並べている。ふだんときどきウインドーショッピングでもしていれば、あんな風なものが欲しい、などと見当もつくのだろうが、なにもイメージがないのである。本を買うときと違って、服のほうから「あなたに似合うはずだからこれを買って!」と呼びかけてくれないのである。だから途方に暮れてしまう。

 人がみたら何でこんなものを買ったの?と思われるようなものを買わないようにしよう、というのが私の選定基準である。実際に買ってしまえば人が何をいおうがまったく意に介しないのであるが、買う前は少しは気にする。気にするのは実は他人に対してではなく、自分に対してなのだろう。

 それでとにかく思いきって(迷うのにうんざりして)上着と薄いセーター、そして靴を購入した。十年ぶりくらいの散財で、カジュアルのものにこんなに金を支払ったことは記憶にない。でもこの服や靴も十年以上着るし履くのは間違いないから、無駄遣いというほどのことではない。

 しかし買って帰ってそれらを眺めながら、これでよかったのかなあ、と少し不安になっているのである。どうせ何を着ても似合わないのだから同じなのに。

 こういう買い物は苦手である。

個性と差別

 差別とはなんだろうか、むかしからずっと考えている。人は自分が他人より優越であると自覚することに快感を感じるものらしい。その優越である理由が本人の手柄ではなく、なおかつ劣等とみなされたものに正当な理由が存在しない場合、差別というようである。問題は「正当な理由」にあり、なにを正当とし、何を不当とするかであろう。アリとキリギリス(イソップの原話はアリとセミらしいが)の話で、アリが冬にうちひしがれているキリギリスを蔑むとき、それを差別と呼べるのか。

 個性とはなんだろう。生まれた国、民族、家族、そして能力は生まれたときから与えられたもので、成長する中で刷り込まれる文化や知識はその境遇の中で限定される。男であるか女であるか、頑健か病弱か、好奇心旺盛か無関心か、社交的か内向的か、努力する性格か怠け者か、さまざま多岐に、それこそすべてにわたって人は自分以外の人と異なる。数学が得意な人まったく受け付けない人、語学が苦手な人得意な人、能力もそれぞれみな違う。美醜もあり老若も違う。すべてを含めて個性というのであろうか。

 それならすべてにわたって人と人は違い、個別のことについて差が厳然とあるのである。その優劣はどんな物差しを持って来るかの違いだけである。では差別はいけない、みな平等である、ということはどういう括り方によって成り立つ言説なのだろう。個性の差と差別をどこで区切るのか。

 優越感と劣等感は人間の本質に根ざすもので、それがあるかぎりその区別は永遠にあいまいではないか。世の中は区別があいまいなことが普通であり、しかしながら明らかに不当な差別というものがあるのも事実である。不当なものがしばしば正当を侵食する。それが理性によって正されてきたのが人間の歴史だろう。

 ところが同時に区切りが正当に食い込みすぎるとマスコミの言葉狩りのような異常な事態になる。言葉狩りはときに差別の隠蔽に繋がる。死を恐れるあまり死から目を背けて死の隠蔽が行われたために死が軽んじられてしまうように、差別は却ってひそかに増幅されていないか。

 差があることすら認めないような世界は、あの毛沢東思想が吹き荒れた文化大革命時代を想起させる。その理路を詳しく語るにはまだ考えが浅いようであり、うまく説明できなくて申し訳ない。

2017年10月18日 (水)

どうしてこれほど変わるのか

 先日の高速道路での殺人事件以来、あおり運転や強引な割り込みなど、危険な運転がたびたびテレビで取りあげられている。それを見ていると危険運転が急に増えたのかと思ってしまう。

 これはもともと危険運転をする人が多かったのに話題にならなかっただけなのだということは承知しているが、問題は事件直後のニュースでは、あおられるなど危険な運転を体験したり見たりした人の割合が四割弱だったのに、昨日今日のニュースでは七割近くの人が体験したり目の当たりにしたと答えているということだ。

 どうしてこんなに違うのか。質問の仕方が違うのかもしれないが、それによる差とは思えないほどの違いである。同じようなことを聞かれて、以前は何とも思っていなかった人が、ニュースで繰り返し見聞きしてやはり問題だと気がついたということだろうか。しからばそのような人たちは自分自身がそのような行為をしていたか、する可能性のある人かもしれないなどと勘ぐってしまう。それは危険運転する可能性をもつ人がそれだけ多いという証でもあると思うとぞっとする。

 私はしばしば車で遠出するので年間2~3万キロ走る。前にも書いたとおり、自分の反応速度に自信がないから車間距離を十分にとるように運転する。だからあおられたり強引な割り込みをかけられたりすることはたびたびある。そういうときは危ない人で危険な人が側に来たと判断してその車からなるべく素早く離れることを第1に考える。やくざなどの暴力組織の人間だと想定して避けることにしているのである。

 逆に低速で追い越し車線をずっと走り続ける軽自動車など(しばしば枯れ葉マークや女性ドライバーのことが多い)を見ることもある。周りが見えていないし、多分バックミラーなどほとんど見ていないだろう。あおられても無視しているようにしか見えないのは、多分後ろを見ていないから平気なのだ。本人は速度を出さずに安全運転をしているつもりだろうが、回りのドライバーの感情を波立たせて全体を危険にさらしているとも言えるなあ、と眺めることもある。

 女性ドライバーというのは半分が平均よりも運転が上手である。そういう車は気持ちが良いほどスムーズに走る。そして残りの半分は周りが見えず、自分勝手で余裕がないようである。突然右折や左折してびっくりさせられる。それを事前に読み取って、不慮の事態に備えて回避するのも安全運転の基本だろう。気をつけていればすぐ分かるものである。

 景色を楽しみ、いろいろなことを考えながら、しかも周りの状況を観察して安全をはかるのであるから、運転は頭を使うものである。だからそれが年齢とともに出来なくなって危ういと感じだしたら車を処分して列車やバスの旅に替えようと心に決めている。いまのところだいじようぶだと思っているが・・・。

 危険運転をする人間は、あまりニュースを見ない気がする。そしてもし見たとしても自分のこととして考えたりしないのではないか。これだけ社会が警告を発しても、それほど危険運転が減るとは期待できないだろう。危険運転で事故を起こした人間の言い訳を聞けば分かるではないか。みな相手が悪いのである。

 とにかく触らぬ神にたたりなし、いっそう注意してドライブを楽しむことにしようと思っている。

再配分とは何か

 10/16の拙ブログ「単純に考えて」に対してコメントをいくつかいただいた。その中のけんこう館様からのコメントに対して返事を以下のように書いた。そのことでさらに自分の考えを書き足してみた。

「政府を悪者として印象操作することが正義だと思い込んでいるマスコミ人がいるような気がします。本当に困っている人をどう助けていくか、という視点からではなく、こういう貧しい人がいるから政府は悪者だ、というだけです。貧しい人を一人もなくすることなど不可能です。どうしたらそれを少しでも減らすか、そのためにみんなが何を我慢しなければいけないのか、それが忘れられています。
みんなが豊かで金持ちになることなど出来ないのです。
 貧しい人が救われて楽になるということは、我々が少し貧しくなるということにほかなりません。世界の富の偏在が少し均されたからアメリカの白人は貧しくなったと感じていますが、彼らを見て貧しく見えますか?貧しかった中国人が豊かになれば、日本人の豊かさは当然損なわれるのです。仕方がないでしょう。」

 私はどちらかと云えば保守思想の持ち主と言えるかもしれないが、安倍政権を全面的に支持しているわけではない。当たり前であるが是々非々である。しばしば一部マスコミや野党が社会の問題を政権の批判の材料にして安倍政権打倒を叫んでいるが、問題点に目をつぶって擁護しようなどとは思わない。

 しかしながらその批判が問題点の改善のためのものではなく、政権打倒のための批判に終始し、しからばどうすべきか、何が出来るのか、という対案なしにただ非難に終始していることに不快を感じている。

 貧富の差があることは悪ではない。豊かであることにはいろいろな理由があり、貧しいことにも理由がある。問題は理不尽で極端な差である。それが時間をかけてゆるやかに是正されれば理想である。そのためにどうすれば良いかを考えるのが政治だろう。一気に差をなくすようなそんなに上手い方法はまだ世界のどこでも見つけられていない。

 欧米や日本が豊かな暮らしを謳歌することが出来たのは、実は世界の貧しい人々がいたからであると私は考えている。その貧しかった東南アジアや中国の人々が豊かになってきたのである。欧米や日本が昔通りに豊かな暮らしが出来ないのは当たり前ではないか。それを以前よりも豊かでなくなったのはアベノミクスの失敗だ、と決めつけるのはいささか単純に過ぎないか。

 アベノミクスに問題もあるであろう。しかし経済は日本だけで廻っているのではない。他の国とくらべて日本だけが国民が貧しく飢えているのなら非難されて然るべきだが、私はどちらかと云えばそこそこ旨く廻っているように思う。

 みんながバブルの時代のように豊かさの実感を持てないから失敗だ、と言っているなら、それは妄言であろう。貧しかった人が豊かになれば、豊かな人が少し豊かでなくなるという程度で世の中は良いのである。

 中国は低賃金と人口ボーナスで一気に豊かになった。ただ、日本以上に貧富の差を残したままではあるが。賃金の上昇はGDPの上昇をはるかに超えている。しからば中国の競争力は一気に低下するだろう。しかも人口ボーナスもそろそろ底をつく。

 こうして選手交代で東南アジアやインドが豊かになっていくだろう。本物のグローバリズムというのはそういうことだろう。もはや世界はみな繋がっている。アメリカだけが豊かさを維持するようなグローバリズムなど偽物だ。そんなものはローカリズムである。

 アメリカ人が昔の豊かさを取り戻せるようにする、と約束して大統領になったのがトランプである。そんなこと出来るわけがないのである。もしどうしてもそうすればアメリカ以外の世界が再び貧しくなることになる、歴史のねじを逆に回そうというのか。世界が不安定化するだけである。現にそうなりつつある。

 それなら政治の優先順位はみんなを豊かにすることではないだろう。貧富の差の最底辺で自らの力ではどうにも生きていくのが困難な人を救うことであろう。それを再配分の最優先にすること、国民はそれを当然として了承することだろう。

 世の中は不公平に出来ている。人の能力や運には差があるから不公平をまったくなくすことは出来ないのである。困っている人を政争の具にするべきではないし、経済を正義を以て論ずるべきではない。これを選挙の候補者の選別のポイントにしようかと思う。

2017年10月17日 (火)

留守電

 携帯を持っているので、固定電話をかけることはほとんどない。ほとんどの知り合いには携帯の番号を伝えてあるから、それらの人から固定電話にかかることもない。

 リタイアしてから在宅することが多くなったので電話に出る。固定電話かかってくるのは、ほとんど勧誘や売り込みなどの電話であった。それらの電話はしつこい。うんざりするほどしつこくてこちらの電話を切らせない。強引に切るとまたかかってきたりして、しかも口調がだんだんおかしげになって気持ちが悪い。

 そこで電話には出ないことにして、在宅でも留守電のままにした。先方がどうしても必要な電話ならば必ず連絡を残してくれる。ほとんどが留守と分かるとそのまま切れるから多分必要な電話ではない。

 しばらく電話が鳴らないと思っていたら、このごろ急に頻繁に鳴るようになった。留守電のメッセージとともに切れてしまうのは相変わらずだ。稀にアンケートらしき自動電話があり、何番を押せ、だとか何とかいっている。それもこちらの必要のない事項についてのもので、怪しげであるから無視する。

 それらの電話は匿名でありながら一方的に押しかけるもので、名乗らず用件も明らかでないものはこちらに不要のものと断定することにしていて実際に何の不都合もない。

 一時期息子や娘の友人を騙って電話してくる者がときどきあった。友人であれば本人と連絡が取れないはずはないのであり、適当にあしらっていると怪しいことがおのずから分かって来る。あとで子供達に聞いても心当たりがないという。本当に油断がならない。

 私の固定電話しか知らない親類やいま疎遠の友人もないことはないので、すぐに固定電話をなくす予定はない。そして相変わらず留守電にしておくのも変わらない。繰り返すがそれでいまのところ何の不都合もない。

映画「ザ・シューター 極大射程」2007アメリカ

 監督アントワーン・フークア、出演マーク・ウォールバーグ、マイケル・ペーニャ、ダニー・クローバー他。

 マット・デイモンと同様サル顔のマーク・ウォールバーグは好きな俳優である。原作はスティーヴン・ハンターのスワガー・シリーズ三部作の一つ『極大射程』。スワガーシリーズはこの『極大射程ともう一作読んだはずだが題名を忘れた。スワガーシリーズは好評だったので、さらに新作がいくつも発表されているらしいが読んでいない。

 スナイパーの話といえば、単身でマフィアに戦いを挑むマック・ボランシリーズが有名で、私も10作目くらいまで読んだが、マンネリ化してきたのでそこでやめたがずっと続いているらしい。今回のラスベガス事件にこの辺の影響が全くないといえないが、アメリカ人の銃に対する感覚が多少分かる。

 狙撃手として戦地にいたスワガーは予期せぬ事態により戦地に置き去りにされる。行動を共にしていた親友をそのときに失うが、辛くも脱出する。除隊したスワガーは山中に一人で暮らす。そこへジョンソン大佐と名乗る将校が訪ねてきて、ある依頼をする。

 この辺の出だしはなんとなくシュワルツェネッガーの「コマンドー」を思い出させるが、ここでは闘いはない。依頼というのは、大統領の暗殺計画の情報があり、スワガーに、狙撃されるならどこなのか調査して欲しいというものだった。政府の依頼は断りたい気持だったが、国のためといわれると断れないスワガーであった。

 そして可能性のある場所を特定したスワガーは現場に立ち会うことになる。万全の警備体制の中、推定通りの場所から狙撃が行われるが、撃たれたのは大統領ではなくすぐ側にいたエチオピアの大司教だった。

 なぜ狙撃を阻止できなかったのかスワガーが不審を覚えたとき、一緒にいた警官が突然スワガーに銃弾を浴びせる。瀕死の重傷を負ったスワガーは必死で逃げる。彼は狙撃犯として追われる。罠にはめられたことに気付いたスワガーはとにかく生きのびるために死力を尽くす。その逃走のシーンはノンストップで迫力満点である。

 追われたスワガーの反撃が始まる。ここからは胸のすく展開が続く。復讐譚はおもしろい。ましてや世界に指折り数えられるような狙撃手が知能を駆使して反撃するのである。罠にはめた組織は大量の部隊を繰り出してスワガーを追う。

 組織の背後にいる黒幕を追い詰めていくのを見ているのは痛快である。しかし正義のためと盲信しておかしな人間が社会に復讐を始めたらどうなるのか。スワガーが常に理性的であることは幸いであるが、そうでない人間は山ほどいる。

2017年10月16日 (月)

柚月裕子『盤上の向日葵』(中央公論新社)

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 映画『砂の器』を観て感動した。原作の松本清張の小説は映画を観てから読んだ。

 ストーリーは違うけれど、似ていると思った。そしてその読後の感動も同様のものがあった。六百頁弱のこの本を、昔なら一晩で読むところだが、今回は一日半で読み切った。

 将棋に詳しい人なら多分私よりも何倍も楽しめるかもしれない。将棋の着手がたくさん出てくるが、頭の中に将棋盤を持たないし、自分で棋譜を置くほどの能力もない。著者はどれほど将棋の知識があるのだろうか。プロの棋士の協力の下に書かれたようだが、天才棋士の着手が創造されていることに驚きを感じるし、将棋を知らない私がこれほど興奮させられたのである。

 刑事二人が天童駅に降り立つところから物語が始まる。天童は将棋の駒の産地であり、まさにその天童でタイトル戦が行われているのだ。これは『砂の器』のラストシーンを思い出させるといえば、分かるひとには分かるであろう。私は大学が山形だし、父の出身も山形なので、天童には何度か行ってよく知っている。知っている場所が描かれるとちょっと嬉しい。

 埼玉県の山中で白骨化した死体が発見される。そこでは伝説の名人の作である将棋の駒が同時に発掘された。その身元の特定が進められると同時に捜査が開始される。しかし該当する失踪者は全く見つからない。手がかりはその名駒のみ。その名駒はこの世に七組しかないことが判明している。その名駒の所在の確認が進められ、それぞれに駒にまつわる逸話が語られていく。

 それと並行して、ある少年のドラマが語られていく。母親を喪い、父親と二人暮らしなのだが、ほとんど面倒を見てもらえないどころか虐待も受けているその少年は、見かねた老夫婦に影ながら支えられてけなげに生きていく。老夫婦の元教師の夫は趣味の将棋を少年に手ほどきしていくうちに、少年に天性の才能があることを知る。しかも少年はIQ140という並外れた知能の持ち主でもあった。

 少年を奨励会に入れてプロの棋士にするべく老夫婦は父親に働きかけるが拒絶される。将棋のプロになることを断念した少年は幾多の苦難を経て成長し、地元の諏訪を離れて苦学して東大に入る。

 そして彼はたまたま出会った真剣師(賭け将棋師)に魅入られていく。

 捜査の進展と少年の成長が二つの変奏曲のように互いに共鳴し合って物語が展開されていくのだが、それが『砂の器』の物語のようなのである。

 帯には「実業界の寵児で天才棋士、本当にお前が殺人犯なのか?」とあるが、真相は最後の最後に明かされる(ミステリーだから当たり前か)。そして少年が母の面影として幻視する向日葵の意味が父の虐待の理由と重なったとき、彼の心の中で何が起こったのか。

 将棋を知らなくても問題なく楽しめる、将棋をテーマにした小説である。対局シーンの緊迫感、緊張感は文句なしに素晴らしく、大いに楽しめた。主人公に感情移入して胸が熱くはなるが、ただし帯にあるような「慟哭のミステリー!」というのはややオーバーか。

単純に考えて

 安倍首相の演説で、自民党安倍政権の成果として完全雇用を謳っていた。正規社員の求人が求職者に対して1倍という今までにない状況となっていることを誇っているのだ。たしかに諸外国で、若者の失業率が社会不安に繋がるほど大きいことを考えれば、それは素直に誇っていいことである。

 しかし、いわゆる団塊の世代がいっせいに定年に達して年金暮らしに入りつつあるいま、企業は人手不足になっている。定年になる世代の人数と、新たに就職しようとする世代の人数は大きく違う。退職によって出来る穴のほうが大きいのであるから当然の現象である。これが果たして安倍政権の手柄と言えるかどうか。

 野党は一所帯あたりの消費額が低下していることをあげて、アベノミクスの失敗だといいたて、庶民には好景気という実感がないのは、貧富の差を増大させて大企業のみが儲かる政治をしているからだと主張している。

 これも単純に考えてみれば、ある程度の高給を取っていた団塊の世代の人たちが定年になって退職すれば、年金暮らしとなって収入は激減するのであるから、一所帯あたりの年収が低下するのは当然である。先に挙げたように退職する人のほうがこれから就職する人よりずっと多いのだから平均すれば当然の結果である。

 しからば野党の言い分もいささかおかしい。

 このように自分を誇ったり相手を非難する理由が、社会的な必然(団塊の世代の退職)で生じていることならばどちらの言い分もあまり意味をもたない。

 いま政治に求められるのは再配分の適正化であろう。年金生活者が増えすぎれば実際に就業している人からの社会保障費の徴収割合が増えすぎてしまうことは当たり前のことだろう。しからば、年金者に対する支払い額を少しずつ調整するのは仕方がないことである。年金は自分が支払ったものを返してもらうという制度ではないことは繰り返し伝えられているが、それが理解できないか、聞く耳を持たない人が多いようだ。

 制度を維持できなければ破綻してしまうのだから、調整するのは必然である。過去、年金局が恐ろしいほど年金を浪費した。そのときには支払われる年金よりも徴収する年金費のほうが多かったし金利も高かったから打ち出の小槌のように金が湧いてくると錯覚した馬鹿者たちがその金を無駄遣いした。

 団塊の世代は着実に年をとり、少子高齢化が進んでいるのは誰にでも明らかなことで、予想がつくかつかないかという問題ではない。それなのにそのための対策を怠ったばかりでなく、浪費したのである。責任者の責任は極めて重い。それなのにその責任をとらされて牢屋に入ったという人間を知らない。あまつさえあの年金不明事件である。

 しかし過去を言い立ててもその金が戻ってくるわけではないのだから、分配を見直すしかないではないか。年金生活者に我慢を強いることになっても仕方がないと、自分が年金生活者として覚悟している。心ある人はそれなりに手立てを講じて生きているものだ。年金暮らしになったら生活レベルを引き下げて、無駄遣いを減らし食いつなぐしかないのである。それでも生きていくことすら出来ないような状況の人々に対してセーフティネットを整備するという手立てしかないではないか。

 マスコミがマイクを向ければ「生活が苦しい、やっていけない」と泣き言を言う人ばかりがテレビで報道される。「生活が楽で愉しく暮らしています」という人を見たことがない。私の廻りには友人知人近所の年金暮らしの人たちがいるが、つましいながらニコニコと暮らしている人のほうがずっと多いのに不思議なことだ。

 人はマイクを向けられると泣き言を言うのが日本の場合はひとつの礼儀だと思っているところがある。謙遜である。世の中には楽に暮らしている人など昔からそれほど多くはなかったので、これからはますますそうなるだろう。その人達を楽にしてあげます、などという政治家の言葉を聞きながら「嘘つき!」と思う。

 グローバリズムが豊かさを失わせた、という話は別の話なので、いまは控える。

2017年10月15日 (日)

好みではない

 映画「GOEMON」2009年を観た。これも処分しようとした録画ディスクの中から拾い出したものだ。

 監督・紀里谷和明、出演・江口洋介、大沢たかお、広末涼子、ゴリ、奥田瑛二、要潤、他豪華出演陣(有名どころだけをあげていってもきりがないほどである)。監督の紀里谷和明自身も明智光秀役で出演している。

 安土桃山時代が時代背景に設定されているが、そこに紀伊国屋文左衛門(江戸時代のひとである)が突然登場したりする。衣装もセットも豪華絢爛、しかも時代考証など一切無視しているからハチャメチャである。そもそも現実世界ではなく、異世界の話になっていると想定すればこれはこれで楽しめないことはないであろう。

 こういう映画は本当は嫌いではない。そしてこういう映画に夢中になる人も少なからずいるだろう。

 しかし観終わった印象からいえばがっかりである。私の好みではない。荒唐無稽の中に何か筋が見えればいいのだが、何も感じないのである。ただ豪華キャストを使い(例えば貧民の少年の病母役で出演する鶴田真由は誰だか分からない汚れた姿で登場し、その直後に斬り殺されてしまう。出た瞬間に目がきらりと光って、あっ鶴田真由だと思う間もなくである)、金を使いまくって特撮を駆使し、歴史を無視し(しかもときどき帳尻あわせをするからせわしない)、人はバッタバッタと死に、血しぶきは飛び散り・・・。

 このあとこの紀里谷和明という監督の作品はほとんど作られていないようである。この映画もそれほど流行らなかったのだろう。なんとなく見覚えのある名前だと思ったら、宇多田ヒカルの元夫なのであった。

 霧隠才蔵役の大沢たかおは好い。江口洋介は飄々とした役をするのに向いていない。

 この物語に司馬遼太郎の『梟の城』がネタになっていると感じたが、どうか。

原因と責任

 福島第2原発の事故について福島地裁が東京電力、日本政府双方に対し、事故対策を十分に行わなかったとして賠償を命じた。

 従来、ともすれば地震、そして津波を予測できたかどうかで責任を論ずる風潮をおかしなことだと思っていた。地震や津波がいつどこでどれだけの規模で起こるのか、分かったか分からなかったという話になったら、そんなもの分かるはずがないということになるのは明らかで、無意味な愚かな判断理由である。

 今回の判決が画期的なのは予測の可能性ではなく、予測は科学的にされていたから、それに対して万全な対策をするべきであった、そしてそのことを怠った責任が東京電力、政府双方にあると断じたことである。歴史的にも巨大な地震と津波が起こったことが記録にあり、それを想定しないのは明らかに間違っていたとしたのである。

 残された裁判などでも同様の判断が下されることを願う。古来日本では責任の判断が甘いことでさらなる災厄を生んできた。日中戦争などの軍部の暴走もその結果といっていいと思う。出来れば特定の個人にもその責任を負わせるべきであると考える。

 それにしても、原告側が、これで原発をすべて停止させることに繋がる、と快哉を叫んでいるのを聞いて少し違和感を感じた。

 いままでは原発事故の原因は地震と津波である、と言う視点から、それを予測できたかどうかで争われてきた。それが今回の判決は、そもそも地震と津波を想定して対策を講じるべきであった、というもので、事故の原因は地震と津波というよりも、対策を怠った者にある、としたのである。

 理屈でいえば、対策をきちんとすれば今回の原発事故は回避された可能性が大きい、と結論づけたのだ。しからば原発そのものの存在が否定されるような判決ではないのである。現下の情勢で原発を肯定するのは難しいが、原発事故を起こし、原発反対をここまで盛り上げさせたのは東京電力と政府であるということなのだ。その点で私は全面的にこの判決に賛同する。

 この事故を以て原発反対をするのは筋違いで、反対をするなら廃棄物処理の困難さ、人間の不完全さによる完璧な原発管理の困難さこそが原発反対の理由でなければならない。

 今回の判決では政府の責任を認めたのである。そのときの政府は誰だったのか。そもそも原発に反対だった民主党が政権を担っていた。しからば政権を取ったら従来以上に原発の安全管理について徹底的な見直しをしたのか。そこの部分に何ら自己反省なく、政権を追われたとたんに正義の御旗の如く原発反対を叫ぶ彼らに責任はないのか。  

 突っ込みどころだらけの意見(自分で自分にいくらでも反論できる)なので、御批判は甘んじて受ける。

2017年10月14日 (土)

映画「センター・オブ・ジ・アース」2008年アメリカ

 監督エリック・ブレヴィブ、出演ブレンダン・ブレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム他。

 子どものときからのSF少年で、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』や『地底探検』、コナン・ドイルの『失われた世界』などを始め、ハインラインやクラークの少年向けの小説を読みまくった。SFの話を始めると長くなるのでここまでとする。

 この『センター・オブ・ジ・アース』という映画は、『地底探検』で描かれた世界を映像化しようとしたものである。ベルヌの『地底探検』の物語は真実であると信じる探検家マックスが消息を絶って10年、その弟トレバー(ブレンダン・ブレイザー)とマックスの息子(ジョシュ・ハッチャーソン)が、マックスの残した資料から地底への入り口がアイスランドの火山であることを突き止める。

 マックスと共同研究をしていた博士がアイスランドにいたのだが既に死去しており、その娘(アニタ・ブリエム)を案内人にして、火山へ向かう。

 こうして地底に誘われた彼らが地底世界で体験する物語がこの映画なのだが・・・荒唐無稽ここに極まれりの映像が次から次に繰り広げられる。あまりのばかばかしさに、却って腹立ちが突き抜けてしまい、ばからしさを楽しむことになった。でたらめもここまで徹底すると素晴らしい。そういう場合にはブレンダン・ブレイザーという俳優は適役である。

 ブレンダン・ブレイザーもジョシュ・ハッチャーソンも嫌いなタイプの俳優である。ジョシュ・ハッチャーソンをどこかで見たことがあるなあ、と考えていたら、「ハンガー・ゲーム」にでていたことを思い出した。この映画のときにはまだ少年だったのだ。アメリカ映画で描かれる少年少女は怒りを覚えるほど自分勝手で非知性的であり、たいてい廻りに迷惑をかけ倒す。多分実際にそうなのだろう。この映画のジョシュ・ハッチャーソンはそれほどひどくない。ひどくないけれど、見るからに生意気な顔をしているからそれで十分なのである。

 この映画には続編「センター・オブ・ジ・アース2」があり、そちらはだいぶ前に見ている。そのときにも同様の感想を持った。だから前作が見てみたかったのだが、捨てようと思ったディスクの中に録画があったのである。

 これで心置きなく廃棄することが出来る。

中山七里『ネメシスの使者』(文藝春秋)

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 熊谷市の郊外で女性の刺殺死体が発見される。炎暑の中、発見までに時間が経過していたので腐敗が始まっており、凄まじい腐臭の中での現場検証が始まる。 発見が遅れたのはその女性が近所とほとんど交渉のない独り暮らしだったからだ。

 室内は物色された気配がなく、怨恨によるものである可能性が高い。しかもそこには血文字で「ネメシス」と記されていた。ネメシスとはギリシャ神話の女神で、「義憤」あるいは「復讐」の神といわれる。

 やがて彼女は通り魔殺人事件の加害者の母親だったことが判明する。だから近所との交際がなかったのである。通り魔に襲われて殺されたのは若い女性と少女、出刃包丁でのメッタ刺しであった。そして今回の死者もそれを模したような殺され方だった。この通り魔事件の犯人は死刑が当然と思われていたのに無期懲役の判決がくだされ、服役中である。当然警察はまず被害者の遺族を訪ねる。

 やがて「ネメシス」の血文字が残された第2の殺人事件が発生する。殺されたのは殺人事件の加害者の父親であった。しかもその事件も犯人は死刑が当然と見られながら死刑を免れて服役中である。殺害方法もその息子の犯行を模している。これによって被害者の遺族ではなく、死刑を免れた犯人を司法の代わりに制裁するために正義の味方を自認する第三者が「ネメシス」である可能性が高いとみなされることになる。

 死刑判決が当然なのに、死刑を回避した判決を下した裁判長が同一人物であることが分かる。彼の身辺が警護されるとともに、同様の判決の事例の見直しが始まる。やがてその中のある事件の加害者の家族から不審人物につけ狙われているようだ、と言う知らせが入る。

 事件当初から犯人の意図を見抜いた埼玉県警の渡瀬警部は、判断に迷う警察組織上層部を尻目に、手順を踏みながら打つべき手を的確に打ち続け、ついに犯人を確保する。

 信じられない意外な真犯人に誰もが絶句するが、自供と証拠は完璧であり、犯行は疑いようがない。それなのに渡瀬警部はかすかな違和感をぬぐえない。

 やがてその違和感の正体が分かったとき・・・。

 「どんでん返しの帝王」と言われる著者の面目躍如の結末である。小説の中で「死刑」についての論争が詳細に何度も繰り返される。本当に著者が語りたいのはそのことだったのかもしれない。死刑廃止論者と存置論者の意見を知ることが出来る。あなたはどうか。

2017年10月13日 (金)

佐々木譲『真夏の雷管』(角川春樹事務所)

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 『笑う警官』に始まる道警シリーズの最新刊。シリーズであるからお馴染みのメンバーが登場するが、過去の話はあまり書き込まれていないから、この小説単独で楽しむことが出来る。彼らの人間関係に興味があればシリーズを最初から読むといい。外れなしの緊張感のある警察小説を楽しめることを請け合う。

 札幌市内の雑貨店での少年による万引き、郊外の園芸店での窃盗、それら些細と思われた個別の事件が互いに絡んでいることが判明していく中で、一刻を争う緊急事態が見えてくる。

 想像力が推論に繋がり、確信に変わる人間と、証拠がないから動かない人間とのせめぎ合いが緊迫感を盛り上げていく。もちろん主人公達は優れた能力の人々だから的確に動くのだが、彼らはある理由で閑職に追いやられていてなかなか組織を動かすことが出来ない。

 それでも彼らをバックアップする上司もいて、ようやく犯人もその目的も明らかになるのだが・・・。

 札幌駅での攻防が手に汗を握らせてくれる。犯人の犯行を阻止できるのか否か。阻止できなければ大惨事となるかもしれないのだ。犯人の鬱屈、その鬱屈を晴らすための理不尽な犯行計画。このような人間はめったにいないけれど、実は紙一重の人間で世の中はあふれている。

少しは良くなるだろうか

 自分では他人に不快を与えたり、怒りを感じさせるような運転はしていないつもりである。ただ、車間距離を十分とることにしている。自分の反応速度は自分が思っているほど敏速ではないことを知っているからだ。その余裕を持った車間が腹立たしいのだろうか、後ろから煽られたり危険な幅寄せをされたり、車の直前に衝突すれすれのように割り込まれることがたまある。そういうときはこわい思いもするし腹も立つが、バカモノを相手にしても仕方がないと思って、譲ってその車と距離をとることにしている。

 高速道路で、追い越し車線でなく、走行車線で制限速度で走っているだけなのに後ろにぴたりとつけてくる車がしばしばある。追い越し車線は空いているのに、である。しばらく煽っておいて一気に抜いていく。それだけならいいが、抜いてすぐに直前に割り込み、こちらにブレーキを踏ませる。顔は見えないけれど笑っている気配を感じる。

 昨日、ニュースやニュースバラエティを観ていると、運転中にこわい思いをしたことがあるドライバーの話やその映像が次から次に紹介されていた。インタビューした人のうちどれほどの割合の人がそのような経験をしているのだろうか。報じられたものはそのような人だけを選んだものではなく、まともなドライバーのほとんどがそのような経験をしているように思うがどうだろうか。

 専門家によれば事故が起きないかぎり、ドライブレコーダーによる証拠の映像があってもそのような危険運転を処罰することは出来ないらしい。法律はそのようなバカモノを想定していないのだそうだ。

 今回の事件(事故ではなく、明らかに殺人事件である)で、このような危険行為をする運転手に対するペナルティをもうける気運が盛り上がらないだろうかと思うが、その線引きは難しいから法律を作ることは無理だろう。それではドライブレコーダーはいままでどおり、事故が起きてからの事実の確認のためだけにしか役立たず、事故を減らすことに繋がらないということか。

 人の車の尻にぴたりとつけてきて煽ったり、幅寄せをしたり、直前に割り込んだりする人間は、多分運転が普通の人より上手いのだろう。少なくとも本人はそう思っている。そしてそれを誇示しようとしているようだ。

 人は他人を支配することに快感を感じるし、支配されることに不快を感じる。道路上で、俺のほうがお前よりも上である、と言うアピールをしたがるのは、一時的にせよ相手を支配した気分を味わうということで、その快感が病みつきになっている輩の行動であろうと推察する。

 そんなことでしか自己アピールが出来ない人間というのは、実は現実の世界では他人に認められることが少ない人間で、内心に劣等感があふれているのだろう。自分の不遇は自分自信が原因であることに薄々気がついているから、自分は劣っていない、と言うことを確認したくてそのような危険な行動に出るのではないか。

 そして自分は勇気がある、あいつより俺のほうが勝れている、と思いたいその思いが、自分の危険な行為によって相手が引き下がることで一時的に叶うのだろう。脅しで相手を屈服させることが出来たことに快感を感じて笑うのである。

 今回の事件は、相手を拝跪させたい欲望のエスカレートした末のものだろう。相手を謝らせ、自分の優位を知らしめることに夢中になって惨事を引き起こしてしまったが、本人にはその自覚すらなかったことは、犯人に対するインタビューで明らかにされている。恐怖と暴力で、謝る理由のない人を謝らせようとする行為に、なんとなくどこかの国やそれを支持する人たちに似たようなものを感じてしまうのは考えすぎか。

2017年10月12日 (木)

欲が出る

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 コーヒーか紅茶だったらどっちを飲む?と訊かれれば、紅茶と答えてきた。コーヒーが嫌いなわけではなく、お茶が全般に好きだからだ。

 美味しいコーヒーを飲むと当たり前のことだが美味しいと思う。インスタントよりもコーヒー豆から自分で煎れれば美味しいことはコーヒー好きの人の家や喫茶店のコーヒーを飲んで分かっている。

 少し前からコーヒーを積極的に飲むようになった。インスタントコーヒーである。インスタントでも値段がいろいろあって、やはり値段のいいものは多少美味しい。そんな話をしたら、娘のどん姫がひとり用の電熱のサイホン式コーヒーメーカを持って来てくれた。せっかくだから隣のスーパーの一角にあるお茶屋でコーヒー豆を売っているので、挽いてもらってそれを淹れて飲むようになった。たしかにインスタントとは明らかに違う。

 しかし一日何杯も飲むわけではないから飲み始めと最後では味が変わってくる。密封して缶に入れているけれど、湿気を少しずつ吸って劣化するのだろうか。それを聞いた息子が減圧密閉式の専用の缶を買ってくれた。だいぶいい。

 そこで、ふとむかし友人からコーヒーのセットをもらったことを思い出した。コーヒー豆を挽くための手回しのミルと、アルコールランプを使うサイホンのセットである。アルコールランプは火を使うしアルコールを準備しなければならないから面倒だ。しかしミルは使えるではないか。良く捨てずに残していたものだ。

 今度は豆のまま買うことにした。自分で豆をガリガリと挽いて、挽き立てを淹れて飲む。こころなしか旨い気がする。豆のままだと劣化が遅いのだろう。ずっと美味しい。

 ところがそのミルの作りが少し粗雑で、豆の挽き加減があまり旨くコントロールできない。その上砕けた豆のかけらが少し飛び出すし、どこかから挽かれた粉がもれるから廻りに粉が残って、いちいち掃除しなければならないから不満である。

 いまは電動式で挽き加減を調整できるミルを買おうかどうしようか思案している。ビックカメラなどを見に行くとそういう器具がびっくり(それでビックか)するくらいいろいろと並んでいる。眺めていると欲しくなる。

 多分間もなくその電動ミルを買うことだろう。そのつぎは何だろう。豆にこだわり出すのか。

ときには必要

 個人的なことで安眠が損なわれ、医師に睡眠薬を処方してもらう事態になった。それには理由があり、このブログにもたびたび泣き言などを書いたが、それをあらためてここで書くつもりはない。裁判ざた(と言っても調停や審判の段階までのことだった)になったその案件は既に一応の結論は出たので、睡眠薬は不要になったと判断し、夏以来処方から取り除いてもらっている。

 ところがなかなか睡眠が安定しない。早めに寝付こうと思うほど眠れない。夜更かしが当たり前になってしまった。それなのに朝はずいぶん早くから目が醒めてしまう。だから気がつくと昼間横になってうたた寝することがしばしばとなる。そうなるとまた夜寝付きにくくなる、と言う悪循環である。

 規則正しく寝なければならない、という強迫観念が睡眠を却って妨げる。横になって目を瞑れば、瞬時に寝ることのできた昔が懐かしい。もちろん深酒をすれば寝付きやすくなる。しかしそれは質の良い睡眠ではないといわれる。

 どうも精神の空回りがおさまっていないらしい。仕事をしていたときは、そのことを考えると脂汗をながすような焦燥に駆られる事案を抱えることもあったけれど、安眠できた。眠れないなどというのは年に数日のことだった。あまり精神の空回りなど感じないし、何事にも集中できた。

 睡眠の質が悪い日々が続くとテンションは下がるばかりである。旅に出て発散すれば改善することもあるけれど、集中力を欠いているときには数年前のように不慮の事故を起こしかねない。自分をもう少し立て直したいと思って部屋のレイアウトを変えてみたり、散歩をしてみたり、いろいろと汗を流してみたけれど、思ったほどの効果はまだない。

 そこで残っていた睡眠薬を飲んで寝てみた。

 寝付きには少し時間はかかったけれど、朝までぐっすり眠ることが出来た。まだ二晩だけれど、多少頭のもやが薄れた気もしている。

 睡眠薬もときには必要なこともあるのだとあらためて思った。

2017年10月11日 (水)

葉室麟『孤篷のひと』(角川書店)

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 茶人・小堀遠州の晩年の静謐な生活を描きながら、彼が戦国末期からいままでに出会った幾多の人々が回想されていく。それは彼の目指す茶のこころへの道のりであり変遷である。

 千利休の弟子たちのひとり、古田織部の弟子である小堀遠州は千利休の孫弟子ということになる。戦乱の世の茶と泰平の世の茶の違いとは何か。それは千利休や古田織部にもかすかに見えていたものであり、気がつくと小堀遠州が選んだのはその境地に到る道だった。

 伊達政宗や、藤堂高虎(遠州の岳父である)などの武人の茶に実は深い思いが込められていたこと、それを茶を通して受け取っていくことが遠州の役割だったのか。

 数々の歴史的転換点での茶席のエピソードの数々の積み重ねが、その時代そのものを語るという仕掛けになっている。これは時代小説ではなく、茶を手がかりにした歴史小説なのである。

 遠州は作庭家としても知られる。それを通して皇室とも関わった。そこには秘話も語られている。それが事実かどうかは知らないが、時代に翻弄される人間達の哀しみを心底知るものこそが茶のこころを知るものだと遠州は悟る。それは著者のこころということだろうか。

 葉室麟には茶人、華道、絵師、彫刻師などの人々を取りあげた小説がいくつかある。普通の時代小説のようにすらすらと読むというわけにはいかないので、読了に時間がかかることが多い。この本も数日かかった。そんな本があと何冊か残されている。読んでみれば読後感はとてもいいのだが、ちょっと後回しにしたくなるときもある。

悪かったと思っている、と言った

 追いかけ回し走行を邪魔して、ワゴン車に乗った家族の車を追い越し車線に無理矢理停めさせたところ、トレーラーに追突されて家族の中の両親を死亡させ、姉妹に怪我を負わせるきっかけを作った男が、なぜそんなことをした、と問われて「腹が立ったから」と言い、「なにか言いたいことがあるなら聞こうと思って停めさせた」と言ってのけ、両親が死んだのは「悪かったと思っている」と答えたそうだ。

 些細なことで腹を立てたらしい。そもそもが人に迷惑になるようなことをしていたことを注意されたか、追い抜かれたかしただけのことがきっかけであろう。そのようなおかしな人間はそこら中にいるから、不快だったりこわい思いをしたことのある人は山ほどいることだと思う。私もそういう思いを何度もしたけれど、引きずると不愉快なのですぐ忘れることにしている。

 他人など眼に入らず、迷惑であることに気がつかない人間は、そのことを指摘されたり注意されるとすぐキレる。自分がバカにされた、つまり否定されたと感じるようである。そもそも怒りの閾値が格段に低いのだろう。

 できればそういう人とは関わりを持ちたくないと誰しも思うからみな触らぬ神にたたりなしで避けて通るのだが、そのことがかえってそういう連中の快感や全能感を生んでいるのかもしれない。

 ものごとは結果で判断される。人が何人も死傷したのである。その責任は厳しく追及すべきである。逮捕されたというニュースに当然だと感じた人は多いだろう。このような怒りにまかせて大きな災厄につながるような行為を厳しく罰することは、社会に警鐘をならし、怒りを正当化する者たちに歯止めとして働くという社会的効果もあるはずである。

 一度暴力が幅を利かせる社会になり出すと歯止めが利きにくくなる。世界を見ればそれがよく分かるではないか。常に暴力の芽は発芽しようとする。そのことに対して制裁が多少過剰であっても、その芽を摘むことになるということに同意する人は多いのではないか。

 リベラリストはそれに反対するだろう。リベラリストがしばしば過剰な制裁を嫌うのは、彼らがふんだんに戦いの言葉を使用するのと同様不思議なことである。暴力を毛嫌いするはずのリベラリストが犯罪者の権利を声高に主張することに首をかしげている人は多いだろう。リベラリストが国家権力を増大させないことと暴力阻止のための制裁強化の弾力的運用の否定を同列に論じようとすることだろうことは想像に難くない。

 しかし私は今回逮捕された男に対して、国民の多くが覚えた怒りをマスコミはもっと盛り上げていいのではないかと思っている。

2017年10月10日 (火)

隠すより顕れる

 野党の一部は安倍政権は隠蔽体質であると非難する。モリカケ問題について説明責任を果たさず、それをリセットするために今回の解散をしたとして非難した。

 国民はなるほどそういえばそうだ、と思って自民党以外の党に票を投じるのか、それとも他のどの党に政権を渡しても、いまの野党はあの民主党よりマシとは言えない、あのときの二の舞になりかねないからやはり自民党に票を投じるしかないと思うのか、どう判断するかが今回の選挙の結果を左右するだろう。

 私から見れば、開かれた都政を謳いながら、ちっとも開かれていない小池都政を見、そして希望の党の動向を見ていれば、ちっとも小池さんは開かれていないとしか思えない。自分に都合の悪いことを隠すについては安倍政権と変わらないか、もっとひどいのではないかと思ったりする。

 しからば立憲民主党はどうか。枝野氏については、あの東日本大震災のときの菅直人内閣の官房長官として、福島第2原発事故の報告に汗を流していた姿を覚えている人が多いだろう。あのとき、菅直人は国民に知らしむべき情報を隠蔽したために、国民、特に避難民は右往左往した。だから枝野氏が発表することは次々に変更されて、いったい何が起こっているのかわけが分からない状態が続いた。

 炉心溶融が起きているのではないか、という問いにそんなことはないと言い続けていたことを私は記憶している。実は東京電力も感直人氏も当初から承知していたことはあとで判明した。

 枝野氏はそれを知らされていなかったから、説明が変わるたびに汗を流して苦労していたかに見えたが、実はすべて知っていたのであろうといまは思う。そうでなければただのバカである。しからば隠蔽体質で人のことを舌鋒鋭くののしるのはまともな人間なら恥ずかしくて出来ないはずである。

 それが平気で出来る人なのだ、と私は見ているから彼を信用しない。隠しても必ず露見するものである。それを世間では隠すより顕れる、という。いまは暴き立てるのを正義の行為として褒めそやすから、味噌も糞も同格に叩かれる。そして人はそのことをすぐ忘れる。

 今回の選挙では選択肢が自ずと限られていて、消去法で選ぶしかないことになる。とはいえ選挙では人を選ぶのであるから、いくら消去法と言っても、箸にも棒にもかからないものを選ぶわけにはいかない。ところが自分の選挙区にしばしばそういう候補者しかいなかったりするから情けなくなる。

 もう少しマシな中選挙区に戻したほうがよくないか、などとつい思う。そのほうが選択肢が増える。ただ、大選挙区などにすると、知名度が高いだけのおかしな人間が当選する確率が高くなるから、これは願い下げである。無能力のタレント候補などはもういい加減にして欲しい。

 さあ、我選挙区には誰が立候補したのだろうか。そして何を謳っているのだろうか。

井波律子『中国文学の愉しき世界』(岩波現代文庫)

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 吉川幸次郎や桑原武夫に師事し薫陶を受けた井波律子女史は、私の敬愛する中国文学の研究者で、気がついたら書棚に彼女の本が20冊を超えて列んでいた。

 最初に世に出たのは竹林の七賢について書かれた『世説新語』などを論じた『中国的レトリックの伝統』(講談社学術文庫)という本で、まことに魅力的な本だった。彼女の原点だろう。

 この本では、そこから展開していった女史の興味の赴くところが、宝箱から次々に宝物を取り出すように語られている。ここには張岱(ちょうたい)についてもたびたび取りあげられている。私のブログでもこの張岱の『陶庵夢憶』(岩波文庫)のことをたびたび取りあげている。私が無人島に五冊だけ本を持参するとしたら、必ずその中に入る一冊なのである。

 実はこの本を読み始めて、あまりに私の中国についての興味の赴くところと重なることに驚いて、はっと気がついた。この本をむかし読んだことがあるのだ。本棚を探したらハードカバーの同名の本が立っていた。それに新たに書き下ろしたものを加えて文庫にしたのが今回購入して読み始めたこの本だったのだ。

 この本に導かれて次々に中国の志怪小説などを読むようになったのである。私の原点のひとつであるこの本を十数年ぶりに読んだ。なんだか堂々巡りしているような気もするが、廻りながら出だしよりは少し高みにいるように思っている。

 中国文学の入門書としては最高の本であり、今回文庫になって入手しやすくなったのであるから、興味のある人はぜひ手にとって欲しいものである。ただし、現代中国の文学は語られていない。

2017年10月 9日 (月)

無責任

 人は自分に見えているものこそが真実であると思い込みやすい。でも、ものごとは立場によって見え方が違うもので、正しい見方というのが神の見方だとしたら、本当のことは、なかなか人には分からないものなのかもしれない。

 それでも自分の見え方と違う見方をする人の話もいろいろ聞くと、自分に見えているものだけが正しいなどとは思わないで済む。

 テレビでは自己主張する人々が喚いている。私は正しい、だからあなたは間違っている、と声高に言う人たちの喚き声を聞いていると頭がおかしくなりそうだ。

 ニュースを知りたい。NHKだけでなく、違う立場の人の取りあげるニュースも知りたい。ところがこのごろはニュースに意見が張り付いて、ニュースそのものよりも意見のほうが盛りだくさんだ。ニュースを見聞きしてそのことを考えようと思っているのに、ニュースについて何やら語る人々のものの考え方について、つい考えてしまう。

 自分で考えるのが面倒くさくなって、人の意見を聞いて自分の考えとしようとする人が多いから、かわりに考えて意見を言ってくれるプロがはびこっているのだろうか。それにアマチュアがわれもわれもと加わっている。

 目立つために人と少しでも違う意見を言おうとして、裏付けのない、想像を加えた話を語る人がいる。それがきちんとここから先は私の想像ですが、と注釈なしに語られることもしばしばであるし、注釈があっても、次に伝えられたときには事実と同じ扱いに紛れ込んでしまうこともしばしばだ。

 私もブログではそのけじめを気をつけているつもりでも、読む人がきちんとそれを区別しているかどうかは心許ない。

 こうしてあることないことが増幅されて、情報として巷に溢れかえっている。もともとの発端が何だったのかわけが分からなくなったりする。いまは発言に責任が伴わない、言った者勝ちの世界だ。人が無責任に発言できるのは、発言が世の中に溢れかえっていて、その中に責任が埋没してしまうからだ。

 テレビという、言説が消費されるばかりで責任を伴わない媒体にみなが馴れてしまったところに、インターネットが普及して、誰でも言いたいことが言える時代になった。間違いや嘘や誇張が事実の中に紛れ込んでも区別のつけようがない。それを良いことに印象操作をしようとする一部マスコミもある。

 衆議院選挙を前にして、世の中がどうなっているのか、情報が溢れかえっているのにさっぱり分からない。私だけが分かっている、と胸を張る人たちが、それぞれ全く違うことを言う滑稽さに呆れている。 

 ここまで言葉が無責任に発せられていては、民主政治はますます衆愚政治の様相を呈してしまうのではないか。ではどうしたらいいのだろう。分からない。みんなうんざりしないのだろうか。

2017年10月 8日 (日)

つながらない

 軽い腰痛が続いていて、立ち上がるときなど少々年寄り臭い仕草になる。しかし、一時期不調だった眼は、いまは特に不快感がないのでありがたい。頭の働きについてもあまり不安を感じるようなひどい物忘れはないようだ。

 だから調子としては悪い方ではないのだが、なんとなくテンションが低い。いつもならニュースを読んだり見たりすると、そこから思いもよらない連想が沸いてきて、それをメモするのだが、この一週間はなにもメモがない。映画を何作か見たのにそれをブログに書く気にならない。そんなふうだから、メモのないニュースネタのブログも書きようがない。

 かろうじて本は少しずつながら読めているので、ブログのネタはそれしか書くことがない。インプットをしていないことはないのである。普通ならインプットをすれば連想が伴って膨らんでくる。それが頭の中にあふれてくると自動的に文章になるはずなのである。

 どうもそれぞれがばらばらでつながらないために頭のプールに貯まってこないのである。気分的な波はあるものだけれど、いつもよりひどい気がする。こういうときはドライブに出かけたり、旅をしてみたり、美味しいものを食べて酒をしこたま飲むと気分が変わるのだが、そもそもそういうことを積極的にしたいと思わない。しなければいけないと思ってやってみても、そういうことはおもしろくないものだ。

 小池さんではないけれど、リセットが出来たら良いのに、と思っている。どうしたらリセットできるのだろう。少し頭が空っぽになるくらい身体をいじめてみようか。もしかしたら血糖値が下がりすぎて気力まで低下しているのだろうか。

伊集院静『悩むなら、旅に出よ。』(小学館)

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 ダイナースクラブの会員誌『シグネチャー』に連載している『旅先でこころに残った言葉』から編集したもので、これは第二集である。第一集の頃は私もダイナースカードを持っていたのでこの記事をいつも楽しみにして、真っ先に読んでいた。会費が負担なので、定年後は解約し、いまは『VISA』の沢木耕太郎の記事を楽しみに読んでいる。こちらも旅先での寸景を写真エッセイにしたものである。

 私が旅をするのは日本国内で、海外は旅行であるが、著者の場合は海外でも旅をしてきた。いまはかなりスケジュールに縛られて旅と言いがたくなっているようだが、若いときはヨーロッパなどを気ままに滞在しながら放浪したようだ。沢木耕太郎とともにその旅についてのエッセイがこちらに沁みるのは、その放浪という下地があるからなのだろう。

 交友関係、人生の分岐点、そのときの思いが旅の風景に重ねられて語られている。若いときに気がつかなかったさまざまなものの深い意味が、人生経験を重ねるうちに見えてくる。そういうことは確かにあると共感する。そのためには人は失敗や挫折を経験しなければならないのかもしれない。

 順風満帆では人生の深い意味を突然思い知る、という経験をすることが出来にくい気がする。

 見過ごしたり聞き過ごしたりしそうな一言に、その言葉を発した人の深い思いが込められていることに気がつくというのは、しみじみとした悦びを伴うものであり、長く生きることの値打ちなのかもしれない。

 たいていぼんやりとそれを聞き過ごしてしまうけれど。

2017年10月 7日 (土)

宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)

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 主人公は、たまたまピアノの調律師という仕事を目にして、ピアノの音が劇的に変わるのを体感する。そしてそれが自分の天職であることを確信し、その道に進む。

 人は成り行きで職を選ぶことが普通で、天職を確信することはあまりない。そういう意味で主人公はしあわせな人である。しかし感性を必要とするその仕事は奥が深く、専門家になるための道のりは遙かに遠い。そこで経験するさまざまなことや出会う人たちの話が物語として語られていく。

 彼が感じる音の世界を言葉にするという試みは意欲的で、しかもそれに成功している。私も書かれた文章からその音のイメージを感じることが出来、それが主人公とともに次第に研ぎ澄まされ、深まっていくのを追体験しているように感じた。

 五感で感じたものを言葉に換えるのは難しい。その困難にあえて挑戦したことで、読者にも新しい世界を体験させてくれる作品となった。この作品は2016年の本屋大賞受賞作である。前から気になっていた本だが、買うのを迷っていた。いまは読んでよかったと思っている。

 私の母は、子どもが出来たらピアノを習わせたいとずっと思っていたそうだ。母が叶えられなかった夢を、子どもに託したかったらしい。妹が物心ついたころにようやくゆとりも出来たので、ピアノ教室に通わせ、防音の洋間を増設し、縦型のピアノを購入した。さいわい妹は途中で放り出さずに最後は音楽学校に進学した。

 家にはいつもピアノがあり、そのピアノはいつかグランドピアノになり、そのピアノはいつも音を奏でていた。妹の通うピアノの先生のコンサートやピアノ教室の発表会に母と一緒に聞きにいったこともたびたびある。

 調律師も定期的に頼むので、その仕事を眺めたこともあって、ピアノの中、羊と鋼の森について普通の人より知っているかもしれない。ただ、私は調律の様子をぼんやり見聞きするばかりで、主人公のようにそこから啓示を受けることはなかった。

 仕事は自ら選ぶことよりも、仕事に選ばれることが普通であるが、どちらにしても一人前になるには多くの経験を積まなければならない。そのときに素直でひたむきであることが、才能があるなしよりもはるかに大事な能力であることをこの物語は教えてくれる。

2017年10月 6日 (金)

池内紀『旅の食卓』(亜紀書房)

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 辞書(岩波国語辞典)で、「旅」を引いても「旅行」を引いても「自宅を離れてよその土地へ行くこと」、となっている。「旅」にはさらに「旅行」と書かれている。つまり同じものだとしているのである。

 私は旅と旅行を使い分けたいと思う。違うものだと感じているからだ。簡単に言えば、旅行は決められたスケジュールで出かけるもので、旅はスケジュールに縛られない自由なものだと思う。漂泊の旅、というけれど、漂泊の旅行、などとはいわないだろう。

 私が独り旅をするときは「旅」である。宿の予約はあらかじめすることもあるが、スケジュールは決めない。ただし友人と行くときは相手の都合もあるからかなり詳細に決めてからにするので旅行である。海外に行くときは、すべてスケジュールが決められているからもちろん旅行である。海外旅とは普通いわない。

 池内紀氏の旅はまさしく旅である。目星を付けて出かけるが、行った先で彼が眼をつけるものは名所旧跡ではなく、人が生きた証や、地に足を付けている人の姿である。その場所でしか見られないもの、人が見過ごしそうなものに眼をとめる。どうして眼をとめたのか、それを語ることで彼自身を語っている。だから彼の旅の本はおもしろい。

 今回読んだこの本は雑誌などに掲載した文章の中から、旅先で出会った食べ物の話を中心に書いたものを選んで、大幅に加筆したものだという。もともと彼は美食家ではないし、味を探求したりしない。駅前の食堂などで食事をすることが普通だ。だからこの本に取りあげられているものは、美食家が語るような食べ物ではないし、高級なものもほとんどない。しかしその土地でしか出会えない食べ物、それにまつわる語りたい話のある食べ物がたくさん取りあげにれている。食べ物を通してその土地がイメージされるようなもの、その視点は私にもよく理解できる。

 私がまさにその土地で食べたことのあるものがいくつもあるし、まだ知らないものもある。どちらも食べてみたいと思う、つまりそこへ出かけてみたくなる、そんな本である。ご本人のイラストが楽しい。

2017年10月 5日 (木)

酩酊

 昨晩は大阪で会社の後輩の送別会。OBである私たちのために、昔の若い部下がセッティングしてくれたものである。もう一年働けるけれど、一年早く勇退するという。昔話に花が咲き、いまの会社の情報も聞くことが出来た。世代交代が進み、だんだん縁のある人が古巣にいなくなる。

 嬉しかったのは、金沢で部下だったけれど系列会社に移ったためにずっと会えないままだった若い後輩が、たまたまこの会を知って参加してくれたことである。10年ぶりくらいか。明るい性格は損なわれていない。ずいぶん仕事に頑張っているようで実績も上げているようだ。聞けば息子とあまり年が違わないことにあらためて驚いた。

 今回勇退する後輩にはせいぜいゆっくり休養して鋭気を養い、第二の人生を楽しんでもらいたいと思う。

 昔話の中でつい自慢話を始めてしまう。控えておこうと思っていたのに酩酊のあまりつい調子に乗る。ふだん話し相手がいないから話が止められないのだ。今朝は酩酊のまま大阪で朝を迎え、さきほどようやく名古屋へ帰着した。

2017年10月 4日 (水)

人を食う

 人を食うといえば日本では人を小馬鹿にすることだが、文字通り本当に人間を食うというおぞましい行為もある。日本人青年がパリで若い女性の肉を食ったという事件(佐川君事件)もあった。ガダルカナルやインパールで飢餓の兵士が死者の肉を食べた話や、アンデス山中に墜落した旅客機の生き残りの人々が人肉食をした話も記憶にある。天明の飢饉のときに人肉食をした話は橘南𧮾や菅江真澄の本にも書かれている。

 人喰い人種というものがいて、未開の地の冒険談などでよく登場する。お話ではなくて事実つい近代まで人肉食の風習は存在したという。

 カニバリズム(人肉風習)については幾多の本がある(開高健にも中野美代子にもあったと記憶する)し、中国には自分の子どもを料理して皇帝に献上した易牙の話なども有名だ。地域により、また人種によって人肉食にあまり抵抗のない人々もいるのだろうか。

 映画『ソイレント・グリーン』の衝撃も忘れがたいし、フェリーニの『サテリコン』で、白塗りの人々が無表情でもぐもぐと口を動かしているおぞましさも強烈だった。

 スペインの画家、ゴヤに『わが子を食うサトュリヌス』という絵があるのを知っている人も多いだろう。一度見たら決して忘れられない絵である。我が子の胴体をわしづかみにして、既に頭と右手は食われている。さらに左手に食いつかんとして大きな口を開けているサトュリヌス。その眼は一杯に見開かれていて狂気に満ちているが、おびえている獣のようでもある。

 サトュリヌスはローマ神話の神であるが、予言により自分の権力が子どもに奪われることを知る。そこで五人の子どもを食ってしまったという話を元にしてこの絵は描かれている。実は逃げ延びた子供がいて、その子が予言通り彼に取って代わるらしいが詳しいことは知らない。

 映画(アニメも実写も)の『進撃の巨人』を観た。それを聞いてお盆には、息子が漫画をどっさりと抱えて持って来てくれたので最初から読み直した。映画は漫画本のほとんど序盤だけである。延々と続いていてストーリーは予想もしない方向に変わっていく。いまのところ23巻まで読んだが、24巻も出ているはずで、今度本屋で探すつもりだ。
 
 巨大な壁に囲まれた中で暮らす人々は壁の外に出ることが出来ない。壁の外には巨人がいて、人をむさぼり食うというのだ。しかしこの百年、壁は破られていない。その壁が突如破られ、巨人たちが侵入するところから物語は始まる。そして人はつぎつぎに巨人に食われていく。巨人と人間の戦いが始まる。

 この巨人たちには知性が感じられず、ゴヤの描いたサテュリヌスのようなおびえや狂気も感じられない。無表情だったり、にこやかに人を頭からむさぼり食う。食糧としてというよりも、食うために、ただ殺戮するためだけに食うのである。ある意味でサテュリヌスより恐ろしい。意味や目的のない人食いはいっそうおぞましい。

 どうしてそうなのかはこれから次第に明らかになるのだろう。そしてこの人喰い巨人の寓意とはなにかが明らかになると思うが、寝る前に少しずつ漫画を読み進めていたので、ちょっとこちらもおかしくなりかけている。そこで人を食う話についての記憶をまとめてみた。いま私に近づくとちょっと危ない。

葉室麟『草笛物語』(祥伝社)

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 あの名作『蜩ノ記』の16年後の羽根藩の物語である。戸田秋谷の忘れ形見や、その係累がその後どうしていたのか、羽根藩はどうなっているのかが語られていく。

 赤座颯太という、若い藩主の小姓を努める少年を主人公に、かれの目から見た羽根藩の中に渦巻く権謀術数が明らかにされる。泣き虫颯太と揶揄される少年が次第に成長しながら志を持ち、かけがえのないものに命をかける男に成長していく。

 それは戸田秋谷の残した志を受け継ぐ人々からさらに颯太に伝えられた、人間としてどう生きるのか、という大事なことだった。勇気とは、それを知るときおのずから身内に生ずるものであろう。しかしそのためには実力が必要だが、彼はまだ少年である。

 魅力的な登場人物達がたくさん登場するし、懐かしい名前もある。絶体絶命の運命を切り開くのは彼らの仲間としての結束だった。

 赤座颯太がこれからどう男として成長していくのか楽しみであり、それは次の世代の話としてまた語られるであろう。一気に読める。

2017年10月 3日 (火)

安野光雅『本が好き』(山川出版社)

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 安野光雅が私の母(既にあの世にいる)よりひとつ若いだけの1926年生まれと知って驚いた。90歳を超えているのである。安野光雅は山口県の津和野出身。津和野の駅からほど近いところに美術館がある。私は森鴎外や西周(にしあまね)の出身地でもある津和野が好きでたびたび訪れている。そのときに泊まるビジネスホテルが美術館のすぐとなりである。

 この本は本について書いた本であるが、書評本ではない。彼が読んだ本からうけた思いと、彼の交遊した人々の思い出が渾然と一体になった文章が綴られている。

 たくさんの本が紹介されているが、取りあげられている本がなじみの本だったり著者だったりするので素直に嬉しい。橘南𧮾の『東西遊記』があった。日高敏隆が、堀田善衛が、デュマの『モンテ・クリスト伯』が、大佛次郎が、小泉八雲が、芥川龍之介が、井伏鱒二が、司馬遼太郎が、イザベラ・バードが、志賀直哉が、森まゆみが、吉村昭が、そして何と三遊亭圓生まで取りあげられているのである。

 『本が好き』な人の取りあげた本が、私も好きだから嬉しいのである。

 ご本人の挿絵もふんだんにある。文章は簡略でくだくだしく書かれていないから、話が飛躍してときどき置いて行かれる。それでも読み続けていれば、どこに連れて行かれたのかようやく分かってそれも楽しい。

言った者勝ち

 先日、ティラーソン・アメリカ国務長官が中国を訪問したのは、トランプ大統領のアジア歴訪で中国にも訪問する下準備だと大方は見ているが、実は別の目的があった、と遠藤誉女史が推測を述べている。

 今のままでは北朝鮮をアメリカが攻撃する可能性が高くなっている。軍事行動をすれば韓国や日本に被害が及ぶことは必至だが、先般もブログに書いたように、アメリカはそれを斟酌しないだろう。

 しかし被害は中国にも及ぶおそれがあり、なおかつ陸続きであるから避難民が中国に雪崩を打って押し寄せて大混乱になる可能性が高い。中国にとってもアメリカの軍事行動は迷惑に違いない。

 その上、アメリカが北朝鮮を制圧すれば、民主化された北朝鮮が、そして民主化した統一朝鮮が誕生することになるだろう。これも中国にとって望ましいことではない。

 「それでいいのか?」とティラーソンは習近平に聞いたはずだと遠藤誉女史は推測するのである。中国は、アメリカが38度線を越えたら北朝鮮を応援する、と公言している。言葉通りなら、北朝鮮の国土で米中の戦いが起こらないとは限らない。朝鮮戦争の再発である。そもそも朝鮮戦争は休戦しているだけで終結はしていないのであるから、長い休戦のあとの戦争継続である。

 中国もアメリカもそれを望まない。

 それなら中国が北朝鮮を制圧せよ!とティラーソンは中国に迫っただろう。中国が金正恩を排除して、傀儡政権をたて、中国に都合の良い国家にしても、アメリカは文句を言わない、とアメリカはささやいたに違いないというのだ。

 これなら中国とアメリカの戦いは起こらないし、朝鮮半島の現状が維持できる。中国はチベットを始め、そのような戦いに長けている。戦争をしたくてたまらない軍部かあって、その軍事行動にアメリカが口を挟まないと約束してくれれば、中国にとって魅力的な提案だろう。

 その口約束は公表されるはずのないことであるけれど、中国とアメリカの利害の落としどころとして大いにあり得るというわけである。しからば習近平は全人代で強権の確保ができ次第北朝鮮に軍事行動を起こすのではないか。

 出来れば大がかりにしたくないから、金正恩とその周辺だけを排除したいだろうが、金正恩も万全の保安体制を敷いているだろう。そう都合よく行かずに戦火は拡大するおそれもある。しかしアメリカの軍事行動よりは大がかりにならないような気がする。

 あくまで遠藤誉女史の推測だけれど、そういうこともあり得ると思わないこともない。言った者勝ちである。

2017年10月 2日 (月)

池田清彦「正直者はバカを見る」(角川新書)

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 生物学者のこの人が養老孟司師との対談を収録した本を読んで、ユニークな考え方の人だなあと思った記憶がある。もともと養老孟司師とは虫狂いつながりの間柄だから親しいようだ。ただし養老師のほうがだいぶ年上である。

 池田氏は生物学については専門家であり、昆虫について、そして医学その他のことについても専門知識が豊富である。歴史についても自分なりの世界観できちんと論理的に把握している。それらはすべて敬服に値するのだが、政治的なスタンスは私とはずいぶん違う。

 その違いがあるから敬遠するということはない。自分の及ばざるところに到達して知らなかったこと、見えていなかったことを気付かせてくれるなら、私には先生である。

 そういうことがふんだんに書かれているので、この本は読む値打ちがある。多少玉石混淆なところがあり、下手に石ころに躓いていると玉を見損なうから我慢が必要である。

 なんだか政治信条まで少し影響を受けかけている自分に驚いているところだ。内田樹老師、養老孟司師と同様、他人の受け売りではなく、自分で考えることの大事さをとことん教えてくれる。中嶋義通先生を敬していると言い切るあたり、つい話に引き込まれてしまうではないか。

名医

 検診前に休酒したり節食したりしているから、検診日の血液検査は定常時のものを測っていないことになる。それでも数値が悪くて注意を受けることがある。今回も多少節制が緩んでいたので心配していた。それにしても今回の検査前の節制は空腹感がいつも以上にきつく、甘い物への渇望も辛いほどだった。もしこれが糖尿病の悪化によるものなら大変だ。

 名古屋は午後後半から雨だという。空はいまにも降りそうな雲行きである。病院まで徒歩で20分足らず、歩き出して間もなく小雨が降り出した。早いではないか。病院の受付にはいつも以上に人がいる。診察に時間がかかることを覚悟する。体重は目標まで落ちていない。血圧は良好。血液はどうだろう。

 予想外に早く呼ばれる。血液検査の結果が出るのがだんだん早くなっているようである。おかげで診察までに読み切れると思っていた本を途中で閉じることになった。

 検査結果は・・・血糖値はギリギリセーフ。レッドラインを越えていない。コレステロールも中性脂肪も適正である。「これなら好いですね」と美人の女医さんはにっこりする。こちらもほっとする。腹がへるし無性に甘い物が欲しくなる、と言ったら、立ちくらみなどがなければ、そこが我慢のしどころです。まあ、あまり無理をしないで多少は甘い物を摂るのはかまいませんよ、とのこと。けっこう摂ってるけれどそれは言わない。 

 体重を増やさないこと、出来ればもう少し減らして欲しいと言われて検診終わり。次回は12月だが、予約が立て込んでいるらしい。指定された日は友人達と蟹を食いに行く予定の日である。そのあとだとなかば過ぎだがそれでいいのか。かまいませんよ、節制が続けられると信用していますから、とにっこりされるとつい頑張ります、と答えてしまうではないか。わたしにとってこの先生は名医である。

 雨は上がっているようだ。帰りの足どりは軽い。さあ飯食うぞ。

見直した

 希望の党立ち上げ組の若狭氏が、政権を取るのは次の次の選挙、と言ったらしい。なんとなく胡散臭い人だとみていたけれど、ちょっと見直した。

 マスコミは新しいものが好きだし、変化は話題になるから、政権交代、政権交代、とはやし立てる。しかしいま希望の党が寄せ集めのままで政権を取ってしまったら、どうやって組閣をするというのだろう。危うい話ではないか。

 枝野氏が新党民主党を立ち上げるという。これでリベラル派の議員の受け皿になるだろう。何とか議員として残りたくて希望の党に擦り寄ったが、はじかれてしまったような人たちや、はじかれそうな人たちがそちらにまとまればすっきりする。希望の党もわずらわしくなくてありがたいことだろう。ついでに泡沫党もみんなまとめてくれるとありがたい。テレビでは、それぞれを対等に取り扱うために雁首を並べて意見を聞かされるのにはうんざりしていた。

 これで本来の保守の改革が可能になるのではないか。現与党も慢心して寝ぼけたままでいては政権を失うと思えば少しは改革しようとするだろうし、それを怠ればそのときには力を付けた希望の党に票は流れるだろう。

2017年10月 1日 (日)

たわごと

 時々刻々日を追うごとに情勢が変化しているので、衆議院選挙の趨勢は混沌として定まらない。これからも予想もつかないようなことがありそうな気がする。

 ひとつだけ気になることがあった。

 小池代表(兼都知事)が「改革する保守」と言ったことに噛みついた人々がいたことである。「改革」と「保守」では矛盾しているではないか!というのである。民進党や泡沫野党からこの声が聞かれたし、マスコミの記者にもいた。こういうのをバカモノという。

 保守の対立語は一応革新ということになっている。問題点をその都度解決しながら現状の体制を保持しようというのが保守である。体制を維持するためには必要な改革をするのは当然である。改革をするなら保守でない、などということはない。革新は改革とは違う。体制を根本的に見直すものである。保守の改革を弥縫策として唾棄するものであり、仕組みそのものに手を入れることを目指すものである。

 だからリベラリストが自らを革新とみなすというのが妥当なのかどうか、私は疑問に思っている。特に日本のリベラリストは百点ではないから駄目、というだだっ子みたいな集まりだから、何を目指しているのかちっとも分からない。私は日本で革新といえるのは共産党だけではないかと思う(いまは猫をかぶっているから解りにくいけれど)。

 保守だって改革するのであって、体制を維持するために問題が生じたら改革を謳って当然なのである。自民党に自浄努力が足らず、腐敗が見えたら、それに対して希望の党が改革する保守を旗印にするのは少しもおかしなことではない。

 改革が革新だけの専売特許だなどと勘違いしていることがそもそも頭の悪い証拠ではないかと思う。保守に改革されたりすると困るのであろうか。

 小池代表には泥縄的なお粗末さが見えて仕方がないが、「保守の改革」という旗印は了解する。「希望の党」は「保守」であることを明言し、そして現状の保守を改革するといっていることには賛成である。支持するかどうか分からないけれど。

 しかし数を恃むために、保守とリベラルと革新の境目すら分からない烏合の衆をかき集めることになって、結局自壊するのではないかという危うさも見える。願わくばいまは党勢の拡大だけを目指さずに、次回、次々回の政権交代を目指す実力ある第二野党に育って欲しいものである。

 それが緩んだ安倍政権を蘇生させることになれば日本の国にとってさいわいとなるはずだ。そこで初めて真の二大政党の時代が見えてくる。

三遊亭圓生『江戸散歩 上・下』(小学館)

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 圓生(六代目)といえば、いまの三遊亭円楽(楽太郎)の先代の円楽(自称・星の王子様、知識をひけらかすところなど、私はあまり好きではなかった)の師匠である。この圓生は私が子どものときから聞いていた落語家で、一番好きな落語家だ。落語のCDを数十枚持っているが、大半がこの圓生である。寝る前にときどき聞く。持ちネタの多いことでも知られていた人で、積極的に録音にも協力したので、たくさん録音が残されていて、それがCDにされている。むかしはカセットで何本か持っていたがどこかへ行ってしまった。「火事息子」のテープは何遍聴いただろう。

 今回読んだこの本は上下二巻で、もともと朝日新聞の文庫として出版されたものが絶版状態になっており、小学館のP+D BOOKSというシリーズの中で再版された。語り下ろしで書かれたものであり、ルビがわざわざ語られている通りに江戸訛りに振られていて、読みながら圓生がじかに話しているように読める。読みながら声が聞こえてくるのである。聞いたことのない人には無理だろうが、私にはそうだ。それほど聞き込んでもいる。

 落語家というのは記憶力が特別鍛えられる仕事なのだろう。いろいろな資料を前に置いて話しているのだろうが、その都度いちいち調べているヒマはないはずで、次から次に出てくる地名や人名、歴史などの記憶の膨大な量にうならされる。

 日本橋から始まって京橋、下谷、浅草、芝、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、本所、深川等々、話題は山のようにあってそれが次から次にあふれるように語られていく。寄席の江戸時代からの歴史、席亭の場所や芸人、関わった人たち、周辺の様子など、眼前に見えるようである。実際のその場所を知っていたらもっともっと楽しめたろうにと思い、また実際にそこに行ってみたい気持にさせられるが、しかしもうその場所にはないものばかりで、訪ねても途方に暮れることであろう。

 原本が出版されたのが1986年、既に昔である。しかも語られているのは主に明治から大正、昭和の初めだ。聞きながら(読みながら)その時代のことを頭に描いてほとんどその時代にいるような気持になった。

 落語そのものもたくさん引用されている。「髪結新三」などは特に詳しい。これは歌舞伎の外題にもなっている。これだけでも長い噺だが、実はもっと長い噺の一部だと言うことをこの本で知った。新三に虚仮にされた弥太五郎源七がのちに新三に恨みを晴らし(殺してしまう)、それを大岡越前守が裁くことになるらしい。

 なじみの噺と地名が関連づけて語られるので、今度その噺を聞くときにはもっと膨らみをもって聞くことが出来るかもしれない。圓生については既に何度かこのブログで取りあげている。江戸前落語ではこの人のあとに志ん朝に思い入れをしたが、早死にをしたのは残念であった。録音も少ない。小朝に多少期待したが、がっかりな状態。私の落語は圓生止まりなのである。いまの林家正蔵や三平など、学生落語以下で聞くに堪えない。これで真打ちとは落語界も情けない。それでも笑点の大喜利だけは楽しみに見ているけれど。

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