いまさら気がつく
今月初め、会社の後輩が勇退するというのでOBを含めてのささやかな送別会に参加した。時間の制限のある飲み会だったのは飲み放題だったからである。会が解散の時に、最初ビールを飲むピッチが遅いのでどうしたのかと思っていたら、ワインに切り替えてから昔通りだったから安心した、と皆に言われた。
鯨飲馬食が酒席での私の唯一の芸だったから、息つく間もなしに飲み食いして人をあっけにとらせることが多かった。思えば自分はつくづくバカだったなあと思う。割り勘で飲むときなどはどれほど迷惑をかけていたのかと思うが、それを迷惑と感じさせないために限度をさらに超えて見せていたような気がする。ますますバカである。
飲み放題食い放題などという店では従業員もたくさん飲み食いする客を見なれているはずだが、その従業員がさすがに眉をひそめていたこともある。ただ私は元を取ろうということはあまり考えず、どれだけ飲み食いできるのか挑戦するのを楽しんでいたつもりだった。
その記念として糖尿病が持病として残されたが、それは自業自得である。しかし先日の送別会でのみんなの言葉に、いささか忸怩たるものを感じた。自分の鯨飲馬食に「さもしさ」がなかったのかどうか。さもしいことは醜いことだとこころから思っているつもりなのに、気がつくとついそういう行動に走っていたりする。人がそういう行動に走りがちなのは、損をしたくないという気持がどこかに常にあるからだろう。
金持ちになる人は得をしよう、儲けようのこころが強い人であろう。損をしたくないという人は、見かけ上は得をしたい人に似ている。ところが損をしたくないというばかりの人は決して金持ちにはならない。損をしたくないひとは弱い人だから、負けたくないという思いからしばしばいかにも図々しいことを平気でする。自分が見えていないのだ。そういうのを見るとわたしは嫌な気がする。
もともと得をしようとする気持はあまりなかったけれど、ある頃からわたしは、損をしてもいいではないか、と思うようになった。そうするととても生きるのが楽になった。もちろん貪る人にこちらの分け前まで侵されるようなことは許さない。それは理不尽を許すことだからだ。そうでなければ目くじらは立てないよう心がけているつもりだ。
そういう気持で世の中を見ていると、さもしい人々に満ちあふれているように見えたりしてしまう。実はさもしくない人のほうがずっと多いのだけれど、そういう人は自己主張をあまりしないから表面に出ないので見えないのだろう。
中国や韓国のニュースに笑ってしまうようなさもしい人の話があふれているので、つい悪口を言いたくなるのだけれど、さもしくない人のほうがそれらの国でも多分普通なのだと思う。我慢して天を仰いでいるのだろう。さもしい人が多数になれば世の中は成り立たないはずだと信じたい。我慢している人がいてこそのさもしい人である。
そのようなさもしい人が日本にもいて、少し増えている気がしているが、それは損をしたくない弱い人が増えていて、その人達をあんたは損をしている、と焚きつける人々がいるからだろう。さいわい私の知っているかぎり、若い人たちには比較的に少ないようで、別に得をしたくないし、ときには損をしてもいいと達観している人が多いようだ。そのことは活力には繋がらないが、未来に違う意味で希望があるような気がしている。そこにこそ、もしかしたら平和があるのかもしれない。
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