独りで酒を飲む
喜怒哀楽の感度が年齢とともに変化している。喜びとか楽しさの感度が低下して、しかも長続きしなくなった。それに対して怒りの感情が起きやすくなっている気がする。高齢者がしばしば他人に対して激怒して、大声でののしっているのを見ることが増えている。そう感じているのは私だけではないだろう。そんなものを見るたびに自制しなければと自分に言い聞かせている。世の中は自分を中心に動いているわけではない。
哀しさに対しては敏感になっている。いままで何とも思わなかったようなことに人生の無常や孤独感を感じる。独り旅をすると特にその思いがつのる。少々自虐的だが、その淋しさのようなものを味わいたくて旅をしているのかもしれない。
山の宿などで一人で温泉に浸かりながら、ああ独りだなあ、などとため息をつくとかえって生きているという実感がわくから不思議だ。そういうときは同時に人恋しいときでもあり、見知らぬ誰かについ声をかけたりする。
喜びや楽しみの神経には錆のようなものがこびりついてしまって、少々のことでは心に届かなくなっているようである。世の中は欲望をやたらに刺激する機会に満ちていて、しかもそれを得ることも容易になっている。本来はそれを得るために必要だった辛抱が不要になってしまったために満足感が一時的、ときには瞬間的にしか得られなくなったのだと思う。その積み重ねこそが精神の錆である。
恋愛だってどうぞご自由にといわれては恋心もつのりにくい。「堰(せ)かれてつのる恋心」というではないか。障害があっての喜びなのである。「空腹は最良のコック」ともいう。腹が減っているからこそ美味いと思えるものだ。
世の中が自由気ままになって社会的連帯などしないで済ますことができるようになったけれど、ひとの役に立つ機会は減ってしまった。自分の存在意味は他人から認められたときにこそ生ずる。あなたがいてくれて助かった、という他人の眼差しこそが本来の人間の生きがいなのではないだろうか。
誰にも助けてもらうつもりはないから誰も助けない、という生き方をついしてしまうのが現代かもしれない。だから人は孤独になる。そしてそのことを無意識に感じているから哀しみに敏感になるのかもしれない。大きな災害のときに困難に対して人々が助け合っているのを見るとき、その人達が無性に活き活きして見えるのは当然なのだろう。
それが分かりながら独りで暮らし、淋しさを哀しみとして楽しんでいる。へそ曲がりなのである。そうして急に人に会いたくなって誰かを訪ねるために旅に出る。その思いをつのらせながら、そうそう散財も出来ないので、いまはわが家で独りで酒を飲んでいる。
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