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2017年12月

2017年12月31日 (日)

良いお年をお迎えください

今晩から酒盛りが始まる。

昼酒は自分に禁じているが、正月と友人との旅先は例外として許可している。明日は朝からつぶれるまで飲む。酒正月だ。

今年はこれが最後のブログ、たぶん明日は更新は無理だろうと思う。

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今年一年、拙いブログを見ていただいてまことにありがとうございました。

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皆様にとって来年が良い年でありますように!

そして来年もどうぞよろしくお願いいたします。

ついに大晦日

 今年こそは暮れの準備を比較的に段取りよく進めているつもりであったが、少しずつ手抜き、先送りをしているうちに、やり残しを今日中にやっつけなければならないことになっている。

 結局、まあいいやで終わることが見えてきた。思うようには行かないものなのだ。しかしそれは、すれば良いことをしない自分のせいなのだが、たいしたことでもないのにどうしてできないのか我ながら不思議である。

 年の瀬につまらないことを考えても、下手な考え休むに似たり、であるから、まあいいや、なのである。

 魔法でも使えればなあ、と子どもみたいなことを思うが、そんなものが使えたらますます身体を動かさないから寿命を縮めることになるだろう。魔法が使えないことも神様の配慮かもしれない。

 ああ、忙中閑あり。

 昨日は正月のフライイングでいささか酒を余分に飲んでしまった。駄目だこりゃ!

 今年のブログはあと一回で終わりです。

2017年12月30日 (土)

いい加減にもうその報道はやめてくれと言う権利

 マスコミには「報道しない権利」があるように、顧客側に「いい加減にもうその報道はやめてくれという権利」はないものだろうか。

 相撲に関する報道を朝から晩まで連日報じて、しかも報じることの内容が伝聞や憶測に終始していて、およそ報道とはいえないものを垂れ流して恥ずかしくないのかと思う。

 そんなもの見なければ良い、と言われても他にもニュースがあるわけで、それを見ようとすれば否が応でも見たくないものが見せられる。誰も見なければ報じなくなるというけれど、何しろ暇な人間しかニュースを見ないのである。そもそも暇だからニュースを見たいのである。しからば、このニュースはいい加減にしてくれ、見たくない、という声を集める場所を設置してもらえないものだろうか、などと空想する。逆視聴率のようなもので、「いい加減にこのニュースはやめてくれ」という権利を行使させてもらえないものだろうか。

 案外マスコミ側は気がついていないことが多いと思うのだ。

謝罪を報道しない自由

 西村幸佑『報道しない自由』という本を読んで、気が付いたことがある。

 かねがね不思議に思っていたのだが、日本政府は韓国に繰り返し謝罪し続けてきたと私には見える。日本人の多くもそう感じているだろう。

 ところが韓国は常に日本の謝罪がないという。だから謝罪せよという。だから日本人はもういい加減にしてくれ、という気持の方が強くなっている。

 どうしてこんなことになるのだろうか。 

 韓国のマスコミは、日本が謝罪しても、そもそもそれを報じなかったか、または謝罪を謝罪として報じなかったのではないだろうか、というのが私の想像である。それならその報道だけに接している韓国の人々の多くは日本はまだ謝罪していないと思っているだろう。

 韓国政府は日本が謝罪し続けていることをもちろん承知している。しかし国民がそう受け取っていないから再び三度謝罪を日本に求めるのは当然だと考えてきたようだ。何しろそれで自分の点数が上がるかもしれないからだが、あに図らんや、それが報じられないから日本が謝罪しても功績にならない。そうなると要求をエスカレートせざるを得ない。

 こうして韓国は、日本にたいしボタンを押すと「ごめんなさい」という人形のボタンを押し続けるサルのように行動してきたが、さすがに日本の堪忍袋も切れてきてしまった。日本は人形ではない。

 韓国のマスコミは日本が韓国を無視し始めることをもっとも恐れている。そのことが韓国の国益を損なうことを誰より知っているからだ。しかしそれを修正するには遅すぎる。韓国国民に彼らが「報道しない自由」によって刷り込み続けた日本観はおいそれと変えることはできないだろう。とはいえ国益に気がついて猫をかぶって宥和を呼びかけてきても、状況が変われば合意の破棄のようにまた謝罪を要求する可能性が高いだろう。今のままでもういいではないかとまで思う。

 ところで平昌オリンピックの後、韓国はどうなっていくのだろう。祭りの後の寂しさを噛みしめることになりはしないか(小人はそれを期待したりする)。 

良い兆候なのだろうか

 日韓の慰安婦合意につい韓国の外務省が検証した結果が発表された。先日韓国の外相が日本に来たときに、当初今回の検証は政府が行うものではなく、民間が行っているものだから政府は関係ないとも取れる発言をしていたが、文在寅政権の外務省の下部機関が政府の指示で行ったもので、言い訳のためとはいえああいう公然たる嘘は見苦しい。

 文在寅政権はこの検証結果を基に日本と再交渉をして国民の喝采を受けようとしているのだろうが、政権維持のためとはいえあまりにも安直な手法に、またかとうんざりする。

 慰安婦合意は日本人も驚いたことで、喜ばしいこととはいえ信じられない思いがした。同時にこれはまた韓国で物議が生じ、合意がひっくり返されるだろうなあという予感もあった。

 予感の通り、二年経って新政権は再びそれを見直す動きを見せているわけである。政府と政府の間で行った合意を国民が納得しないから見直すというのは筋が通らない。これでは政府どおしのとり決めは常に不確かなものになってしまう。この場合は、とり決めをした政府が不満を持つ国民を説得するのが筋だろう。合意を見直して新たなとり決めをしたところで再び三度見直すことが考えられたら、交渉には意味がないことになる。韓国とのとり決めは常になし崩し的な見直しが常だった。だからこその「不可逆的」の文言だったのだろう。

 だから今回の検証がどうあれ、慰安婦問題はすでに韓国の国内問題である。ところが何たることか、合意にいたる非公開部分を公開するという、信じられないことを韓国外務省は行った。外交に非公開の部分があるのは必然的なもので、それを公開しないのは常識である。

 さすがに韓国の新聞各紙は右派左派問わずにその点は間違いではないかと指摘している。韓国の信用を損ない、日韓関係に重大なマイナスだと報じている。当たり前のことを当たり前に言っているけれど、いままでなかったことなのでそれにも驚いた。これは良い兆候なのだろうか。

 国際的に非常識でも日本に対してだけは何をしても良いというのが韓国ではないかと日本人の多くは感じている。それなら韓国とのつき合いは必要最小限にすべきだとさらに思うのは自然な感情だろう。

 韓国をよく知る人は、韓国の多くの人々はそこまで反日的ではないと言うが、今回の文在寅大統領の日本に対する言動は、はたして韓国の人々にどう見えているのだろう。彼の支持率は今回のことでさらに上昇するのだろうか。それなら日本は彼が政権を担っている間は韓国に希望がもてない。

 韓国の外相が日本に来た目的は、第一に安倍首相の平昌オリンピックの開会式への参列要請であったといわれる。安倍首相も国会期間中ではあるが参加を検討する、と答えていたようだ。しかし今回のことで、国民感情を考慮すれば「国会会期中だから参加は無理である」との解答をせざるを得ないだろう。

 そうなったところで、元々韓国のあの女性外相は文在寅大統領以上に反日左翼と噂されているから、別に何とも思わないことであろう。

 平昌オリンピックにトランプ大統領は行くのだろうか。まず行かないだろうと思う。そうなると習近平とプーチンが主賓として貴賓席に並ぶオリンピックになるわけで、文在寅としてはもっとも理想的な晴れ舞台となるわけだ。

2017年12月29日 (金)

西村幸佑『報道しない自由(なぜ、メディアは平気で嘘をつくのか)』(イースト・プレス)

 この本の主旨は、中国で反政府運動を封じるために行っている検閲システムについて述べた後に

「情報統制は本書で繰り返し述べてきた『報道しない自由』と同じ構造を持っている。全体主義の国と違い、日本人は自由な情報空間の中で報道や言論の自由を享受していると考えるのが普通だが、じつは大間違いだ。なぜなら、見えない全体主義の情報統制の中に、すでに私たちは置かれているからである」
「人はものを考えるとき、言葉を使う。ては、言葉の使用が制限されたときに自由な思考は可能なのだろうか。思考そのものがある枠組みに入れられてしまえば、おのずから思考に制限がかかるのは自明である」

と述べられていることに明らかである。ここでは「報道しない自由」と「情報統制」がひっくり返されたかたちで同じものだとされているのだ。

 なぜいま若者が新聞やテレビの報道からどんどん離れていっているのか。それを若者の知識欲の低下、知りたい気持ちの減少ととらえるのは間違いだろう。新聞やテレビの報道が信用できないと気がついた若者が増えているということに気がついていながらそれを受け入れられないメディアがいる。

 アンケートをとれば若者と高齢者の社会認識に大きなズレが生じていることが分かる。新聞やワイドショーで繰り返し刷り込まれる社会認識と、それから自由な若者の認識が大きく違うことの意味をもう少し真剣に問い直す必要がある。

 マスコミは自主規制という枠を自らに架したことで言論統制を行っているというのが本書の主張である。そしてその淵源は戦後のGHQの事後検閲という巧妙な仕組みだった。このことは江藤淳の『閉ざされた言語空間』という本に詳しく書かれていて、この本でもそれをたびたび引用されいる。

 だから江藤淳は死後ほとんどマスコミに取りあげられることはない。極端なことを言えば、マスコミの自主規制、まさに「報道しない自由」によって封印されているからだ。私は評論家としての江藤淳を高く買っていて、彼の自死については深く思うところがある。

 森友・加計問題で、一方の主張ばかりが取りあげられて反論をほとんど報じない姿勢に不審を感じた人は多いはずだが、新聞とテレビでの報道だけを見ている人の多くはそれに気付くことができない。

 ワイドショーを見るのは、むかしは専業主婦のみだった。いまは私のようにリタイアした人たちも見ている。しからばニュースについての認識に、昼間働いていてそのようなものを見る機会のない人と違いが出るのは当然である。そこには「報道しない自由」によって恣意的に歪められた正義が報道されている可能性がある。

 思い起こせば、民主党が政権を取ったのも、そのような報道に国民が踊らされたことが大きかった。いま旧民主党に人気がないのは、民主党そのものの責任も大きいけれど、マスコミの責任も大きい。結果としてともに国民の反発を生んだ。

 著者の指摘は私も日ごろ思うところであり、朝日新聞が遂に慰安婦報道について誤報だと認めて謝罪したのはそのような手法が通用しなくなりつつあることの兆候であろうか。しかしこれからますますテレビの前に坐り、新聞をじっくり読む時間のあるリタイア組が増えるとすると、はたして楽観的に考えていいのか分からない。

 願わくば、その時間的ゆとりをもう少し違う情報に接することに当ててもらいたいものである。暇な人が増えたらマスメディアの誘導する正義を信奉する信者が増えると当て込んだことが裏切られて欲しいものである。

 著者は、いささか我田に水を入れる如く、自己の主張に誘導しすぎるきらいはあって、そこはいささか飛ばし読みした。さくさく読めるし、大事なことも書かれているのだが、それを我慢しないと読み切れないかもしれない。

ザ・・・

 鳴子温泉に滞在中に読んだ本に、池内紀『M博士-往来の思想』がある。それについてはすでにブログに書いているが、その中にゲーテの『ファウスト』をきっかけに、ドイツの19世紀頃の小説の話題が取りあげられている。そのような小説が明治時代に紹介されているのは、森鴎外が次々に翻訳していたからだろう。

 紹介された小説が、池内紀の文章でとても魅力的なもののように思えてくる。一度試しに短篇のいくつかを読みたいと思ったりする。何しろ池内紀はそもそもドイツ文学者で、ウィーンに留学もしていたからドイツ語はそのまま読める。いくつもの小説の背景や解釈が詳しく、それらの小説が魅力的に感じられるのは当然なのである。

 しからば森鴎外の翻訳したものを探して手に入れてじっくり読んでみようか、と思わないことはないが、さて手に入れても少々囓っただけで積んでおくことになりそうな気もしている。

 そこで森鴎外である。

 森鴎外は山口県の津和野出身だが、少壮の頃上京して二度と津和野には戻らなかった。津和野には森鴎外の記念館がある。西周の出身地でもあり、画家の安野光雅も津和野出身であり大きな美術館もある。私は津和野の町が好きで、数回泊まって散策している。

 私は夏目漱石より森鴎外の方が読みやすい。実家にある日本文学全集の森鴎外編は二冊になっているが、すべて読んだ。『渋江抽斎』が入っていなかったのは幸いであった(あれを読み通す根気はない)。

 ザ・漱石、ザ・鴎外、ザ・啄木、ザ・龍之介、ザ・賢治、ザ・清輝と言う六冊の本が棚にある。ザ・鴎外というのは変だけれど(ジ・鴎外でないといけない)、それはよしとしておく。これは大判のわら半紙みたいな用紙に虫眼鏡で読まないと読めないような小さな字で四段組でびっしりと印刷された本である。それぞれそれ一冊で個人全集になっている。普通に全集にしたら十冊以上のものがその一冊に押し込まれているのである。ここには石川啄木の歌や評論などすべてが、宮沢賢治の書いた文章のすべてが収められていて、どこかで引用されたときにこれを引っ張り出すと、その文章全部を知ることができて便利なのである。

 残念ながらザ・鴎外には彼の小説79編だけで、翻訳は収録されていない。ここには渋江抽斎も当然ある。引っ張り出して眺めているとまた読みたくなる。元々近眼だから、まだ裸眼でこの小さな活字が読めるのである。試しに冒頭の『舞姫』を読めば、たちまちその世界に没入することができる。

 いやいや、暮れにそんなことを始めたら何も手につかなくなる、あわてて本から現実に戻っている。さて、来年は鴎外をテーマに少しじっくり読んでみようかなどと考えている。
 
 それと『今昔物語集』がずっと読みかけで放ってある、それに『謡曲集』も一度は通し読みしてみたい。ああ、時間がいくらあっても足らない。ボンヤリしながら何もせずに、それなのにせわしない気持になっている。何しろ師走の暮れなのである。人並みに気ぜわしいのである。

2017年12月28日 (木)

まるく掃かない

 いそうろう、角な座敷をまるく掃き

 私はいそうろうではないけれど横着者でいい加減だから、ふだんは四角い部屋を丸く掃いている。しかし年末ともなればふだんは掃かない四隅も、ものを片付けて掃除しなければならない。自分だけだったらまあいいやとサボるかもしれないが、息子はそういうところに目ざとい。口には出さずにそういうところをせっせと掃除し始めたりするから、親としてはその前に掃除しておかないと恥ずかしいのである。

 さて今日は28日、八の日は正月のお飾りなどを用意する日である。明日は九の日であるから、その前に餅の用意やお飾りをするべし、と母から教えられている。九は苦であり忌むべきで、八は末広がりで縁起かいいのである。鏡餅とお飾りを買いに行こう。

 この前に書いたブログに関連して、古文について「Hiroshi」さんからコメントをいただいた。古文の授業も歴史的背景や思想的背景を絡めて学べば面白いはずだったというご意見に全く同感である。それに触発されて古文の授業が苦手だったのに、いまどうして古典が面白く感じられるようになったのか考えた。たぶんささやかながらむかしより歴史や思想的な背景の知識が持てるようになったからなのだと思う。

 そのことで、思い出したのが中学時代に歴史の先生から、「その時代のことを識るにはその時代のひとの気持になって考えることも必要です」と言われたことだ。団塊の世代である私が学んだ時代は、「世の中は進歩していき、どんどん明るく豊かな時代になっていく」とみなが信じていた時代だった。実際に高度成長期にさしかかるときでもあり、それは実感だった。

 そして戦争に対する反省もあったから、過去は暗く間違った時代であったと、ことさら言い立てる時代でもあった。特に先生達は教え子を戦場に送り出したことへの反省だろうか、現在の価値観で過去の歴史のさまざまを批判する傾向があった。

 だからそれに影響された優等生が、聖徳太子が法隆寺を建てた(とその時は教えられていた)のは、権力で一般民衆を使役したのだと言ったりした。そのときに歴史の先生が、現在の正しいこととその時代の正しいこととは違うかもしれない、歴史を学ぶときはその時代のひとがどう考えていたのかを考えなければいけない、と言ったのだ。

 もちろん人さまざまの価値観があり、権力者と大衆とは全く違う価値観だろうが、その価値観を持つための基礎となる知識はその時代に得られるものに限られるのである。彼らにとって、現代の生活や知識などは想像を絶するものであるはずだ。

 歴史を考えるとき、そのことを見失うと正義で歴史を論ずることになる。見失うとどうなるか、そのことを日本人の多くは身に沁みているし今もその正義に基づいて非難されている。

 さいわい私は日本で自由に知識を得ることができているので、いまそれをもとに、古典が少しはおもしろいものだと知ることができるようになった。その先生には大いに感謝している。他にもさまざまに大事なことを教えてくれた人たちのおかげで、私はものを知ることの喜びを楽しむことができているのだ。有難いことである。

(続々)梅原猛『古典の発見』(講談社)

 後鳥羽上皇と藤原定家は歌についての美学が違い、そのために定家は長く不遇を強いられた。しかし後鳥羽上皇が承久の変で失脚したことで、結果的に定家は陽の当たるところに出ることができた。後鳥羽上皇は、島流し先で書いた歌論の中で定家を散々にこき下ろしているという。しかし歌人としては、やはり藤原定家の方が勝れているであろう(私にそれを比較する力はないが大方はそう評価しているようだ)。

 新古今集では定家は本歌取りという手法の歌を数多く収めている。この本歌取りについては高校の時に習い、その故に正岡子規などは新古今を評価していないと読んだことがある。確かに写実とはほど遠い手法である。しかしその美学の奥深さを理解するとき、定家の心の襞の複雑さ、微妙さこそ素晴らしいのだという評価もできるのである(らしい)。

 それはそれとして、私が引っかかったのは、著者の取りあげた歌についての解釈である。

 古今集の本歌
  さむしろに衣かたしき今宵もや
       我を待つらむ宇治の橋姫

 これを定家が本歌取りして
  さむしろや待つ夜の秋の風ふけて
       月をかたしくうぢのはしひめ

という歌を新古今集に収めているのであるが、

「宇治に遊女がいた。橋姫というから下級遊女であろう。この遊女を貴族が一夜買う。遊女は、この貴族に惚れる。けれど、貴族はそうしばしば遊女のところへ通うことができない。それゆえ彼は橋の下で、寒そうに自分を待っている遊女を思いやって歌を作る(後略)」というのが本歌の解釈で、定家は「衣かたしく」を「月をかたしく」と変えることで、女の孤独感を強調し、凄惨な女の美しさ、作られた空想の美にしているというのだ。

 なるほどそう読めるものなのか。しかし私が気になるのはそのことではない。

「宇治の橋姫」といえば、Wikipediaで確認すればすぐ分かるけれど、自ら鬼に変貌することを神にのぞみ、生き霊と化した伝説の女が思い浮かぶではないか。宇治橋の近くには小さいけれど橋姫神社がいまも残っているのである(怨霊を鎮魂するための神社である。実際に私は見に行っているから確かである)。

 当然「宇治の橋姫」という言葉にはその橋姫伝説が念頭になければおかしいのではないか、と思うのだが、梅原猛の文章には全く言及がない。そこで引っかかってしまって続きを再度読み始めるためにずいぶんと精神的エネルギーを費やしてしまったのである。

 連想する私がおかしいのかもしれないとひとまず気持を収めた次第である。そうでないとすべてが空しくなる。

 正しいとか正しくないとかとは違う値打ちが梅原猛の本にはあると思うから読み続けられる。今までにない発想で、誰も言ったことのない切り口でさまざまなことに論を立てる。それは刺激的で挑発的である。鵜呑みにして間違うのはこちらが悪いのである。その刺激こそ新しいものの見方を鍛えてくれる。これは私にとっての先達なのである。

 ここまででこの本の出だし数十頁である。このあと芭蕉論、そして芭蕉をあまり評価しない正岡子規の写生論や王朝女流文学や女流日記について、吉田兼好論、能について、そして日本人の美意識や宗教論が展開されていくのだが、それを一つひとつ語っていくと果てしがないのでここまでとする。

 最後に、梅原猛の文章に出会ったのは、高校の時の国語の教科書で、謡曲(つまり能である)の『隅田川』について書かれたものである。私が古典に少しだけ興味をわかせるきっかけになった。この本では死霊のドラマ『能芸論』として『井筒』という能が詳しく語られていて、興味深かった。

2017年12月27日 (水)

(続)梅原猛『古典の発見』(講談社)

 著者は、日本の古典学は国学の影響を受けてその視点から解釈しすぎていると問題点を提起する。そうなのかそうでないのかは私には分からない。分からないときはとりあえず著者の主張を受け入れて、その思考に沿って読み進める。

 国学の根本思想とは何か。ある意味では日本のルネッサンス的思考ではないか(ルネッサンスについて語るには私には知識がないのが哀しい)。元々古代日本は固有のおおらかで明るい文化を保有していたのに、仏教や儒教の浸透により、おおきく影響を受けて歪められてしまったと国学者たちは主張した。だからその影響のない万葉集を称揚したのである。彼らにとって万葉集はおおらかで明るい世界を描いた歌集であり、古事記や日本書紀にたいしても同様の評価をする。平安時代以降の仏教文化、中国からの儒教の影響を一度取り除いて本来の日本の文化を取り戻そうというのだ。

 ここからは私の連想。それが攘夷や勤王に繋がり、倒幕の思想的原動力になった。明治に入っての廃仏毀釈などもその流れであろうか。国粋的な神道的思想はこの流れから生じたのか。

 本に戻る。その万葉集についてまず著者の異説が語られる。大伴家持の屈折した心境や立場を反映した万葉集は、必ずしもおおらかで明るい歌集などではないと主張する。その論拠が縷々述べられる。もちろん彼がのちに詳しく論じる柿本人麻呂について(『水底の歌』にまとめられている)も言及する。万葉集と言ってもとりあげられた歌のいくつかに見覚えがある、という程度の知識なので、ただそうなのかと思うばかりである。

 『水底の歌』については若いときに通読したが、さっぱり感興を覚えなかった。まだ処分せずに残してあるはずなので機会があれば読み直してみようか。

 ここでおもしろいのは、通説をまず直感で否定して見せ、その自分の説の裏付けとなりそうな部分を呈示してみせるという手法だ。それが何を選び、何を選ばなかったか分からない当方は、疑問を抱きようも無い。恐らく反論も山ほどあったに違いないが、それを撥ねのける強さに感心するばかりである。ずいぶん学界を怒らせているだろうが、歯牙にもかけないのが梅原猛という人である。ある意味で痛快なのだ。

 日本の古典研究の学者の多くが国学的思想の呪縛から逃れていないと見るのが梅原猛なのである。しからばそれを内省して、そんな呪縛などないと自信を持って反論した学者がどれほどいるのだろうか。

 私の直感では、梅原猛も解釈が自由すぎてしばしば暴走したり間違ったりしていると思う。たぶん反論する学者達は、その点ばかりを追求するから根本的なものを見逃して、自らをレベルアップする機会を失っているのかもしれない。面白いことをいうなあ、と一度受け入れた人がどれほどいただろうか。難しいだろうなあと思う。

 私でも首をかしげた梅原流藤原定家論については次回。

初雪

 早めに就寝したら三時過ぎに目覚めてしまい、そのまま起き出してごそごそしている。名古屋は朝方雪の予報で、起きてすぐは降っていなかったが、六時前のいまあらためて外を見たら白いものが静かに降っている。マンションの中庭の小さな池の周りのサツキの生け垣がもう白くなっている。今シーズンは、風花らしい白いものは見たけれど、雪らしい雪を見たのは初めてだ。

 学生時代雪の中で暮らして飽きるほど雪を見たし、定年前の五年以上を金沢で暮らして雪を見て来たのに、千葉県生まれでほとんど雪を見ずに育ったせいか、いまだに雪を見るとわくわくする。

 早めに目覚めたのはこの雪を見たい気持ちのせいもある。いくつになっても子どもの時と同じで我ながらほほえましい気がしている。昨日出かける用事を済ませたので、今日は一日家でじっとしていることにしようか。

2017年12月26日 (火)

暴力への閾(しきい)

 他人を傷つけたり、ましてや殺害するなどということは思いも及ばぬことだ。怒りに我を忘れて手を上げることがないとはいえないが、相手を傷つけかねないと思えばそこで我に返る。人には強く刷り込まれた暴力に対する歯止めがあるはずだと思いたい。

 ところが世の中には暴力で他人を傷つけたり殺したりする事件が後を絶たないのはどうしたことかと思う。

 そう思いながら、復讐譚や仇討ち話の類は嫌いではない。復讐や仇討ちなどで、暴力が正当化されると考えるのはなぜだろう。心の底には暴力衝動というのが本能として居座っていて、理由があれば歯止めが簡単に乗り越えられてしまうものなのだろうか。

  子どもが殺される。大人が子どもを殺す。およそ考えられない鬼畜の仕業だが、犯人はしつけをしたのだと言い訳する。怒りにまかせて殺そうとして殺したのか、本当にしつけをしようとしてエスカレートしたのか、心の中を覗けるわけではないから分からない。恐らく本人にも分からないかも知れない。

 歯止めのゆるい人間がいることは恐ろしいことだ。いくら厳罰を用意しても、彼らには歯止めを乗り越える正当な理由があると確信しているらしく見える。

 人は事件を起こしてからでしか裁かれない。明らかに事件を起こしそうでも、それを理由に拘束することは出来ない。当たり前でありながら内心では理不尽に感じられてしまう。そういう人間が野放しのままで、事件を起こす。

 そうなると運不運と考えるしかないのか。ただただそのような不運に出会わないための感性を磨くしかないのかと思う。しばしば不運に遭う人はその感性が働かないことがありはしないか。もちろん理不尽は世の常で、注意しても避けられない災厄はあるのを承知で暴論を言う。では子どもにどう災厄を避けるようにさせられるのか。そんなことは出来はしない。だから子殺しは罪が重い。

 「丸ちゃん」のブログのちかよさんが、子殺しの事件を嘆いているのを見て、同感するとともに、事件に対して哀しみとも怒りともつかないものを覚えた。

 子殺しについては『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンが神などいない、なぜなら神がいるなら子殺しを許すはずはないからだ、と無神論の根拠を滔々と語る。同感である。

梅原猛『古典の発見』(講談社)

 古典は発見するものか?なるほど個人一人一人が発見するものかも知れない。普通の日本人なら、出会いは教育の中で与えられているのである。しかし古典を発見するのは自分であろう。「発見」とは、誰もに見えていながら見過ごされていたものを、もう一段高いレベルで見ることで、つまり真に見る目によって見つけることを言うのだろう。

 見ようと思わなければ見えないものがある。世のなかにはそのようなものがたくさんある。はたしてそれにいくつ気がつけるだろうか。でもひとつでもそれに気がつくと、もっとたくさんあることを識る。それには先達の助けが必要である。

  先達とは何か、すでに知る人である。なおかつ、いまだ知らぬ人を知る人にすることの出来る人である。ただ知識を情報として蓄えているだけの人は先達とはいえない。だからコンピューターはいくら情報を山ほど持とうと先達にはなれない。

 しばしば先達は先達であることを自覚しない。それでいいのである。知らぬ人が先達を先達として頼り、その助けで知る人になったとき、新たに知る人にとって助けを得た人が先達なのである。

 ややこしいことを書いたが、これは内田樹師の受け売りである。

 こうして人は「発見」する。発見することで知る。そのことを梅原猛師は語っているのである。さてこの本は日本の古典についての話である。すでに膨大な研究が重ねられ、解釈がなされてきた古典について、梅原猛師はしばしば異説を唱える。それは直感によるもので、固定観念を覆すものが多い。確かに古典の研究についての学術分野はずいぶんと権威主義的な世界だと言われている。

 えらい先生がこうだと決めつけると、異説をとなえると学界からつまはじきさせられるという話は繰り返し聞かされてきた。もちろん異説が正しいとは限らないが、異説を検証すらしないという世界は学問とは言えない。とはいえ確かに古典は検証が難しい学問なのかもしれないが。

 谷沢永一翁などは、ある教授の一派が監修した古典全集など読むに値しないとまで喝破していたが、それを読み比べておかしなものを避けるだけの知識が当方に無いのは悲しい。せいぜいそういう人たちの意見を参考にして無駄を避けるようにするしかない。

 さて、いつまでたっても肝心のこの本の話に至らない。その話は次回に。

クリぼっち

 クリスマスに一人だけで過ごすのは、私にとって長年のことなので特に感慨はない。逆に誰かと心通わせて夜を過ごしたりしたら、その後そうでないことがとても寂しいものと感じられるかもしれない。残念ながらと言うか、さいわいと言うか、そういうことがないから格別の思いはないのである。

 だからとりたてて特別な料理は作らなかった。イヴは旅から帰ったばかりだったからあり合わせの総菜のみ、昨日はおでんを大量に作り、それで一献傾けた。大根やこんにゃくに味がしみて美味しくなるのは今日あたりからだ。明日くらいまでは食べ続けることになるだろう。

  ただ、テレビをつけっぱなしにしていると、無意味な馬鹿笑いが画面に映し出されて無性に腹が立ってくる。とはいえ、大阪だったか、神社で笑う行事で20分間笑う、などというのを見ていて腹を立てたりはしない。なるほどこう言うのもありかと思うばかりである。

 人はおかしいから笑い、悲しいから涙を流すが、人が笑っているのを見るから笑ったり、人の涙を見て涙が出たりするものだ。あくびがうつるのに似て、笑いや涙もうつると思う。しかしテレビの馬鹿笑いはうつったりしない。その笑いにあまりにも嘘くささを感じてしまうからだ。その笑いに卑屈さを嗅ぎ取るのは私の感覚がおかしいからなのだろう。うつらない笑いは空虚と言うより人の気力を奪う呪いである。

 そこまで言うことはないのだろうが、クリぼっちの中で頑固爺は無意味さには耐えられずに腹を立てている。バカじゃないか。

2017年12月25日 (月)

貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国-原始・殷周・春秋戦国』(講談社学術文庫)

 あとがきにも記されているが、1974年に全十巻で刊行された『中国の歴史』の第一巻を独立した本として学術文庫に収録するにあたり、すでに物故(1987年死去)している貝塚茂樹の代わりに伊藤道治が新しく追加されている歴史的な史実などを追加補筆した本である。だから1990年代の知見が加えられている。

 貝塚茂樹は京都学派の歴史学者で、あのノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の兄である。父親も兄弟も錚々たる学者ばかりの一家で、生まれつき頭のデキの善し悪しというのはあるものだと思い知らされる。

 蛇足ながら、同名の貝塚茂樹という教育勅語を称揚するいささか時代錯誤で右ネジの学者もいるが全くの別人である。

 中国の歴史の本を何種類持っているだろうか。何種類読んでも何遍読んでも頭に入らないのは悲しいが、不思議なことに毎回おもしろく読めてしまうのである。これが西洋史だったりしたら数頁でさじを投げる。書かれていることはただの文字でしかなく、イメージが全く浮かばないのである。日本の歴史ならいささかマシだが、おもしろいと思えない。

 中国人ではないのに中国の歴史がおもしろいというのはどういうわけか分からない。繰り返し読んでいるうちになじんだのだろう。とりわけ古代史は好きである。特に春秋戦国時代がおもしろい。この時代に人間の社会的行動や精神活動の原型がすべてつくされている気がしている。ここをとことん読めば世界の理が分かると言っても過言ではないと思っている。

 ただ、この本では歴史以前の考古学的な部分も詳細に書かれていて、さすがにその部分は読み進むのに骨が折れた。しかし人間が社会的な行動を始めた頃の話であって想像力を刺激しないことはない。

 読了までに一ヶ月以上かかってしまった。今回の温泉三昧の中で一気に読み終えることが出来たのは幸いであった。春秋戦国時代についてはなんとなくこのザル頭にもイメージが刷り込まれており、とてもなじみ深くなっているのである。この面白さ、分かるひとには分かるはずだが、興味のない人にはこんなものを面白がるのはおかしなやつにみえるだろうと思う。

身から出た錆

 しばしば自分を浅学非才であると自嘲しているけれど、内心ではもう少しのところで人並みではないかと自負していた。しかしこのごろ本当に心の底から自分がとても人並みどころではないこと、不勉強であったことを実感してへこんでいる。

 へこんでいるのは、勉強できなかったのはしなかったからで、しなかったのはしても分からなかったからで、つまり自分が勉強する能力に欠けていること、人より劣っていることに気が付いてしまったからである。

 私は高校時代、現代国語と漢文の授業が好きだった。理解できていたかどうかは別にしておもしろいと思っていた。しかしながら古文は全く駄目で、英語よりちんぷんかんぷんであった。原因は古文の教師にあると確信していた。猫背で薄毛で暗い表情の先生で、ぼそぼそと話すので良く聞き取れない。ときどきにたりと笑う。その古文の文章の素晴らしさに感激しているらしいのだが、意味が分からないこちらは共感できないから気味が悪いばかりだ。

 古文はいつも赤点であった。理解できず興味もないから勉強もせず、だから当然である。あれほど嫌いな教科はなかった。それが敬慕する森本哲郎師を始め、幾多の私淑する人たちに古典の素晴らしさを教わったらなんとなく興味が持てるようになった。

 今回、梅原猛『古典の発見』という本を読んで、彼の独特の、というよりほとんど直感による暴走の奇説を数々読んでいるうちに、ああさすがにこれはおかしいのではないか、と感じるものがあったのだが、何しろ不勉強だからそれをきっちりと認識できない。こちらも直感でおかしいと思うだけである。

 おかしいから駄本かと言えば、専門家にとってはそうでも、私にとっては素晴らしい本でもあるのだ。古典はこんなに好奇心を刺激するおもしろいものだと言うことを感じさせてくれる本だからだ。おかしいと思えばしっかりと原典を理解すればそれを指摘できるはずなのである。

 しかししっかりと勉強し直す時間がすでにない。古典だけを勉強すれば少しは霧が晴れるだろうが、なにしろ気が多いので、古典に割ける時間は限られている。初めて古典に触れて以来、学ぶ機会は山ほどあったのにそれを怠ってきた。

 いま、古典が苦手だったのは教師のせいばかりでないことに気がついて忸怩たる思いでいるのである。もう一歩踏み込めばそこにすてきな世界への入り口があったのにそれを見逃していたのは自分のなまけ心のせいであり、いまそれを悔いることになっているのはまさに身から出た錆なのである。

 そもそも私は本当に学んだことなどあったのだろうか。

2017年12月24日 (日)

無事到着

鳴子温泉から自宅まで約800キロ、いつもよりもこまめに休憩を取りながら一気に走る。


東北道から北関東道、そして信越道から長野道、さらに中央道というコース。日曜日なのでトラックが少ない。さいわい雨には出会わず、快適に走れた。

9時間ほどかけて先程無事到着。さすがにいささか疲れた。

本日は軽い夕食で早めに休むことにする。

雄途帰る

ほとんどどこにも遠出せずに湯につかる日々の四泊五日を終え、本日雄途帰る。途中で一泊か二泊することも考えたが、自分なりのリセットは済んだので、けじめをつけて日常にもどることにした。


今回の旅で読んだ本三冊、梅原猛『古典の発見』、貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』、池内紀『M博士-往来の思想』。どれもすこぶる読みごたえのある本で、読了できたことに満足感がある。読みかけとなった本、横山宏章『孫文と陳独秀』、誉田哲也『ノーマンズランド』。暮れまでに読み終えるだろうか。

その他にも数冊持参したが、手つかず。

あと一週間の年末は家の中の大掃除に注力することとしよう。子どもたちが来るからその迎えの準備である。なんとなく帰るのが楽しくなってきた。

せいぜい運転に注意して、休憩をこまめに取ろうと思う。土産は買わない。リフレッシュした自分が自分への土産である。


 昨日葉室麟が亡くなったというニュースを見た。彼の本を愛読してきた。出版された本はほとんど持っている。買って未読の本が二冊ほど。彼の新しい本はもう読めないことが悲しい。残念である。

 心から冥福を祈る。九州を拠点に50歳を過ぎて本格的な作家活動に入った人である。それにしても66歳は早すぎる、短かすぎる。書きたいことのどれだけ書けたのだろうか。

2017年12月23日 (土)

散歩(3)

鳴子温泉神社に向かう。

鳴子温泉郷には何度も来ているが、東側から、川渡(かわたび)温泉、東鳴子温泉、中山平温泉などにも行くので、鳴子温泉そのものにはまた数回しか泊まっていない。前回泊まった鳴子観光ホテルの先の高台に鳴子温泉神社があることは承知していたが、今回初めて立ち寄った。
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温泉神社入り口。神社はさらに階段を登った先の高台にある。
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啼子之碑とあるが、これが鳴子の古名だろうか。
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こんな雪の階段を登る。滑り止めのある防寒靴に履き替えていないので、滑りそうで恐ろしい。
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高台の開けた場所に温泉神社があった。思ったより立派である。
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社殿。

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狛犬も雪をかぶったまま。

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階(きざはし)の下に大きなこけしが置かれている。鳴子ならではだろう。

あの階段を降りるのはこわいので、別の道から降りたがそこも凍っていておっかなびっくりだった。一汗かいて散歩を終え、宿に帰り風呂に入る。

昨晩も、つまりこれで三晩続けて客は私一人である。まさか今日も一人だろうか。明日は帰る。心身のリセットは完了していて、今まで読めなかった読みにくい本がなんとなく放り出さずに読めている。これは調子の良い証左である。

ただ酒も美味くてビールや酎ハイを飲み、地酒を飲みして酒量が増えている。明日から少し控えよう。

さて、明日は一気に帰るかどこかで立ち寄るか。何しろ自宅まで800キロ以上あるのだ。

池内紀『M博士-往来の思想』(青土社)

 多少知識を持つと人にひけらかしたくなる。小金を持つといかにもの恰好をする者に似て本物の金持ちでないことが見え見えであるように、小賢しさが見透かされてしまう。


 この本は「私」と古書店の主人であるM氏の知の掛け合いである。知識は情報に似ているが、養老孟司師がいうように情報は死んだもので、知識は掛け合いでネオンサインのように色めき立ち、きらめくものである。生きているのである。

 膨大な本を読み、その本について思索してきた「私」とM氏は、本とそれについての思索の蓄積という峰の上に立っている。当然立っている峰は違う(ことになっている)。

 本をただ読んできた私などは本をただ積み上げた上にアクロバチックに立っているだけで、ちょいと突かれればたちまち崩れ去るばかり。

 そんな比喩を語るのは、「私」とM氏がペダンチックではないといいたいからである。ペダンチックを衒学的といったりするけれど、それは知ったかぶりとはまるで違うものであること、知識があふれてあふれ出しているものだが、しかしそこには知識が堆積して峰をなすほどでなければ、ペダンチックと指さされてしまう。

 まことに世の中にははるかにレベルの高い知識人というものがいる。

 人生を生き直したいなどと全く思わないけれど、どうしても生き直させられるのなら、この本で論じられているような本や思想をなぞりたいものだと思わないことはない。

 もちろん「私」とM氏は著者の池内紀自身である。だから二人の会話は時に不分明である。どちらがどちらの言葉か、書き分けられているのではあるが、読み手がお粗末だから混乱する。結果的にはどちらでもいいのだが。

 1985年に出版されたこの本を一度は読んだはずなのに、ほとんど覚えていない。これほどおもしろい本だと思った記憶はない。ただ、面白はずなのに、と読み切れなかったうらみだけが残っている。

 今回読んで身震いするほどおもしろいと感じたけれど、ではどこまで分かったかといえば、まことに心許ない。  

2017年12月22日 (金)

散歩(2)

宿から鳴子駅まで歩いている。


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陸羽東線の下をくぐる。

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温泉街の中心ではないが、昼下がりの温泉街なのにこの閑散具合。土日は少しは賑わうのだろうか。

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今朝夢を見たからではないが、ちょっと夜に寄りたくなる。

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交差点から右へ折れて駅へ下る。車道と歩道のしきりに大きなこけしが立っている。

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鳴子駅。シーズンではないせいか人がいない。

ここから大きなホテル街へ登り坂になっている。その先の鳴子温泉神社が今回の散歩の目的地。

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この鳴子観光ホテルには以前泊まった。値段は私には少々贅沢だが、仲居の若いおねえさんは可愛いし、料理も素晴らしい。ただ、大きなホテルは風呂場が遠いし、食事に行くのも面倒なのである。このホテルを通り過ぎた高台に温泉神社があるのだが、それは次回。

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これは宿に近い方の閉鎖されているホテル。いくら立派なホテルがあっても、近くにこのようなつぶれた宿があると温泉全体がみすぼらしい感じになってしまう。

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廃屋の破れた窓の向こうに誰かがいるような気配はイヤなものである。

祖父母の夢

 あけがた、祖父母の出てくる夢を見た。父方の祖父母は私が生まれるだいぶ前、戦時中に死んでいるので知らない。私にとっての祖父母は母方である。明治生まれで厳格を絵に描いたような二人だったが、私が孫筆頭であったせいか可愛がられた。


 もちろん私にも厳しい。両親よりも祖父母に受けたしつけの方が多い。人には相性があるらしく、いくら厳しくされても私は平気だったが、私の弟などは恐がっていた。

 その祖父母の家にいる夢を見た。もう大人の私である。祖父場はもう死んで30年以上になるが、昔のままの祖父母がいる。家がなんとなく薄暗い。昔の人の電気をだいじにすることはたいへんなもので、むやみに煌々と灯りを明るくしたりしないのだ。そういえば母も電気にうるさかった。少しでも無駄に電気がついていることを極端に嫌った。電源タップのスイッチを示すオレンジの小さなライトすら気にした。金銭的なことではないのだ。母は金にあまりこだわらない。

 だから祖父母の家は薄暗い。

 その祖父母の家に私の知らない客が来ている。大事な客らしい。客が帰るというので私が車で送ることになった。そこからが悪夢の始まりである。

 ちょっと離れた駐車場に車を取りに行き、車を走らせ始めるとあたりはまったく見知らぬ場所で、走っている道路も車が走る人がほとんど無理な細いデコボコ道である。苦労して分かる場所に出ようと走りに走るがますますどこにいるのか分からない。

 ようやく心当たりがあるような、しかし見知らぬ駅の前に出た。でもそこからどこへ行けばいいのか分からない。途方に暮れて車を停めて呆然としていると娘が駅から降りてきて、祖父母が待っているのにどうしたのか、と問う。

 電話連絡くらいしなさい、といわれて携帯を渡されるのだが使ったことのないスマホなのでその操作方法が分からない。娘に指示されてようやく祖父母と連絡が取れたところで目が醒めた。

 これで迎えに行かなくて良いのか、とホッとした。

 朝風呂は熱い。45度もある。ほんの少し我慢してはいっていたが耐えられないのであわてて出た。ぬるかったり熱すぎたり、どうも湯温調整が下手くそな宿だ。せめて我慢できる範囲ならいいのにこれでは評判が悪いはずだ。昨晩も私一人。静かであることだけが取り柄の宿だ。

2017年12月21日 (木)

散歩(1)

泊まっている宿は鳴子温泉の東寄り。宿から歩くと鳴子温泉駅まで10分以上かかる。ちょっとだけ散歩した。


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 これは私の車ではないけれど、多少は雪が降ったらしい。

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 なるほど、鳴子町の願いは笑顔のお守り、しあわせになること、らしい。

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 鳴子はこけしの町。

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 鳴子町は、今は大崎市に属する。その大崎市の支所前にこんなこけしの看板があった。平和を愛する人が欲しいそうだ。平和を愛する人たちを集めてどうするのだろうと思ったら、自衛官の募集であった。


弛緩

鳴子温泉にいる。昨夕は雪がちらついていたが、朝見ると積もるようなことはなかったようだ。田畑は雪景色であるが、道路には雪はない。これから数日はずっと晴天らしい。雪に備えてきたが、その装備は不要だった。とは言ってもとにかく今回は体調回復のための温泉療養が目的である。


宿はホテル形式だが和室。部屋は広いし快適である。予約した後で宿の評判を調べたら、あまり評価は高くない。高くないというより低い。値段が安いので仕方がないか。どうも昨晩は私一人だけの宿泊だったようだ。貸し切りである。

「四日間の滞在ですね?」とフロントで聞かれる。フロントといっても主人である。このおじさんが八面六臂で走り回っている。雇い人がいないらしいのである。手が回りかねているから、なんとなく薄汚れてきてしまうのは当然か。だから四泊もこんなところに本当に泊まるのか?と問われた気分になった。「御仕事ですか?」というから「静養だ!」と答えた。

「はあ」と得心したようなしないような顔で主人は頷いた。

五階建てで風呂が最上階の5階にあり、露天風呂はないが風呂はとても広い。鉄分が含まれているのか湯は茶色をおびており、風呂全体が茶色に染まっている。24時間入り放題。

朝風呂で夜明けを見た。「やまぎは ようようしろくたなびきたる」の風情である。

ゼンマイのネジを緩めきるというか、充電の電池を一度放電しつくすという感じか。そうしてメモリー効果を解消し、もう一度充電し直す気分である。だから今回は温泉内の散歩くらいしか外出せずにゴロゴロして暮らす。

旅の報告はだから弛緩したものばかりになる。せわしない師走の時期に論外と思われるかまあそんなのもおもしろいと思われるか。 

2017年12月20日 (水)

 昨晩は弟の家に泊まった。いつものように話が弾んでいつものように酩酊した。弟も来年勇退する。仕事を辞めたら夫婦であちこち旅行したいといい、まず名古屋を拠点にして奥飛騨や北陸などをめぐりたいそうだ。大いに歓迎するつもりだ。


 二戸一の分譲住宅をひとつの家にして両親と暮らしていたが、両親も亡くなったので、両親が暮らしていた部分を、遺産や退職金でリフォームするつもりであり、今見積もりをとっているところだそうだ。そこには私の本がまだたくさん残っている。主なものは既に名古屋へ移動したが、江戸川乱歩全集など、まだ若干のとって置きたい本がある。それを示して、それ以外は処分してもらうことにした。

 私と違って弟はほとんど本を読まない。そのかわりにスポーツが得意で音楽が好きだ。私がいうのも何だが、人当たりが良くイケメンで、若いときから女の子に良くもてる。兄弟でも全く違うのである。

 元々技術屋なのだが、五十歳を過ぎて突然総務の責任者になり、ずいぶん苦労したようだ。冠婚葬祭などでも会社を代表してでることが多いから、土日に連続して出かけなければならないのが当たり前の仕事である。それでも愚痴ひとついわず真面目にこなしていた。会社は案外人を見る眼があったのかもしれない。

 私が定年後自由に暮らしているのを見てうらやましがっていたけれど、彼ももう少しである。しかし私ほど多趣味ではないから、ひとりで暇でいることにすぐに飽きてしまうと思う。さいわい夫婦仲はとても良いし、子どもたちや孫たちも頻繁に出入りして家族仲はいい。そう言う意味では絵に描いたようにしあわせな男なのである。

 だから兄である私は弟を頼りにしている。両親の面倒も弟夫婦にすべて任せてしまった。本当にありがたいことだと思っている。これから少しでもお返しする機会があれば、私にとっても嬉しいことなのである。

2017年12月19日 (火)

梅原猛『自然と人生』(文藝春秋)

 この本は、1993年7月から1994年12月まで中日新聞に連載されていたコラムをまとめたものである。思うままにと題するコラムをまとめたものの第二巻となる。
 梅原猛という思想家がその間に考えたことをまとめたもので、時代を超えた哲学的な思想もあるし、世相の動きに対しての彼の考えをまとめたものもあっておもしろい。まさに同じ時代に私もさまざまなことを思ったことを思い出すのである。
 あえてその中から、梅原猛が貴乃花について論じている文章が面白いので、ここに抜粋して紹介する。
(前略)
 貴乃花はその言動においていろいろ批判を浴びている。マスコミに対する態度がつっけんどんであり、負けたときは全く答えない。また先場所のように水を口に含んで土俵上で吹きかけたり、足で土俵を蹴るなど、これから横綱をねらう力士にあるまじき行為が多いと批判される。
 二十をいくつも越えていない若者に、完成した人格を要望するのは無理なことであるが、名横綱とされる横綱、たとえば双葉山や栃錦や北の湖などは若くしてそれなりに完成された人格を持っていたと思う。それはなぜか。それは私は、逆説的に聞こえるかもしれないが、相撲界のいじめゆえであると思う。相撲界は旧日本軍隊と同じようないじめの社会であるというのは、人の言う通りであろう。
 いじめというものは、身分社会の積もり積もった怨恨が、自分より身分の低いものに及ぶことである。相撲界ではいじめはもっとも下の番付の新弟子に及び、新弟子は徹底的にいじめられる。特に新弟子がたまたま大学を出ていたり、あるいは金持ちの坊ちゃんだったりすれば、よけいいじめは烈しくなる。
 このいじめを出来るだけ早く免れるには、強くなり、番付がいじめる人間より上になることである。こういう気持で稽古する力士が強くなるが、この烈しいいじめに耐えることは、この世を生きるのに必要な忍耐の徳を養うことになり、またこのいじめをいかに逃れるかといろいろ工夫をめぐらすことは、人間の処世の知恵を磨いてくれる。私は、この相撲界の烈しいいじめが、二十代にしてほぼ完成した人格を持つ横綱というものを作り出す原因ではないかと思っている。
 若田か兄弟は父親が親方である双子山部屋に入門した。部屋そのものは自宅であり、若貴の生活環境には何の変化もない。父親である親方は、兄弟を新弟子として他の新弟子と同じ扱いをしたと言うかもしれないが、他の弟子たちは若田か兄弟を新弟子の一人と見るよりは、親方の息子として見るのである。したがって普通の新弟子になされるいじめが、そこでは行われていないであろう。
 恐らくいじめを受けることなく、両親に庇護されて、相撲だけに専念して若貴兄弟は大関にまで昇進した。これは兄弟のもって生まれた才能と努力の結果であり、甚だ祝福すべきことであるが、しかし彼等はいじめによって人格を形成する機会を失ったのである。つまり彼らは住もう意外のことを考えることなく相撲に専念し、大関にまでなったが、肝心の人生の知恵については甚だ幼いのである。
 貴乃花が宮沢りえに恋したのも、ミーちゃんハーちゃん的な趣味に過ぎず、もう愛の感情がもてなくなったと言って、いっこう悲しそうな顔もせずに別れたのは、たとえ親たちが、貴乃花がそう言うことで、もっとも後くされなく別れることができると考えてそう言わせたとしても、見ている人はそこにあまりに人間の気持ちが分からない幼い若者を感じざるを得ない。
 若貴兄弟は二世力士の特権を利用して、以上に早く大関の地位にたどり着いた。しかしかわいそうに、彼らはいじめられることによって一人前の大人になる機会をもたなかった。その代わり、今マスコミが力士に代わって、徳に欠点が目立つ貴乃花をしきりにいじめているようにみえるが、このいじめをむしろ大人になるために必要なものと考え、もはやいじめが通用しない精神的に強い力士になってほしいと思う。そうすれば自然に横綱という地位は身についてくるのである。
 二十数年前に書かれたこの文章に思うところはいろいろある。それを語り出すときりがないが、各位はどう思われるだろうか。

大前研一『日本の論点2018~19』(プレジデント社)

 大前研一氏のような人は情報網が広いだけではなく視点も高いから、多分見えている世界が普通の人と違うのだろう。個別の論点を語る中に、既にこちらが承知していることも多いけれど、そこに必ずもう一つ新しい知識を得ることができるのは、視点か違うところから解析してくれているからだと思う。

 そしてこのような人たちはすべてを語っているわけではなく、実はさらにもう一段深いレベルの情報を持っているのだが、それは開示することがいまは出来ないと判断しているような気がする。

 実はそこのところこそこちらがもっとも知りたいところなのだが、それは時が来なければ明かされないもののようだ。それを推理推論することこそ知的楽しみであり、自分のレベルアップに繋がると感じているが、さて、非才の身ではいつまでも迷妄から脱することが出来ないのは残念なことである。

 この本では政治、経済、軍事、地政学的な捉え方について多くのテーマに分けて彼の明快な分析が呈示されている。そこから見える来年再来年、そしてそれからの世界や日本はどうなるのか、大前研一氏の見立て通りになるかはたまた予想外の展開が見られるのか。

 毎年年越し前にこのタイプの本が書店に並ぶので、おもしろそうなものをピックアップして楽しむことにしている。既に長谷川慶太郎翁のご託宣は拝読した。次は誰のものを読むことにしようか。

 世界がどうなるのか、気にかかるけれど多分に他人事である。申し訳ないことである。何しろ力も影響力もなにもないことであるから致し方ない。万が一間違ってそのような立場を与えるといわれても要らないけど。こちらは高みの見物が趣味なのである。

 この本の最後の40頁はいらない。ご趣味の自慢だが、当方には不要であった。つい読んだが時間の無駄になった。

2017年12月18日 (月)

案の定

 定期検診の結果は血中糖度、ヘモグロビンA1c、肝臓のγ-gtp、血圧、すべてが基準値を超えて高かった。当然といえば当然の結果である。「どうしましたか」とやや目尻を上げて美人の女医さんはこちらを見た。この二月あまりの不摂生と体調不良の話をした。「原因を自覚しているのですね」、もちろん「はい」と答えた。にっこりしながら「次にはもとのように正常値になっていることを期待しても好いですね?」と問われれば「はい」と答えるしかないではないか。

 ところで血液検査にそれ以外に異常は見られないか質問すると、特に他には気になるものは無いようですね、とのことであり、再び体調不良になったら来院して詳しく検査しましょうとのこと。とりあえず放免である。

 るんるんというわけではないが、帰りの足どりは軽かった。

 年賀状の整理は済んでいる。やっつけ仕事だがとにかく完成させて本日投函。これで気になっていたことの大物の一つが片付いた。旅行会社から郵便が届いている。来春行こうかどうしようか悩んでいた紹興への旅行の案内である。今日届くとはあまりにタイミングがよろしい。早速正式にエントリーをした。3月に決行である。とにかく安いのがありがたい。

 こうなると一気呵成である。明日から東北に湯治に出かけることも決定。調べたらいくつが候補があったので、リーズナブルなところに予約を入れた。いつもの鳴子温泉だ。直接行くのはしんどいので、明日は千葉の弟の所にでも泊めてもらおう。これで上げ膳据え膳温泉三昧で、本をしこたま持っていって読書三昧である。極楽である。世の中忙しいのに罰当たりである。済まないことである。

 それにしてもそうなると家の中はどうなる。片付けはまだ中途半端である。まあ仕方がない。子どもたちはいつ帰ってくるのだろうか。それまでに片付くのだろうか。まあいいか。

 明日は千葉まで走る。

憶測

 憶測とはあて推量、いい加減な推測のことだ。貴乃花親方のあまりに不審な無言の持続に、その理由を考えれば考えるほど世間は憶測をせざるを得ない。

 それにしても貴ノ岩の具合がとても悪い、という貴乃花親方の言葉だけが伝わっている。怪我なら既に治る頃合いなのに具合が悪いというのは、精神的なものかと憶測する。脳に何か障害が出ているのなら診断書を出すこともその説明をすることも問題があるとは思えない。隠す必要は全くないのではないか。

 しかし今回の事件を機に精神疾患になっているのなら、それを隠すということはありうるだろう。しからば貴ノ岩をそこまで追い込んだのは誰か、ということになる。直接的には怪我を負わせた日馬富士だろうが、直後(翌日?)に貴ノ岩は自分の無礼を日馬富士に謝罪した、と伝えられている。しからば今度は日馬富士が怪我を負わせたことを貴ノ岩に謝罪することを許せば、貴ノ岩も精神的な重荷を負わずに済んだのではないかと憶測する。それなしに日馬富士が引退に追い込まれたので、貴ノ岩が自分の責任と感じてしまったのではないか。相撲協会の処分によって日馬富士が引退するのであれば、貴ノ岩はそれを背負わずに済んだはずである。

 憶測憶測とうるさいが、あくまで私の憶測である。貴乃花親方はいま自分の信念を貫こうとして無言でいるわけではないのではないか。貴ノ岩が精神的に不調になったことで、どうしていいか分からなくて途方に暮れているだけなのかもしれない。あくまで私の憶測である。

 それにしてもいつもマフラーを首に巻き、相撲協会の会合でもマフラーをつけたままでふんぞり返っている貴乃花親方の姿に、立派な大人の姿を見ることは私にはできない。見た目がまっとうではない。だれもいわないけど・・・。どうしていいか分からないから無言でいるだけ、見た目と違って精神はまだ子どもなのかもしれない。妄言多謝。

2017年12月17日 (日)

あと一日我慢

 明日が行きつけの病院での定期検診日。いつもは一週間から十日前頃に休酒し、食事の量も減らして減量に努める。そのおかげかどうか知らないが、血液検査その他の数値はこの一年以上ほぼ正常値内である。そんなことをして数値が良くても意味がないではないか、といわれることもあるが、長いこと維持できているのだから結果オーライである。もしそのような検査がなく、節制をしなければ、間違いなく悪化していただろう。

 ところが今回は一週間前に蟹を喰いまくり酒を飲みまくりの大宴会をした上に、そのあと帰ってから娘のどん姫と土産の蟹で酒を飲んだりしているので、実質の休酒や節制がほとんど出来ていない。さて結果はいかが相成るであろうか。体調不良だったこともあり、体重は期せずして既に目標値以下にまで下がっているのは救いである。

 問題なしの結果が出ることを望むけれど、本当は悪い結果が出る方が好いのである。なぜなら多少のことをしても大丈夫なのだ、と気が緩むことで、長期的には体に良くないからだ。どうしましたか、と美人の女医さんに睨まれる方が、自分のためになることは承知していないことはない。

 いろいろの方のブログを拝見していると美味しいものの話がしばしば見られる。甘い物もお酒も両方大好きなのである。いまは特に甘い物の美味しそうな話がつらい。ああシュークリームが食べたい、ぼた餅が食べたい、きな粉餅が食べたい、しゃぶしゃぶが食べたい、酒が飲みたいなどと思いながら、明日の検診日までのあと一日の我慢の長さを感じている。

知らないなりに考える

 不勉強で中東のことはほとんど知らない。読みやすそうな池上彰氏の本その他を読んでも、読んだ尻から書いてあることを忘れて、いまだにどの国がシーア派が優勢かスンニ派が優勢か覚えられない。

 先日BSフジのプライムニュースで、トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都として認め、アメリカ大使館をエルサレムに移転すると表明したことに対する木村太郎氏のユニークな見立てを観た。世界中がトランプ大統領の今回の発表に対して非難囂々であるかのように日本のマスコミは報じているけれど、そう単純に不当なものと見ない方がよいのかもしれない、と教えられた。

 もちろん見方によれは、木村氏の見立ては奇説と見做されるかもしれない。しかし結果的にその見立てに従って中東情勢を見直して今後の推移を見ていくと、案外その見立てが一番妥当だったりしそうな気もする。

 というわけで今朝のNHKの討論番組の中東情勢についての専門家たちの意見を拝見した。さすがに木村太郎氏と同様の意見はない。情勢に詳しすぎて森の中の木だけ見ている人、本人は意識せずに片側だけから見ている人、あまりにも全体図が見えすぎて評論に終始する人などさまざまで、その中に木村太郎氏の意見を補助線として入れてみると案外自分なりの独自の感想が持てた。有難いことである。

 中東情勢に詳しい人から見れば自明かもしれないが、あらためて単純化すれば、中東の緊張状態はイランとサウジアラビアの覇権争いによるものだということである。そして本来利害の反する二つの勢力がかろうじてイスラム圏としてまとまってこれたのは、共通の敵としてのイスラエルの存在で、それをコントロールしてきたのがアメリカだったということだ。

 テロ組織のイスラム国がほぼ壊滅し、アメリカは中東から手を引きつつある。原油価格が上昇しているので、アメリカはシェールオイルやシェールガスが生かせるから原油にそれほどこだわらなくて良くなっているのだろう。しかも電気自動車がこれから急激に普及し始めれば、少なくとも輸送機器用の石油の需要は激減していく。サウジアラビアが石油依存脱却のために必死の対策を打ち出しているのは当然の行動であり、それに対応出来ない中東産油国の将来は危ういだろう。

 サウジアラビアはその政策遂行のためにアメリカやイスラエルと宥和していくしかない。しかもISがなくなり、情勢に変化が生じ、ロシアがイランに肩入れし、アメリカがイランへの宥和から敵対へ舵を切る情勢を見れば、必然的に中東ではイラングループ対サウジアラビアグループとの敵対関係に戻ることになる。

 既にイラン、レバノン、シリアと連続した線状の国々がサウジアラビアと対峙している構図である。だからサウジアラビアはイスラエルやアメリカと一層宥和するだろう。それを見越してのトランプの今回のエルサレム首都承認宣言なのだというのが木村太郎氏の見立てである。それが妄言か否かはこれからの推移を見ていれば分かることである。

 いまトランプに猛反発しているのはイスラム国全体か?もちろんパレスチナは猛反発するのは当然である。しかし中東の全体がそうかどうかは個別に見ないと分からない。エジプトはサウジアラビアやアメリカに組みする動きがあるともいわれる。既にサウジアラビアとエジプトとイスラエルで、パレスチナをなだめるための方策が準備されているともいう。本当に中東というのは伏魔殿でよく分からない。トルコはイランやロシアと擦り寄りながら主導権を握ろうとしているようで、一度は行きたかったトルコがますます遠くなる気がしている。

 蛇足だが、この記事を書いている最中に気になったので、石油の消費量のうちの用途別の割合を見てみた。自動車がEV化することで、どれほどその需要が減るか知るための目安である。それによれば、2013年の世界統計で、民生用35%、輸送用28%、産業用29%。参考のために、1971年は民生用39%、輸送用23%、産業用33%である。

 ちなみに2012年の日本の統計、家庭用14%、業務用20%、運輸用20%、産業用43%であった。家庭用と業務用とあわせたものが世界統計の民生用ということのようだ。輸送用の部分がEV化で減るとみなされるけれど、当然その電気は産業用から供給されるので、石油全体の需要減は思ったほど大きくないのかもしれない。

冥福を祈る

 昨日早坂暁氏が亡くなったという。大動脈瘤破裂、享年88歳。

 『夢千代日記』の脚本家として忘れられない人である。このドラマのシリーズは、一部欠巻があるものの、ほぼすべてコレクションとして大事にしていて、何年かに一度観る。私の宝物である。

 エッセイも二冊ほど読んで彼の世界観や人となりの一端を知って、多少は影響を受けたと思う。

 訃報に接し、冥福を祈った。

2017年12月16日 (土)

ノーショー

 ノーショーとはNo Showで、約束の不履行をいうが、最近は予約の無断キャンセルのことをいう。飲食店などで連絡もなしに予約客が来ないことでの損失は大きい。ちゃんとキャンセルの連絡があれば他の客で埋めることが出来たから書き入れ時などには罪が重いが、たいていそのような客は、咎められても信じられないことに平然としているという。

 しばしばそういう人間ほど一方的にクレームをつけたりする。法的な制裁を受けることもほとんどないから、店側の泣き寝入りである。店の立場を考慮する、という思考回路がないのであろう。相手の立場に立って思考することが出来るのが大人というもので、そういう大人たちによって社会は円滑に廻るものなのだが、そういう未成熟なバカモノが社会に大きな損失を与えている。

 韓国の平昌オリンピックにはさまざまな懸念があるが、北朝鮮とアメリカの軍事行動の勃発の懸念はともかく、このノーショー問題が懸念されているらしい。

 平昌オリンピックのチケットがなかなか売れていないというニュースがしばしば伝えられていた。遠くて不便、宿泊費が高い、寒い、などは冬季オリンピックだから仕方がない面があるが、そもそも韓国では冬季オリンピックの種目についての認知度が低い。スピードスケートやスケートのトラック競技以外はあまり競技選手がいないし、なじみもないのである。

 それなら余程なじむような努力をして盛り上げないといけないのだが、それが不足しているのだろうか、10月時点でチケットは31%しか売れていなかった。このチケットを買った人は自分の意志で買ったであろうから来る可能性が高い。それが11月には一気に53%の販売率となった。これはあまりの売れ行きの鈍さに、地方自治体や民間企業、一部学校に強制的に買い取らせたものらしい。

 つまり自発的ではなく、経費でチケットを買い取らせているわけで、そのチケットはただで配られる可能性が高い。ただでもらったチケットで平昌に行くか行かないか、それは当人の気分次第である。

 そもそも韓国では日本以上にノーショーが当たり前の国だという。自分は行かないから行きたい人に何とかチケットを活かして、という発想がない可能性が高い。

 下手をするとテレビのオリンピックの映像では空席の目立つ観客席が映されることになるかもしれないと主催者は心配しているのである。

 韓国のノーショーの驚くべき話。聖火ランナーに決まった人の一割が当日何の連絡もなしに現れないのだそうだ。そのために予備の人間を手当てしておくのが当たり前になっているという。さらにボランティアにエントリーしているのに当日に何の連絡もなしに来ない人の割合はそれ以上だというから呆れてしまう。

 そういう文化であり民族性なのだ、などという話はこの場合通用しないのではないだろうか。約束を守らなくても平気な人が一割以上いる国、なるほどそうかと誰もが思い当たるであろう。

ジェフリー・ディーヴァー『コフィン・ダンサー(上・下)』(文春文庫)

 訳・池田真紀子。原作も良いが、訳が素晴らしい。

 『ボーン・コレクター』という映画を観た方もおられるだろう。出演はデンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリーなど。その原作がジェフリー・ディーヴァーの同名小説である。映画を観たのが先か小説から読んだのか覚えていないがともに傑作である。原作と映画では登場人物のキャラクターに多少の違いがある。

 ベッド・ディテクティブというミステリーの分野がある。安楽椅子探偵とも呼ばれるが、探偵が犯罪現場に行かずに、もたらされた情報だけで推理する小説である。

 『ボーン・コレクター』も『コフィン・ダンサー』も主人公はリンカーン・ライムという、事故で頸椎を損傷し、首から下が麻痺して動かせない元ニューヨーク市警科学捜査部長で科学捜査の専門家である。寝たきりの状態で事件を推理し、犯人を追い、連続犯罪を阻止していく。

 このリンカーン・ライムを主人公とした小説はシリーズになっている。今回読んだ『コフィン・ダンサー』は『ボーン・コレクター』に次ぐ第二作。とにかく超絶の犯罪者を、それを上回る頭脳で追い立てていくリンカーン・ライムの推理はおもしろいのである。

 もちろん寝たきりでは推理することは出来ても捜査はできない。それをサポートするのがニューヨーク市警の刑事達や、科学捜査班の面々であり、それらの人物が活き活きと動きまわり、危険に遭遇していく。つまり探偵は単独行動が不可能であるから必然的に総合力で捜査が進められ、全体で一つの統一したキャラクターになってもいるのだ。しかもサポートの面々は優秀であり個性的でしかも魅力的である。

 特に片腕として働くアメリア・サックスという美女は大活躍するし魅力的である。映画ではアンジェリーナ・ジョリーが演じていた。彼女の目から語られるリンカーン・ライムは人間的で、弱さも欠点もあり、そこがさらに物語に深みを加える。下半身麻痺であることに悩まぬはずがない。それを押さえ込む超人的な意志を持つライムだが、ときに弱さをさらけ出す。それを見て見ぬ振りをするのが彼をサポートする面々の優しさであり、それに一歩踏み込めるのがサックスなのだ。

 コフィンというのは棺桶のことである。コフィン・ダンサーと呼ばれる暗殺者が今回のターゲットなのだが、正体はまったく不明。しかも手がかりとなるものをまったく残さないばかりか、ときに意図的に残すことで捜査をミスリードする巧妙さを持つ。

 ついに犯人の先手を打ち、罠を用意して待つライムたちだったが・・・。「最大の武器は人を欺くこと」とうそぶく犯人のその言葉こそが絶体絶命のサックスを救う。

 そして暴かれる意外な黒幕。最後の最後まで楽しめる。

2017年12月15日 (金)

祝・船越英一郎

 船越英一郎も松居一代も大嫌いである。しかし一連の騒動では船越英一郎に哀れさを感じた。ほとんどの人がそうだと思いたいが、松居一代に女性の代表としての幻影を見れば違うのかもしれない。人は想像を絶する受け止め方をすることがある。

 何はともあれ船越英一郎は彼を悩ませていた伴侶と縁を切ることに成功したのである。いまは身が軽くなって天にも昇る気持ではないか、などと勝手に想像している。私は理由があっていささかうらやましいのである。

 松居一代はこれからお金を抱いて幸せに生きていくことであろう。お金さえあれば群がる連中が必ずいるから、その人達に囲まれで楽しく生きていけばよろしい。

 しかしこういう結末になるのであれば、どうして船越英一郎が離婚を申し入れたときに受け入れなかったのであろうか。不審である。たびたびの会見で「愛している」などとのたまわっていた気がするが、あれは私の記憶違いか。ニュース映像で無理矢理見せられた本日の会見では「大嫌い」とおっしゃっておられた。大嫌いなら一日も早く別れるのが普通だろうに。ただの嫌がらせだったということなのだろう。

 まあ船越英一郎が嫌いな理由の半分が彼の妻の存在だったから、嫌いさは半減したけれど、多分好きにはならない。彼に感情移入している自分にちょっと自嘲してしまう。どうでもいいけれど。

 ついミーハーな記事ばかり続いてしまった。

太川陽介頑張れ

 昔から太川陽介には好感をもっていた。路線バスの旅があれほど人気があったのは、彼の常識人としてのきまじめさが好意を持たれたからであろうと思う。本当の彼がどういう人間か知らない。私が見た目で勝手に思い込んでいる太川陽介を元に以下の文は書いている。

 どうでもいい人が苛められていても不愉快で痛々しく感じるものである。それが好感をもっている人物が苛められたらいっそうである。彼の妻の藤吉久美子が不倫騒動でマスコミに曝されている。太川陽介の妻であるから太川陽介もさらし者になって、彼が苛められていると私には見えるのである。

 彼は妻を信じると明言している。事実があるなしに関係なく、信じたらその前提で夫婦関係を修復したいと彼なら思うだろう。彼に好感を持つ多くの人々は彼の決意を受け入れ、うまく収まることを望んでいるだろう。何しろ私がそうだから。

 しかしマスコミ(まことにマスゴミである)は引かないだろう。妻を信じていると明言した太川陽介に事実を暴き立てて、何月何日のどこそこでこういう現場が確認されている、そして何月何日には・・・と繰り返し報じるだろう。何しろマスコミは妻を信じる、という太川陽介の言葉は事実を否定された、とマスコミへの挑戦として受け取ることが明白だからだ。事実であるかないかどうでもいいこともあることがマスコミには理解できない。何しろ心がないから。あの強引にマイクを向ける醜い顔を見れば分かるではないか。

 太川陽介は悩むだろう。妻を愛しているが故に怒るのではなく悩むに違いない。どうでもいい妻なら彼女の不倫は自分のプライドだけの問題だが、本当に愛しているなら追い込まれていくだろう。そうして二人が破綻するまでマスコミは騒ぎ立て、ついに離婚すれば正義の快哉を揚げるに違いない。

 男なら太川陽介には悩みを乗り越えて藤吉久美子を守り抜き添い遂げて欲しい。ちょっと無理を望みすぎか。こういう話はたいてい無視するのだが、見ていられないのでエールを送る意味で取りあげた。

韓中外交を妄想的色眼鏡で見る

 韓国の文在寅大統領訪中の様子を韓国のニュース(NHKBSで取りあげたもの)で見ると中国は高圧的に見える。対等の国に対してだとしたらずいぶん礼を失していると思えるが、韓国のニュースではこの事実に対しての韓国民の気持ちまで伝えていなかった。だから感想は私のものである。

 媚中といわれるほど中国に擦り寄った朴槿恵大統領が、突然中国が猛反対していたTHAAD導入に踏み切ったことで、中国側は韓国が中国を裏切ったととらえたのだろう、激しく韓国に対して制裁を加えた。韓国製品の輸入を一部制限したり、韓国への観光旅行を禁止したり、中国の全土に展開していたロッテマートがたち行かなくなるようにしたり、とおよそまともな国のすることとは思えないことを平然と行った。

 尖閣問題を発端に、日本向けのレアメタルを大幅値上げや輸出制限したり、日本人を逮捕拘束したりした。フィリピンに対しては大量のバナナを検疫と称して露骨な輸入制限を行い困らせた。中国のやり方は驚くほど前時代的で、国際法を無視しており不当である。

 朴槿恵大統領は北朝鮮問題を中国が解決してくれることに期待していたのに、案に相違していつまでたっても事態は悪化するばかりであることに業を煮やしたのだろう。今度は日本とアメリカに擦り寄らざるを得なかっただけのことである。

 しかし文在寅大統領は北朝鮮問題を解決しなければならないなどとは思っていないのではないか。それなら経済立て直しだけ考えれば良いのであって、中国に擦り寄り、中国から韓国への観光客をもう一度呼び込み、韓中の貿易を回復させれば国民はその成果を高く評価するであろう。そのために中国に頭を下げようがどうしようが問題ではないと考えているのだろう。

 中国は拝跪する韓国に対して、二度と同じ過ちを繰り返させないためにとことん下に遇して思い知らせようとするだろう。しかし同時に腹の底では韓国は何度でも同じことを繰り返すだろうなあと思っているだろう。それが千年前から大陸に対してずっと朝鮮半島の行ってきた行動なのだから。

 思えば哀れなことだが、韓中が融和することで出来る韓米の隙間を北朝鮮はじっと見つめているだろう。アメリカは不愉快だからといって韓国にきついことをいえばますます韓国を中国に追いやることになる。

 文在寅大統領の半島問題の理想的解決案は、中国による金正恩の単独排除と体制維持、そして中国主導による半島統一である。そのとき、韓国は北朝鮮の体制の中に組み込まれることはもちろんである。それなら中国は半島に対してクレームをつけることはない。

 アメリカはいつまでアジアに関与するか分からない。時を経るごとに手を引きそうな気配である。アメリカに頼ってもいつか見放されることが明らかなら、韓国国民の安全安心を護る大統領としてはそれを理想と考えるのは当然ではないか。そしてそのことは必ず韓国の国民に分かってもらえるはずだ、と彼は確信しているだろう。

 韓中は同床異夢ではあるものの、案外落としどころがある関係だということにお互い合意していることだろう。

 文在寅大統領の訪中は大成功であると確信する。

 日本は・・・、一体どうなるのだろう。

2017年12月14日 (木)

ようやく来た

 毎年ある酒蔵の新酒会に行く。いわゆる蔵開きである。何十年の間に同行する顔ぶれもおおむね決まっていて、奈良や京都から参加する人もいる。その酒蔵から案内の葉書が来るはずなのに、なかなか来ないのでどうしたのかと心配していたら、ようやく今日届いたのでほっとした。

 酒蔵に何かあったのか(最近はなかなか経営が厳しい酒蔵も多いらしいし)、それともいつもあまりに多量の試飲をするので愛想を尽かされたのか、と心配していたのだが、単に遅れただけのようだ。

 今年はいつもより10日ほど遅かったが、今年の案内によると来年も同様に10日ほど遅い。何か事情があるのだろうか。それにしても何十年も土曜日が恒例だったのに、来年は初めて日曜日に開催される。年々大変な賑わいで場所取りだけでも大変なのだが、来年はさらにエスカレートしそうである。

 まあ何はともあれ開催されるのであれば幸いである。安心して年を越せる。もともとは津島酒造組合の肝いりだったけれど、蔵独自の開催になって久しい。初めて名古屋へ転勤でやって来たときからの参加で、仕事の都合などでどうしても参加できなかったとき以外は皆勤賞である。もう33年になるだろうか。酒蔵では我々は最古参のグループだろう。とにかく来年も飲めると知って安心した。

怨みまたは恨み

 あれもしなければ、これもしなければ、と焦慮を感じながらぼんやりしている。よく考えると、せっせと片付ければどうということのないことばかりなのに、二つ三つ四つと重なるともうどこから手をつけていいか分からなかったり、最初から面倒くさいなあという気持になってしまう。子育てしながら仕事をしていた時代に普通にこなせていたことがなんだかおおごとみたいなものに見えてしまう。

 そうしてたいして忙しくないことを忙しく感じながらぼんやりと暇にしていると(なんだかややこしい)、ついテレビをつけっぱなしで見ることになる。どれもつまらない番組だらけだけれど、映画を集中して観るほどの気力もない(あればやらなければならないことを片付ける)。そうなると見るのはニュースやニュースバラエティばかりになる。

 ボンヤリ頭は「なんだか世の中怨み(恨み)の話が多いなあ」と感じる。

 富岡八幡宮の異常な殺傷事件などその典型だろう。金銭的なことが関わっているというが、あそこまで怨むというのは理解の外である。何しろ死んでも怨み続けるという文書まで残しているのだから。理不尽な怨念であっても、いや理不尽であるほど怨念は強いもので、お祓いをしなければ本当に祟るから恐ろしい。そのとき富岡八幡宮でお祓いしたら霊験はありやなしや、などと暇人は考える。

 韓国は相変わらず日本に対して恨みを言い立てているようである。恨(はん)の国だから、などと民族性を理由にいうけれど、自らのアイデンティティを日本の国に対して恨みを言い立てることで保持しているように見えて、うんざりするとともに難しいお隣さんだなあとため息が出る。そのような人たちの高い支持の元に大統領になった文在寅大統領は元々そのような心性の人らしいから、これからますます嵩にかかる気配である。

 今中国を国賓として訪問中だが、中国でどんな話をするのだろう。仲良くするにはそこにいないものの悪口を言うのが何よりだから、日本の悪口を言い合うのだろうか。THAADの話を問い詰められないためにはそれぐらいしか言うことはないのかもしれない。中国は本音は別にして調子を合わせるだろう。そうでないと国賓に失礼だから。

 相撲の問題も、日馬富士の暴力問題から違うものに変貌してしまったようだ。いったい貴ノ岩はどこに消えたのだろう。なぜ貴乃花親方は何も言わないのだろう。言い分をいえばそれが大々的に取りあげられるのが明らかなのに黙っているのは言えないわけでもあるのではないかと勘ぐってしまう。まさか貴ノ岩が日馬富士の謝罪を受け入れようとしたから腹を立てて監禁したり、暴力をふるってさらに怪我をひどくさせたりしていたりして・・・。そんな憶測を呼ばせてしまうほど不可解な行動だ。それともひとが憶測を語るのをせせら笑うのが趣味なのだろうか。

 これも貴乃花の白鵬を代表するモンゴル相撲力士に対する怨みなのだという専門家の意見が次々に語られている。怨みが根底にあるならこれはかたくなになり、事態の収束は不可能だろう。何しろ怨みは妄想の中で増殖して呪鎮しなければおさまることが出来ないもののようである。古来日本に鎮魂のための神社があるのはそのためであるという。天神社だって受験生のためにあるばかりでなく、そもそもは菅原道真の怨霊を鎮めるために建てられたものだというではないか。

 怨みを怨むほうには理由があっても怨まれる方に身に覚えがないこともあるもので、怨みが飛び交う世界は恐ろしい。

 異常でほとんど理不尽なクレーマーがクレーム相手を怨んでいるように見えるのは、見えているだけではなくて本当に怨んでいるのではないかという話は、考えるとおもしろそうだけれどきりがないので今回はやめておく。あおり運転やテロも、こじつけるとそんな話につなげることが出来るかもしれない。

 怒りが怨みに繋がり、収まらなくなる境目はどこにあるのだろう。ひとにより違うのなら、その違いは何によるのだろう。あの凄まじい怨みのエネルギーは精神のどんなところに潜んでいるのか。

2017年12月13日 (水)

師走モード再点火

 雲南省旅行前後から家の中のものの処分を進めてきた。いちおう第一段階は終了したけれど、とっくに捨てておくべきものを一部捨てただけで、先日の体調不良で中断したに近い。

 気がついたら師走である。例年中途半端に終わっていた大掃除だが、今年はもう少し丁寧にしたいものだと思っていた。体調が回復したので家の中をあらためて見直すと、ここをこうしたい、あれを新しいものに替えたらどれほど快適か、などと思うところが山のようにある。もちろんそれには出費を覚悟しなければならないし、思い通りというわけにはいかない。

 とはいえ、いま新しくして当分快適に暮らせるのなら、その出費は無駄どころか必要なものである。思いつくたびにメモをしている。それらがある程度たまったら予算も考慮して優先順位をつけようかと思っている。そうして少しずつリフレッシュしていけばまさにいまを居心地良く暮らせるのである。何しろ将来を楽しみにいまを我慢する意味がもうないのである。習い性になったそのような「もったいない」はもう考慮しなくても好いのである。

 80を過ぎた老人が、「将来が不安である」などと言うのをテレビで取りあげているのを見ると、何を言っているのだろう、と思う。思う私がおかしいのか、そのような老人に不安を感じさせている社会が悪いのか。多分社会が悪いことになっているのだろうが、それはまだ老人ではない人(何もかも先送りでこれからツケを払わされる人たち)が優先的に感じる感情なのではないか。ことさら老人の言葉を取りあげるのはいかがかと思うのだ。

 そう思うから先日、佐藤愛子の『それでもこの世は悪くなかった』を読んで共感するのである。いろいろなことがあり、つらいこともあったけれど、いまの世なら、そこそこ自分の人生は良かったと老人なら思えるのが普通だと思うが、マスコミはそうではないと言わせたいのか、またはそうではない人を探し出してそう言わせているのか。私の両親など大正生まれだからまさにあの戦争時代に青春を送り、山のように辛惨を舐めたようだが、死ぬ前には「自分の人生は悪くなかった」と思っていたはずだ。そのことに自信がある。兄弟や孫たちもそう確信していることを知っているからだ。  

 本日はガスのメーターの交換にガス会社の委嘱を受けた業者が来る。そのついでに家の中のガス器具などの点検もしてくれる。あまりガスレンジの周辺が汚いのも恥ずかしいので、朝からいままでちょっと丁寧に掃除していた。これも大掃除の一貫のようなものだ。

 歳を取って、めったにしなかった茹でこぼしやふきこぼしをしてしまうことが少しずつ増えている。そうするとレンジ周りの汚れる機会も増える。いまは火を使っているときはレンジから離れないように心がけているが、それでもうっかりすることがある。自分が信じられない思いがするが、それが歳を取るということなのだろう。

 ガスレンジ全体を新しいものにしたいなあ、という思いがある。掃除のしやすいものがあればありがたい。ガスの温風ストーブを使用している。においはないし安全性も高い。瞬時に暖かくなるのもありがたいが、かなり使い込んでいる。これも遠からず交換した方が安全だろう。今日来る業者に相談でもしてみようか。

 いまのところ使えるからずっと使う、というのは楽で好いけれど、それは面倒くさいからそう思っているだけ、ということもある。少し前向きに考えても好いかなと思ったりしている。

2017年12月12日 (火)

初めておせちを注文する

 母が亡くなって正月に実家(実家はもう弟の家である)に行くことがなくなり、私の独り暮らしのマンションが息子や娘の実家になった。だから年末に正月の仕度をするようになった。しかしたいてい自分で料理していたので品数を揃えるのは大変だし、出来不出来もあるし、料理のために席に座り続けることが出来ない。

 そんなときに、いつもは目もくれなかったおせちのチラシ各種を検討してみたら、けっこう若い人が喜びそうなものがたくさん詰めてあって、しかも値打ちのものがあった。札幌グランドホテルの料理長が監修したものだという。

 早速ネット注文してみた。息子はたいてい30日の晩に来るから、30日に配達するよう頼んだが内容は期待通りであろうか。気にいれば毎年の恒例にしよう。あとは自分で作るものを何にするか考えればいいから楽である。だんだん横着になるが、子どもたちは却って喜ぶだろう。

 母が存命ならおせちを注文するなど論外、と言うだろう。暮れのせわしない中で作ったおせちを、子どもたちや孫たちが「美味い美味い」と食べるのを満足そうに見ていた。あれはやはり彼女のしあわせのかたちだったのだろうなあ。世の中が豊かになって楽になることとしあわせは必ずしも相関しないのかもしれないなどと思ったりする。

2017年12月11日 (月)

逆療法奏功

 ギリギリで体調不良を脱し、昨晩は友人達と蟹三昧の大酒宴を楽しむことが出来た。城崎の友人は墓参りするとのことで彼を実家に送ったあと残りの友人達と集合場所だった京都へ戻る。ところがナビが指示したのは西側回りの不可解なルートで、おかげで一時間以上もロスした。ということで帰宅は四時前になってしまった。

 もうしばらく蟹は見たくない(byF君)ほど蟹を食べた(と言いながら今晩も食べるのだが)。城崎の蟹は津居山蟹といい、もちろん松葉蟹であり、越前蟹と同じでまことに美味しい。やはり年々蟹の獲れる量は減りつつあるらしいが、年々高くなるのに逆に蟹を食べに来る観光客は増えているという。だからいまに蟹が本当に食べられなくなってしまうかもしれない。しかし私が心配しても仕方がない。

 城崎温泉は外国人観光客もけっこう来るけれど、最近はさらに急増しているそうだ。共同浴場の混雑した風呂に嬉しそうに浸かっている外国人がたくさんいるという。想像するとなんだかほほえましい。

 体調不良であると昨朝集合場所で言ったので、みなはいつもよりも酒の量が少なくてすむかと思ったらしい。ところが何のことはない。飲み出したら生ビールがいつも以上に旨く感じられ、さらにいつもの蟹に合う香住鶴(地酒)が美味いこと美味いこと。結果的にいつもよりも多く飲んでしまった。宿の人も呆れていたようだ。

 飲み始めたら絶好調となり、談論風発元気いっぱい。あらぬことを口走って暴走したようだが、全員ほとんど酩酊して記憶が定かでない。それで好いのだ。

 朝は朝食を無理に食べて、酒の影響が抜けるまでもう一眠りした。おかげで完全復活。体調不良もどこかへ飛んでいったようだ。

 食べ残しも含めて茹でた蟹と焼いた蟹をお土産にもらう。友人の蟹のカンパもあるので、それを今晩は娘のどん姫と食べるつもりだ。どん姫も一度この蟹喰い会に参加したことがあるのだ。そのときは頬を赤く染めて、一升瓶を抱えてコップ酒を飲む姿を友人達に見られている。大喝采であった。

 仕事の都合で最終電車で帰る、とどん姫から連絡があったので、これから一風呂浴びて一眠りして彼女を待つことにしようと思っている。出石で買った楽々鶴(ささづる・出石の地酒)もあるのだ。

春日武彦『鬱屈精神科医、お祓いを試みる』(太田出版)

 帯に「凄腕の精神科医の魂が暴走したら、もう誰にも止められない。これはもうリノベーションと言うより『どこでもドア』だと思います。開けたら春日先生の脳みその中。」と歌人の種村弘氏が書いている。

 その言葉に影響されてしまったのか、それともその通りなのか、もう分からない。帯を読む前には戻れないからだ。

 あとがきに著者が書いているように、これは小説である。小説ではあるが通常の範疇の小説とはまったく異なる。多くが実話である(とわざわざ著者が書いている)。しかしその実話は彼が見たり感じたりしたことの記憶が元になっていて、それが本当の事実なのかどうかは定かではない。著者自身も検証のしようがない不思議な話であることを認めている。

 実話として語りながらそれは彼自身の記憶であり、つまり彼の頭の中の「記憶」という世界の出来事なのである。書かれていることは外部にあるように見えて、実は彼の内部世界であることに気がつく。いつの間にか取り込まれているのである。

 私は私でありながら著者の内部世界に取り込まれ、そこで彼の眼で記憶を追体験する。他人の心とシンクロし、心の中に潜り込むという夢枕獏の小説世界(サイコダイバーという)があるが、自分の意志ではないのに本を読むことで逆に取り込まれるようにそんな不思議な体験をすることになる。

 警告する。この本は自分自身をちゃんと持っていないと元の自分に戻れないおそれあり。もちろん冗談ですが、そういう不思議な体験が出来ます。臨床精神科医、春日武彦畏るべし!

2017年12月10日 (日)

騒乱罪

 民放テレビは連日延々と相撲の話題を取りあげている。貴乃花親方が何も語らないことを好いことに、コメンテーター達は勝手な憶測を語る。

 嘉風との対戦に負けた後の白鵬の異常な行動にうんざりして、相撲の話はしたくなかったところだが、ちょっと黙っていられなくなった。

 ここまで国を挙げて騒乱させた罪は重い。もちろん騒いでいるのはマスコミであるが、報じるべきニュースを押しのけて相撲ばかりが話題になるのは結果的に相撲界に責任がある。

 しからば騒乱罪を適用して相撲を当分のあいだ興業停止にしたらどうか。そしてマスコミにもその報道をさせないのである。騒乱の原因を作ったものと騒乱しているものと両方を処分するのである。

 もちろんそんな騒乱罪などないから冗談ではあるが、心底うるさくてかなわない。精神的にイライラさせられて不快である。そもそも相撲とはこういうものであるべきだ、という考えが百人いれば百通りあって、それをみなが喚き立てているだけである。それもテレビを観ていると相撲などほとんど見ないし、たいして好きでもない人間ほど勝手なことを言っている。

 相撲協会の考えと、貴乃花親方の考えが明確に提示されればそれをたたき台に出来るのだが、ともに明確ではない。失礼ながら、そもそも相撲取り達はそのように論理的に考えることの苦手な人たちであろう。だからいままでの伝統の積み重ねを基準に問題点があればその都度対処することしか出来ない。

 貴乃花にはあるべき相撲界についてビジョンがあるかの如き言い立てが繰り返し報じられているが、いまのところ一言も発しないから多分そんなものがあるように見せているだけではないか、などと思ってしまう。考えがあれば言葉に出せば良いのに出さないのだから、ないのではなかろうか。 

 白鵬は歯止めがないからやりたい放題で問題であるが、今回の暴力事件の直接の行使者ではない。その白鵬に不満があるから貴乃花親方が意固地になっている、というからややこしいのである。白鵬の問題は白鵬の処分、暴力事件は暴力をふるった日馬富士の処分、相撲協会をないがしろにして意地を張る貴乃花の、役割を適正に行わないことに対しての処分、それぞれを迅速に行えばいいのである。適正な処分なら力士は従うだろう。

 書くまいと思っていたのについ書いてしまった。これではマスコミと一緒である。恥ずかしい。

かい巻き

 かい巻きを知らないひともいるらしい。むかし友人が泊まりに来たときに不思議そうにそれを見て、これは何だ、と訊いたことがある。

 かい巻きは袖付きのかけ布団の一種で、綿入れの大きなものといえばいいだろうか。ただの掛け布団とは違い、襟元をすっぽりおおうので暖かいのである。真冬でも毛布にこのかい巻きを掛け、さらに普通の掛け布団を掛ければ完璧である。

 ずっとかい巻きを使い続けているのは私だけなので、母は私のためにいくつもかい巻きをつくっておいてくれた。ひとつはあまりにぼろぼろなったので処分したが、あと二つ残っている。

 黒いビロードの襟をつけてある。首元の肌触りがいいのである。母なら汚れたら付け替えるのだけれど、私はせいぜい縫い付けがほころびたところを補修するだけであるから、私の匂いが染みこんでいる。子どもたちは小さい頃、ときどきその私の布団に潜り込んで寝た。

 体調不良のときでも、自分の寝汗と体臭を不快に感じながら、なんとなく安らぎいだ心地で母のかい巻きにくるまって寝る。

2017年12月 9日 (土)

いったい何を恐れているのだろうか

 松前小島の避難場所で不法な略奪行為をした北朝鮮の木造船の乗組員をどうして拘束しないのか不審である。明らかに犯罪を行ったと思われ、その取り調べのためには彼らを船から降ろして拘束するのが当然と思うがどうしてそうしないのか。

 彼らを拘束すると函館を狙って北朝鮮からミサイルでも飛んでくると恐れているのだろうか。今のままなら北朝鮮に対して、日本は惰弱だから何をしてもかまわないのだというメッセージを発し続けることになり、北朝鮮のみならず、韓国に対しても、中国に対しても日本は何をやっても何もしてこないと思わせるだけだし、世界中に日本は意気地なしだと表明しているようなものではないのか。

 犯罪行為をしたと思われるものに対しては処罰するのが正当な行為である。それを野放しにすることがどれほど異常なことか、函館の警察署は分かっているのだろうか。それとも政府が何もするな、と止めているのだろうか。

 日本の離れ島にはこのような避難小屋のある場所がたくさんあるに違いない。このままでは第二第三・・・と果てしなく彼らは押し寄せてくるだろう。そのことを日本国民の多くは歯がみしながら感じているだろうと思う。

 今朝書いたものを昼にアップしているので、それまでに北朝鮮の乗組員が拘束されているなら幸いである。



 昼前のニュースで、朝三人の乗船員が逮捕されたのを知った。さすがにこのままではまずいと思ったのだろう。それにしても遅きに失した気がする。

佐藤愛子『それでもこの世は悪くなかった』(文藝新書)

 彼女の本を読んで元気をもらった、という投書がたくさん寄せられるそうである。それに対して誰かを励まそうと思って書いたことなどない、と佐藤愛子はいう。そのとおりであろう。

 彼女の生きざまが語られている。彼女のような生き方を普通の人が出来るかといえば、なかなか難しいだろうけれど、案外いざとなれば誰でも目を瞑ってエイヤッと難局に取り組むことはあるものだ。その結果がどうであれ、自分で立ち向かえば納得出来るものだ。

 テレビを観ていると、世の中は誰かのせいで私はこんな惨めな思いをしている、と云う人であふれているかのようだ。マスコミや野党の政治家はあなたが悪いのではない、政府や大企業が悪いのだ、などと猫なで声で言う。

 だけれど多くの人はそうではないと知っていて、自分の生き方は自分が選んだものであることを弁えている。

 佐藤愛子に力づけられる人は、このように自分を自分として生きていて、いくらお粗末な結果であっても好いではないか、と思わせてもらえるのだろう。佐藤愛子は強い女性であるが、特殊な人ではない。ただ彼女はいろいろな人生の曲がり角で出あった人から受けた一言を支えにする能力に優れている。多分誰もがそのような言葉を受けているけれど、その素晴らしさに気付かずに見過ごしてしまっているのかもしれない。

 彼女が直木賞をもらった『戦いすんで日が暮れて』という本を母が読んで感激して「お前も読め」と渡されて読んだ。何という猛烈なおばさんか、というのがそのときの印象だったが、そのことよりも母がどうしてそこまで感激したのかがずっと気になっていた。

 父は軍隊生活が長く、ときに爆発的に激怒する。口でいうより手の方が早い。日馬富士ではないけれど、かなり強烈に暴力をふるった。私は敏感にその気配を察すると口をつぐむが、母は分かっていて引かずに抗弁する。殴られることもあるし、身をかわして裸足で庭に飛び出して隣家へ逃げ去ることもあった。

 腕力ではかなわないのになぜそこまで怒らせるのか子供心に不思議だったが、母としてはどうしても引き下がれないことがいくつかあったのだと後で分かるようになった。そういう意味ではけっこう強い人だったと思う。

 だから佐藤愛子の本を読み、彼女なりの共感を覚えたのだろう。そんなことをこの本を読んで思いだしていた。母がこの本を読んだらどんなことを言うだろうか。

2017年12月 8日 (金)

養老孟司『遺言』(新潮新書)

 ふだんは語りおろしが多いが、久しぶりに「なんだか本が書きたくなって」この本は著者にとって久方ぶりの書き下ろしだそうである。

 養老孟司の本はまだ一冊も処分せずにいる。一見読みやすいのでスイスイ読んでしまうが、じつはとても深い思索の元に書かれている。じっくり考えるとその意味がよく分からないものが散りばめられていて、もう一度または繰り返し読まないといけない気がしているのだ。彼の思索は年齢とともに深まっているようだ。だから新しいものほど分かりやすい。

 それを手がかりに過去の彼の本を読み直すと多分見逃していたもの、見過ごしていたものに出会える気がする。何十冊かたまっている彼の本を書かれた順番に並べ直し、じっくり読み直す日が来るのを夢見ているが、さてその機会はあるだろうか。

 この本では認識を記号的にとらえる捉え方と、感覚的にとらえる捉え方の違いについて語っている。このことは繰り返し彼がテーマにしていることなのでまことに分かりやすい。そしてそれはすべて脳がしている作業でもあって、そのことの意味を突き詰めると、認識とは何かをとことん追求することになる。

 その過程で得られるいくつかの成果はしばしば驚くべきものである。とことん考えぬくことということがどれほどの豊穣をもたらすのかといまさらながら感心する。分かりにくい言い方で申し訳ない。

 ある人にとってはこんな考えを考えることは無意味であろう。世の中は常に意味を求める。意味のないものは価値がないと信じ込んでいる。意味とは何かということを真剣に考えていると、意味ばかりを問う現代の問題点が顕在化してくる。

 意味を問うことがそのまま損得を問うことと等価であるような現代は、人にとってじつはとても生きにくい時代なのかもしれない。私が無為にあこがれ、損をしないことにこだわらないようにしたいと心がけていることは、その現代に対する反発からなのだ、といえば少し粋がりすぎが。こういう本を読んで、それでいいんだ、と自分に自信をつけている。

まだ不調

 峠を越したとは思うが、まだ体調不良が続いている。昨晩は二度ほど下着を替えた。暖かくしてじっと寝ていると寝汗をかくのだ。しかもなんだか気味の悪い夢も見る。今朝になったらだいぶマシなのだが、夕方になるとまた調子が悪くなる気もする。

 ブログの更新をするためのネタは観た映画や読んだ本がいくつかあるので書けるのだが、何しろパワーが落ちていて集中できない。いまはとにかく体調回復を優先しようと思う。だからこんな駄文で御茶を濁す。

 酒はさすがに控えている。栄養補給にいつもの野菜大量スープを作った。キャベツ丸ごとを四つ割りし、手羽先、マイタケ、人参、玉葱、ジャガイモ、ウインナソーセージ、ネギ、ニンニク、生姜などをほうり込み、コンソメと塩少々だけで沸騰させないように静かにコトコト煮ている。ふだんはこれにセロリを入れるのだが、スーパーになかった。後でスパイスとしてコリアンダーでも振りかけてみようか。

 手羽先がとろとろになればできあがり。大鍋に作ったので、明後日の朝くらいまでは大丈夫。半分くらいになったらポッカレモンとトマトピューレーを入れてイタリアンスープにする。これもけっこういけるのだ。

 この特効薬料理が効くことを願っている。ウー・・・しんどい。

2017年12月 7日 (木)

映画『ブロークン』2012年イギリス

 監督ルーファス・ノリス、出演ティム・ロス、キリアン。マーフィ、エロイーズ・ローレンス、ロリー・キニア、ロバート・エムズ他。

 こういう暗い映画は劇場にかけにくいのかもしれない。日本未公開だが、強烈な印象を残す映画だ。こういう映画が見られるからWOWOWはありがたい。

 隣どおしと向かい家の三軒の家族の中で起きる悲劇を描いている。一見それぞれ普通の家族だが、それぞれに問題を抱えている。そもそも何の問題もない家族というのはあるかもしれないけれど、私にはそれこそ特殊のように思える。

 自分もいろいろ経験をして、問題を抱えていない人の鈍感さと、問題を抱えている人のやさしさを実感している。だから平和で安心安全、などという謳い文句を聞くと腹が立つ。世のなかはそんなに脳天気なものではない。そういう生活のすぐそばに口を開けている暗闇を無理矢理覗き込まされるような映画なのだ。

 主にスカンク(エロイーズ・ローレンス)という名の少女の視点から物語は語られていく。彼女は父(ティム・ロス)と兄との三人暮らし。母がでていっしまったことが家族に重くのしかかっている。スカンクは先天的な糖尿病であり定期的なインシュリンの投与が欠かせない。しかしそのこと以外は彼女は健康で明るく好奇心旺盛な女の子である。

 向かいにはリック(キリアン・マーフィ)という若者とその両親が住んでいる。リックは精神が不安定で自閉症気味だがやさしい。スカンクはリックと普通に接している。

 そのリックの家の隣がオズワルド(ロリー・キニア)という男の家で、娘が三人いる。ここにも母親がいない。この母親は男と一緒に家を出ていったらしい。それからなのか元々なのかオズワルドは粗野で乱暴で疑心暗鬼になっている。娘達が母親の血を継いで淫乱になることを恐れているのだが、オズワルドが締め付けるほど娘達はそれに反発して無軌道になっていく。

 少女スカンクの目の前で、突然オズワルドがリックに襲いかかり、殴る蹴るの激しい暴行をする。警察に逮捕され、彼の弁護をスカンクの父親の弁護士のアーチーが引き受けてことはおさまる。オズワルドの主張は、長女がリックと関係したからだというものだ。

 この長女というのが凄まじい淫婦で、誰彼かまわず関係を持っている。スカンクの兄も実はそのひとりであることを後でスカンクは知ることになる。そのことをオズワルドはまったく知らない。しかもこの長女が唯一関係を持たないとしたらリックであることは誰にも明白なのに、オズワルドに問い詰められて長女はリックの名前を出したのである。

 リックはオズワルドにおびえ、次第に部屋にひきこもるようになってしまう。リックは次第に妄想の世界に引き込まれて現実を見うしなっていく。

 オズワルドの娘の三姉妹の一番下の娘とスカンクは同級生である。その一番下の娘は小柄で力もないのだが凄まじい姉二人を後ろ盾にスカンクや級友達から金を恐喝している。級友の窮地についにスカンクはその恐喝娘に反撃する。しかしその代償は恐喝娘の姉の報復だった。既にオズワルドの家庭は崩壊しているのである。淫乱娘は誰の子とも分からない子を妊娠して途方に暮れる。途方に暮れるほど自暴自棄になるというのがこのような人物の典型的な行動だ。

 リックの人格は崩壊し、謝って父親を刺して精神病院に収容される。淫乱娘は妊娠しているのに無理をしたことが原因で死んでしまう。オズワルドは娘達の暴走が自分にも原因があることに薄々気がついている。さすがのオズワルドもおとなしくなる。

 やがてリックが病院の治療の功があって退院してくる。しかしそこにはオズワルドがいる。彼にはオズワルドは恐怖の対象でしかない。リックは再び妄想の世界に落ちこみ、悲劇が起こる。そしてその悲劇に少女スカンクが巻き込まれ・・・。

 憎しみと暴力がどんどん増幅したらどうなってしまうのか、ひとつのきっかけで家族関係や隣人関係が崩壊していくことをこれでもかとばかりに見せられる。そしてそれは現実にいつでも起こりえることなのだということを思い知らされる。

 ラストにわずかの救いがある。現実もそんなものだろう。

不調

 なんとなくだるい。腰や背中に鈍痛がある。節々もギシギシいっている。典型的に熱のあるときの症状なのに平熱である。もっとも不調なのは泌尿器系である。尿がスムーズに出ない。

 以前泌尿器系の炎症で高熱を発し、病院に駆けこんだことがある。そのときは本当にほとんど排尿できなくなった。炎症で尿の排路がふさがれてしまったからだ。炎症を起こしているから高熱を発したのである。このときは抗生物質の投与で事なきを得た。

 今回は熱を発していないので、炎症はあってもひどくないのであろう。水分を余分目に摂りながらおとなしくしている。とはいっても雑用は常に次々にあるもので、寝ているわけにも行かない。

 インフルエンザが流行し始めていると言うが、独り暮らしで他人との接触は極めて少ないし、人混みにも出かけていない。しからば誰かからの感染ではなく、自分自身の体調の問題であろう。

 日曜日には友人達と城崎に行く。この時期の城崎である。もちろん蟹を食べに行くのだ。親友が城崎生まれであり、むかしは数年に一度の蟹三昧をしていたが、最近は毎年恒例になった。そのときまでには完調にならなければと心に期しながら暖かくして
じっとしている。

2017年12月 6日 (水)

呉智英『真実の名古屋論 トンデモ名古屋論を撃つ』(ベスト新書)

 転勤で名古屋に暮らすようになってから丸33年以上経った。思えば現在までの人生の後半半分を名古屋で暮らしたのであり、多分ここが終の棲家になるだろう。厳密に言うと境界の新川を越えているので名古屋市域とはほんの少し外れていて名古屋市民ではないが、名古屋駅まで名鉄の普通電車で20分足らずなので、名古屋人みたいな顔をしている。
 
 私の限られた経験でいえば名古屋はいいところである。暮らし易い、住人はぎすぎすせずフレンドリーである。隣人と疎遠になりやすいマンションに暮らしていてさえそう思う。

 その名古屋を揶揄するような言説が巷に氾濫していて、全くの妄説とまではいわないが、いささか不満であった。そのような言説は元々あったものではなく、犯人がいるのだ、と主張するのがこの本である。いわゆるトンデモ名古屋論を振りまいている犯人の無知と間違いをとことんこき下ろし、罵倒したのである。いつものように呉智英先生、暴走気味でいささか過剰でもあるが、痛快でないこともない。

 名古屋人は云々という言説に対して私はそれほど神経質に不快を感じない。まあそういえばそうかな、というところもあり、しかしそれは別に名古屋人に限ったことでもないだろう、というぐらいに感じてきた。

 著者の呉智英はくれともふさと読む。若い頃からそのユニークな主張をおもしろく読んできたので彼の本はたくさんあった。あった、というのは今回ほとんど処分してしまったからである。博識でその知識を以て相手をとことんこき下ろす、というやや感情的な論客である。

 この本では名古屋のいいところがたくさん紹介されている。確かに名古屋は観光地としてはあまり見るべきものがない。しかし物作りの街として、そして家康が暮らしやすい街として作り上げたことは、先日のブラタモリでも紹介されていた。

 ただひとつ、名古屋について言いたいことがある。三大ブスの産地、などといわれているが、初めて名古屋に来たときになんと美人の多いところかと私は思った。どんなところにも美しい人からそれなりの人、そして残念な人がいるものだが、名古屋は美人の頻度が高いと思う。このことは同様に言われる仙台でも感じた。街の女性を勝手に品評したかったら黄昏時の繁華街を歩けば良い。その街の雰囲気とともに女性のレベルも実感できるものである。

 それだけでも名古屋を貶めるような言説は誤りであると思う。

2017年12月 5日 (火)

受信料支払い拒否

 NHKの受信料支払いを拒否する人が少なからずいるという。NHKは受信料で成り立っている。しからば誰もが受信料支払いを拒否したらNHKは経営が成り立たない。当たり前のことである。

 支払いを拒否している人はNHKを観ない、と主張しているようである。本当かどうか検証しようがない。観ないものには払わないという理屈がいかにも通りそうである。

 私は受信料を払う。払うのは当然だと思って払う。多くの人がそうだろう。しからば受信料の支払いを拒否しながらNHKを観ている人は、きちんと支払っている人にたかっているわけである。正しいことをいっているつもりでも、じつはみんなが同じことをしたら成り立たないことに気がつかない。

 民放が無料であることによって、異常なまでのCMの氾濫を招いている。私には過剰なCMが精神的に大変な苦痛である。民放も有料にしてCMをなくせないものかと思うほどである。

 こうなったらNHKもWOWOWなどのように有料契約者だけが見られるようにすれば良いのである。NHKもつまらない番組ばかりなら視聴者は激減するだろう。そうならないために番組の質も向上するだろう。無料がいい人は本当にNHKを観ないで民放のCMの氾濫を楽しめばよろしい。

映画『虎影』2015年日本

 監督・西村嘉廣、出演・斎藤工、芳賀優里亜他。

 忍者映画を作ったつもりらしい。三重県伊賀の「伊賀國 忍者映画祭」の記念映画として企画されたというのだから。

 主演の斎藤工は映画通である。その斎藤工はどんな思いでこの映画の演技をしていたのだろう。出演した女優も羞恥心をかなぐり捨ててみな熱演していた。それに報いるにこの出来では哀しい。

 監督は山田風太郎の忍法帖的テイストとタランティーノの手法(「キル・ビル」みたいな)を組み合わせ、なおかつスラプスティックな映画を作ろうとしたのだろうか。この映画をおもしろいと評価するひともいるのかもしれないが、私はまったく受け付けなかった。

 わたしにはただただ監督がふざけているとしか思えないのだ。しばしばお調子者が浮き上がっていることも気付かずにふざけるけれど、それに似ている。回りはしらけているが、本人は気付かないのがなおさら醜悪だ。

 超駄作。観るに値しない。時間の無駄。これは私の感想。

 ハチャメチャとおふざけは違うものだ。

梅原猛『世界と人間 思うままに』(文藝春秋)

 梅原猛は私の母と同年の1925年生まれである。つい先ごろまでテレビでもその意気軒昂なところを見せていたけれど、いまはどうなのだろう。健在だろうか。

 若い頃『隠された十字架』という本で、法隆寺と聖徳太子についての極めて冒険的な仮説を読んで以来、彼の著作にはまってしまってずいぶんたくさん本を読んだ。今回、大切にしてきたそれらの本の大半を処分したが、捨てきれなかった何冊かの中の一冊が今回読んだ本である。

 この本は1992年から1993年にかけて中日新聞(=東京新聞)に連載された文章をまとめたもので、エッセイとして読めるので読みやすいのである。『思うままに』シリーズとして何冊か出版されたが、私は五冊持っている。それですべてかどうか知らない。ある時期から梅原猛の本を読むことがなくなったからだ。彼の自己顕示欲の強さにいささか食傷したというところだろうか。

 学説はいろいろな資料を積み上げた末にそれを根拠に提唱するのが普通だが、彼の場合は直感に基づいてまず仮説を立て、それを検証することで仮説を学説に結びつけようといういささか乱暴なものだ。しかしある意味で理科系の検証方法に似ていないことはない。

 彼は仮説が検証の過程で破綻することにびくともしない。それに拘泥せずに新しい仮説を立てるのである。だから彼の著作の内容は時代によって変化していく。矛盾することもしばしばだが、それを咎めてもそれが彼のやり方だから仕方がないのである。

 この本の中にその手法を思わせる文章があるので引用する。 

「私の学問の特徴はまったく新しい仮説を提出することである。新しい仮説を提供するということは、世界全体を敵にまわすことである。なぜなら、世界は古い仮説の上に安らっているからである。その仮説を壊し新しい仮説を立てるのは、古い仮説の上に安らっている多くの人の敵意を招くことである。それゆえ多くの学者は新しい説のふもとまではいっても、その仮説の帰結の恐ろしさに辟易して後退するのであるが、私は孤独に耐えることができたので、その仮説を追求して私の学問が出来たのである」(後略)

 哲学者として日本古代学、宗教論、民俗学など多岐にわたって膨大な書物を書き続ける、そのエネルギーが桁外れの人なのである。その思考の断片が小文の中に散りばめられているこの本はおもしろい。しかしはまりすぎると迷路に入るおそれもあるので注意が必要である。

 そんな彼が書評家に酷評されたことを恨んで恨み節を語っている文章があって笑ってしまった。彼が散々に悪口を書いている書評家Dとは百目鬼(どうめき)恭三郎のことであろう。さもあろう、百目鬼恭三郎はスタンドプレイをもっとも嫌う。彼にとって梅原猛はただの学問の曲芸師にしか見えなかったに違いない。

2017年12月 4日 (月)

映画『ひつじ村の兄弟』アイスランド・デンマーク・ノルウェー・ポーランド映画

 監督グリームル・ハゥコーネルソン、出演シグルヅル・シグルヨンソン、テオドール・ユーユーリウソン他。

 舞台はアイスランドの寒村。以前も書いたことがあるが、アイスランドでは名字はなく名前だけしかない。監督や出演者の後半の名前の最後に、ソンがついているであろう。それは息子という意味で、シグルヨンソンといえば、シグルヨンの息子という意味だ。つまりシグルヨンの息子のシグルヅルというわけである。

 グミー(シグルヅル)とキディー(テオドール)は兄弟で隣どおしで住んでいるが、互いに長いこと口も聞かない間柄である。この村ではみなひつじを飼うことを生業としており、毎年品評会が開かれるが、兄弟の育てているひつじは特に優秀な血統のもので、優勝は兄弟のどちらかが勝ち取ることが多く、今年は兄のキディーが僅差で優勝し、グミーは二位となる。

 その優勝した兄のひつじにグミーは異常を発見する。スクレイピーという感染症ではないかと疑った彼は検疫所に連絡する。それを妬みからと考えた兄のキディーは激怒し、弟の家に向けて猟銃を撃ち込む。

 やがてそのひつじがスクレイピー(あのクロイツェル・ヤコブ病である)であることが判明する。そうなると近隣のひつじはすべて殺処分しなければならない。村は恐慌状態になるが如何ともしがたい。グミーも手持ちの大事にしていたひつじを処分せざるを得なくなる。保健所が処分のためにやって来たとき、そこにはグミー自身の手によって殺されたひつじの死骸の山があった。

 ひつじの処分に反対するキディーは抵抗するが、抵抗しきれるものではない。その恨みは弟のグミーに向けられる。元々意固地だったキディーはますますかたくなになり、政府の保証の交渉にも応じようとしない。

 やがてそのための交渉役は意外な事実に気がつく。そもそもキディーの土地や建物はすべてグミーのものであった。兄弟の父親はキディーを嫌い遺産をすべてグミーに残したのである。

 兄弟の仲はこれ以上ないほど悪化したのだが、キディーの資産がすべてグミーのものだとすると、キディーの牧場の問題はすべてグミーの責任ということになる。話し合うしかないのであるが・・・・。

 怒れるキディーはある日グミーの秘密を握ってしまう。それはけっして知られたくないものだったが、キディーはその秘密を共有することでグミーの気持ちが分かってしまい、混乱する。

 兄弟の仲がどのようになっていくのか。憎しみと愛情の極限とは何か。ラストシーンが痛切にそれを考えさせてくれる。忘れられない一作になった。

緩む

 独り暮らしは気をつけないとだらしがなくなり、生活が薄汚れてくる。規則正しい明るい生活を心がけないといけない。

 それがやや乱れ始めている。朝起きると、流しに昨夜の食事の汚れ物が残っている。掃除の頻度が減る。夜更かしが増えたり、せっかく早く床についても夜中に目が醒めてしまい、ごそごそと遊んでしまうので朝寝をしてしまう。風呂に入っても身体を丁寧に洗わなくなる。髭を剃らなくなる。料理がマンネリ化し、品数が減る。

 本を読んでも集中力が持続せずに次から次に違う本を開くので、なかなか読了する本がない。散歩に出なくては、と思いながらついぼんやりと日を過ごしてしまう。

 一つひとつは些細なことだが、人生はほとんどそのような些細なことの積み重ねである。それをおろそかにし続けると積もり積もってそれらが澱のように自分の中で堆積していき、こころを錆び付かせていきそうだ。こういうときは人に積極的に会いに行く気持にもならない。

 元々横着者なのに、そうなると面倒なことはさらに先延ばしにしてしまう。いまは年賀状を書かなければ、と思いながらまだ準備にもかかっていない。温泉にでも行って上げ膳据え膳でゆっくりしたい気もするが、それではさらに緩んでしまいそうだ。

 さいわい、これではいけない、とうっすら気がついたので、今日は台所周辺の大掃除をして、年賀状を買いに行き、住所録を整理し直すことにしよう。年賀状はその年に行った海外で撮ったものをメインに作るからその写真の選定をすれば、後は一気に出来る。欠礼案内がこれから来るかもしれないので、印刷は来週くらいにするつもりだ。

 うまくスイッチがはいってくれればありがたいのだが・・・。このままボケ老人になるのはちょっと早いし。

2017年12月 3日 (日)

映画『バウンティ・キラー』2013年アメリカ

 監督ヘンリー・セイン、出演マシュー・マースデン、クリスチャン・ピトル他。

 世界は『マッド・マックス2』みたいに荒廃している。それは企業間戦争によるものだそうだ。そしてその責任を問われた企業のボスはお尋ね者とされ、賞金がかけられている。賞金稼ぎはバウンティ・キラーと呼ばれて、拍手喝采を浴びているというのがこの映画の描く近未来世界だ。

 面白おかしくひとが撃ち殺され突き刺されて血しぶきが飛び散る。見ていて痛みの共感はまったく感じることがないように描かれているから、死ぬことにも意味などない世界だ。だから平気で愛の交歓の後相手をナイフで刺したりする。それでいてまったく虚無的ではないという不思議な世界だ。

 こういう世界では自分自身も死ぬまでは生きているというだけのことで、そうなると生きているという意味そのものも問うだけ無駄というものだ。ゲームの世界のようなもので、それをどう楽しむかということだけの世界である。

 ところがそれなりにおもしろいのだから、困ってしまう。

 一匹狼のバウンティー・キラー、ドリフト、そして彼の薫陶を受けていまは彼よりも凄腕になった女バウンティ・キラー、通称メアリー・デスが大活躍する。その彼女の出自には秘密があった。

 その一匹狼のドリフトが賞金首として指名される。そもそも賞金首を指定しているのは国連評議委員会なのだが、そこがそんな指定をするわけがないのである。

 彼らは評議委員会を訪ねるために危険な旅に出る。そこにはとてつもない巨悪が待ち構えていて・・・。

 ひとの生命の尊厳などかけらもない世界のドライさが、かえって痛快に感じられるという危ない映画だ。ああ恐ろしい。でもおもしろい。

迷惑メール

 『不審メール』という題でブログを書いた。そうしたら、いつも楽しみに拝見している「しらこばと」さんのブログに迷惑メール対策についてアドバイスが書かれていた。私に来る迷惑メールは横文字のメールがほとんどである。そのアドバイスを参考に早速拒否メール設定をした。いままではアドレスでの拒否設定にしていて、それではきりがなかったけれど、指定文字で拒否すれは多分ほとんどはじくことが出来る。これだと横文字のメールは受けられなくなることが多くなるが、私に横文字でメールしてくる知人はいないのでかまわないのである。

 拒否にしたから迷惑メールはいまのところ来ない。元々波状的だから来ないことも多いので、果たして功を奏しているのかどうか分からないが、多分効いているのだろう。もしすり抜けてくるものがあればそこからまた設定を追加すればいいだけである。

 「しらこばと」さん、ありがとうございました。

 しらこばとさんも書いていたけれど、コメントにメールアドレスを必須にしている方がおられる。コメントをしたいときにやむなく記入したこともあるが、いまはそういうブログにはコメントすることを諦めている。あまりにネットの世界が無法地帯化しすぎているように感じて、知人以外にアドレスを公開する気にならないのだ。もちろん知人を介して誰かに知られることはあるだろうが、さすがにそれは仕方のないことである。

 私のブログにコメントを入れるときに手数をおかけするようになっている。このコメント欄にも横文字の不審コメントが入るからである。手間をおかけするような設定を始めてからはそのようなコメントはスパムコメントとして排除されるようになった。先日試しにその設定をやめてみたら、たちまち猛攻が始まった。やはり必要なので引き続きお手数をおかけすることをお許しいただきたい。

 何しろ英語やロシア語や何やらいろいろで、もしかしたら本当にコメントしたいものもあるのかもしれないが、当方には対応能力が無いのでご勘弁いただいている。横文字が読めたらおもしろいものがあるかもしれないが、恥ずかしながら知らぬが仏なのである。

2017年12月 2日 (土)

映画『ロストフューチャー 10,000デイズ・アフター』2014年アメリカ

 監督エリック・スモール、出演ジョン・スナイダー、ピーター・ウィングフィールド他。

 画質もいいし、出だしの映像も美しかったので期待した。太平洋に彗星が直撃し、千メートルを超える津波が発生して地球は壊滅的な被害を受けている。一万日後、というのはその彗星が直撃した日から数えてのことである。地球はその衝撃で軌道を外れ、太陽からどんどん離れつつあるらしい。そのために寒冷化が進み、生き残った僅かな人々は極寒の中でかろうじて暮らしている。

 冒頭のシーンでは氷河のようなものが次々に崩れてその上を逃げ惑う家族が描かれる。かろうじて息子を高台に押し上げた後、父親と母親は崩れる氷に呑み込まれていく。これは全体の伏線である。

 この地域では二つのグループがいがみ合って暮らしている。もともとは一つのグループだったらしいが、片方が追い出されたのだ。資源も食糧も限られている。追い出された側は恨みとともに襲撃をかけてくる。それでも互いのグループの中に恋仲のものもいる。もともと同じ仲間だったのだ。

 ここで気になるのは追い出された側の人々がモンゴル系と云うか、東洋的な顔立ちのひとたちであることだ。これは人種差別映画か。彼らは好戦的で、立て籠もる側は防戦一方で平和的である。

 津波を免れたこの場所は高山の山頂付近である。そこにあった天文台が立て籠もる側の拠点で、ささやかながら生きのびるための材料は残っている。しかしそれももはや底をつきかけている。すべてのひとに分けるようなものはないから、奪い合うしか道が無い。

 あの氷山の崩壊の後に出来た陥没した穴に飛行機が発見される。何とエアフォースワンであった。大統領専用機である。ここに不時着していたのである。もちろん誰も生存者はいないが、当然そこにはあの核兵器のスイッチを押すためのブリーフケースが搭載されている。

 そして物語は二つのグループによるそのブリーフケースの争奪戦へと展開していく。

 というとそこそこおもしろそうなのであるが、残念なことにつまらない映画で、見る値打ちのない映画であった。まあそれがこのようなカルト映画のカルト映画たるところで、それなりのご都合主義の結末を迎える。

 どこがつまらないのか?登場人物がバカばかりだからである。いくら何でもこれほどバカばかりではそもそも生きのびられたわけがないのであるが、何も考えないし想像力もないし人の話を聞かないバカばかりなのであるからどうしようもない。特に弱くてすぐひとを裏切る女が出てくるとうんざりする。自分が裏切ったら愛する男がどうなるのか分からないほどバカなのである。何しろ愛しているらしいが、そういうのは愛しているとはいわない。

 それにしても若い二人が旅立つラストシーンは美しいが、彼らはいったいどうやってこれから暮らすのだろう。食べ物もないというのに・・・。少しは食い物でも持たせてやれよ! 

利根川

 新日本風土記というNHKの番組が好きである。全て観たいところだが、いろいろ気が多いから忙しく、時間的に無理なので特に興味を引いたものを録画して気が向いたときに観る。昨晩は『利根川』がテーマだった。利根川水系の周辺のいろいろな風物が取りあげられ、江戸時代、徳川家康によって利根川が江戸湾に流れ込んでいたのを江戸川と銚子へ流れ出ているいまの利根川に分流された歴史も語られていた。東北から江戸への物流のメインロードでもあった。

 あの伊能忠敬で有名な佐原は私の母が小学生時代を過ごした街であり、子供時代から幾度となくその佐原の話を聞かされていて、実際に何度か訪ねている。佐原や水郷は自分のふるさとではないながら、なんとなく懐かしい場所でもある。取りあげられるとなんとなく自分のふるさとのことのように嬉しいのが不思議だ。

 千葉県生まれだから利根川には子どものときから思い入れがある。千葉県北部は利根川以外に大きな川がなく、関東ローム層と成田砂層で出来た地質であり、水田をするために必須の水には苦労してきた。特に高台である成田周辺は水がないので開墾が遅れ、そのために幕府の馬場があっただけで、かろうじて畑作農家が細々と暮らしていた。彼らは苦労してそんな場所で畑地を開いていったのである。

 私の母方の祖父はその地区の出身である。祖父母の墓もその地区にある。政府はだから利用度の低い場所としてそこを新空港の場所とした。それなのになぜあれほど激しい反対闘争が起こったのか。人一倍苦労していた開拓の人々の心情を慮ることなく、安易に移住を勧めようとしたことが彼らの逆鱗に触れたのである。立ち退き交渉の担当者は、地元の人たちの苦労が積もっただけ土地に対する思い入れが深いことに思いが至らなかったのである。そのことは祖父から教えられた。祖父は空港建設に反対ではなかったけれど、古い知り合いが反対闘争に参加しているのを観て舌打ちしながらも、その気持ちが良く解ってもいたのである。

 千葉県北部には江戸時代、徳川吉宗が開いた新田が多い。それはため池をいくつも作ることで可能になったことである。私が生まれ育った家のすぐ裏手には周囲一キロの人工池があり、周囲に桜の木が植えられていて、地区の桜の名所である。その懐かしい家も既に処分し、いまは更地である。

 私が小学生の頃、水田のために両総用水という水路が作られた。直径2メートルもあるパイプで利根川から南下させるように水を引き、田畑をうるおすことができるようになり、東京へ野菜を供給することができるようになったので農家は豊かになった。近郊農業は収益が高いのである。

 それまで水道はため池の水を浄化していたけれど、両総用水の水に変わったとたん、味が良くなった。ため池の水はどうしても夏場は少し有機物が多い味がする。利根川の水にはそれがないのである。

 番組では千葉県の話はほとんどなかったけれど、利根川ということになると自分の関わった利根川のことをどうしても考えるのである。育ったふるさとを思うのである。そうしてまた一度佐原へ行って見たい気持ちになったのである。あそこにはとても美味い地酒もある。弟の家から車で行けばそれほど遠くもない。ちょっと心が動いている。『ふるさとへ向かう六部は気の弱り』か。

2017年12月 1日 (金)

映画『400デイズ』2015年アメリカ

 監督マット・オスターマン、出演ブランドン・ラウス、ケイティ・ロッツ、ベン・フェルドマン、デイン・クロック他。

 奇妙な映画だった。

 長期の宇宙旅行の候補生四人(男三人女一人)の訓練の一環として、400日間の隔離生活が行われる。これが宇宙ではなく、地下のシェルターの中での隔離であり、そこには宇宙船と同じような施設が整えられている。操縦室や飛行中の様子がシミュレーションされ、地上との交信も宇宙にいるようにモニターされている。

 ここで訓練として非常事態が突発し、それにどう訓練生たちが対処するのか試されるのである。契約では400日をしのぎきることが定められているのだが、彼らは次第に訓練とは思えないような異常現象に見舞われ出す。そしてついに外界との通信がまったくとれなくなってしまう。これは訓練なのかそれとも外部に何かあったのか。

 それぞれの訓練生の精神的な変調による幻覚のような映像が続く。それぞれの人間の原点のようなものをえぐるような幻覚が生じ出すのだが、次第にそれがエスカレートして全員が同じものを見るようになり、それが幻覚なのか現実なのかわからなくなる。

 閉鎖空間に長時間いるからこのような変調が起きるようでもあり、それぞれの訓練生の人格に問題があることも原因しているようでもある。そもそもどうしてこんな人たちが宇宙飛行士に選ばれているのか、そのことにも不審を感じたりする。四人は若くない。しかもその人間関係はあまり良好ともいえず、互いに協力的ではない。

 映画の冒頭では、リーダーの男が訓練が始まる前に問題を起こしているところから始まっているから最初から違和感があるのだ。しかも独りだけいる女性が何か秘密を抱えているようでもあり、この訓練について彼女だけが何かを知っているようでもある。

 そういう違和感が高まったところで現実と幻想が混乱しだすのである。ついには外部からの侵入者まで出現し始め、彼らを襲い出すにいたって、彼らは400日を待たずに施設を脱出することになるのだが、そこで見た外の世界はさらに異常な世界だった。

 ここからはスプラッター映画になっていく。血まみれスリラー映画である。とても訓練などという代物ではないのである。世界が変わってしまっている。なにがあったのかそれを調べていくうちにグループはばらばらになり、生命の危機が迫る。

 必死の逃亡の果てに彼らは再び地下の施設に戻る。外にはゾンビまがいの者たちが跳梁する。絶体絶命の中で400日目がやってくる。そこでいままでまったく通信不能だったモニター画面に訓練の責任者が登場して訓練の完了を告げる。

 想像をたくましくすれば、これは精神病院に収容された患者の見た妄想か?それとも現実は既に実際に歪んでしまって魑魅魍魎に支配されているのではないか?

 彼らは顔を見合わせ、訓練終了を信じることが出来ない。それは見ているこちらも同様である。それほど恐ろしいものを既に見ているのである。
 さあどうする・・・・

不審メール

 迷惑メールが波状的にやってくる。危険な気配のものは受信拒否に登録するが、きりがない(受信拒否メールの登録可能数が1000までで、一度一杯になり大半を登録から解除したほどである)のでシンプルなものはひたすら消去する。たくさん来るときが続くと思うとぱったり止み、忘れた頃にまたどっさりとやってくる。

 カード会社から会社の名前を騙った迷惑メールのお知らせがあった。うっかり開くとウイルスに感染するおそれがあったり、情報を抜き取られるおそれがあるという。知らないと本当にうっかりしそうだ。特に添付を開くときはいっそう注意することにしよう。

 それにしてもそのような注意喚起メールそのものがおかしげなメールでないという保証もない。世の中はもう何を信じていいか分からなくなってきた。

 間違いがあれば正せばいいのがいままでの世の中だったけれど、ネットの世界では一度うっかりすると取り返しがつかなくなる心配がある。そもそもそういう取り返しのつかないというシステムには本質的な欠陥があるような気がするが、もうそのシステムそのものをなかった時代に戻すことは出来ない。それならその問題点にどう対処するのか、もっと真剣に全力で取り組まなくてはいけないと思うが、野放しのままに見えるのはどうしたことか。

 いつかネットと縁を切る決断をすることを考える日が来るかもしれない。断捨離の大きな一歩はこれかもしれない。それで案外こころの平安が得られるかも知れないではないか。

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