池内紀『M博士-往来の思想』(青土社)
多少知識を持つと人にひけらかしたくなる。小金を持つといかにもの恰好をする者に似て本物の金持ちでないことが見え見えであるように、小賢しさが見透かされてしまう。
この本は「私」と古書店の主人であるM氏の知の掛け合いである。知識は情報に似ているが、養老孟司師がいうように情報は死んだもので、知識は掛け合いでネオンサインのように色めき立ち、きらめくものである。生きているのである。
膨大な本を読み、その本について思索してきた「私」とM氏は、本とそれについての思索の蓄積という峰の上に立っている。当然立っている峰は違う(ことになっている)。
本をただ読んできた私などは本をただ積み上げた上にアクロバチックに立っているだけで、ちょいと突かれればたちまち崩れ去るばかり。
そんな比喩を語るのは、「私」とM氏がペダンチックではないといいたいからである。ペダンチックを衒学的といったりするけれど、それは知ったかぶりとはまるで違うものであること、知識があふれてあふれ出しているものだが、しかしそこには知識が堆積して峰をなすほどでなければ、ペダンチックと指さされてしまう。
まことに世の中にははるかにレベルの高い知識人というものがいる。
人生を生き直したいなどと全く思わないけれど、どうしても生き直させられるのなら、この本で論じられているような本や思想をなぞりたいものだと思わないことはない。
もちろん「私」とM氏は著者の池内紀自身である。だから二人の会話は時に不分明である。どちらがどちらの言葉か、書き分けられているのではあるが、読み手がお粗末だから混乱する。結果的にはどちらでもいいのだが。
1985年に出版されたこの本を一度は読んだはずなのに、ほとんど覚えていない。これほどおもしろい本だと思った記憶はない。ただ、面白はずなのに、と読み切れなかったうらみだけが残っている。
今回読んで身震いするほどおもしろいと感じたけれど、ではどこまで分かったかといえば、まことに心許ない。
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