暴力への閾(しきい)
他人を傷つけたり、ましてや殺害するなどということは思いも及ばぬことだ。怒りに我を忘れて手を上げることがないとはいえないが、相手を傷つけかねないと思えばそこで我に返る。人には強く刷り込まれた暴力に対する歯止めがあるはずだと思いたい。
ところが世の中には暴力で他人を傷つけたり殺したりする事件が後を絶たないのはどうしたことかと思う。
そう思いながら、復讐譚や仇討ち話の類は嫌いではない。復讐や仇討ちなどで、暴力が正当化されると考えるのはなぜだろう。心の底には暴力衝動というのが本能として居座っていて、理由があれば歯止めが簡単に乗り越えられてしまうものなのだろうか。
子どもが殺される。大人が子どもを殺す。およそ考えられない鬼畜の仕業だが、犯人はしつけをしたのだと言い訳する。怒りにまかせて殺そうとして殺したのか、本当にしつけをしようとしてエスカレートしたのか、心の中を覗けるわけではないから分からない。恐らく本人にも分からないかも知れない。
歯止めのゆるい人間がいることは恐ろしいことだ。いくら厳罰を用意しても、彼らには歯止めを乗り越える正当な理由があると確信しているらしく見える。
人は事件を起こしてからでしか裁かれない。明らかに事件を起こしそうでも、それを理由に拘束することは出来ない。当たり前でありながら内心では理不尽に感じられてしまう。そういう人間が野放しのままで、事件を起こす。
そうなると運不運と考えるしかないのか。ただただそのような不運に出会わないための感性を磨くしかないのかと思う。しばしば不運に遭う人はその感性が働かないことがありはしないか。もちろん理不尽は世の常で、注意しても避けられない災厄はあるのを承知で暴論を言う。では子どもにどう災厄を避けるようにさせられるのか。そんなことは出来はしない。だから子殺しは罪が重い。
「丸ちゃん」のブログのちかよさんが、子殺しの事件を嘆いているのを見て、同感するとともに、事件に対して哀しみとも怒りともつかないものを覚えた。
子殺しについては『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンが神などいない、なぜなら神がいるなら子殺しを許すはずはないからだ、と無神論の根拠を滔々と語る。同感である。
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「育てるために叱る」と言いながら、どうみても感情的に怒ってる人がいます。
愛の鞭と言いながら暴力を肯定する人もいます。
それでも以前よりは情報が表に出るようになって、ほんの少しは良くなってる気がします。
投稿: けんこう館 | 2017年12月27日 (水) 11時02分
けんこう館様
人には本能的に暴力衝動があるといわれています。
それを理性で抑制するのが人間ですが、軍国主義につながるとして道徳教育を否定してきたことにより、抑制の効かない者が増えたのではないかと私は感じています。
豊かになることに夢中になることで失われたものがあるのかもしれません。
しつけを学校にゆだねようとする親など論外なのですが・・・。
子供が生きにくい世のなかになったのか、それともいつの時代もそうなのか、こういう事件を知ると少なくとも良くなっているように思えません。
投稿: OKCHAN | 2017年12月27日 (水) 11時36分