(続)梅原猛『古典の発見』(講談社)
著者は、日本の古典学は国学の影響を受けてその視点から解釈しすぎていると問題点を提起する。そうなのかそうでないのかは私には分からない。分からないときはとりあえず著者の主張を受け入れて、その思考に沿って読み進める。
国学の根本思想とは何か。ある意味では日本のルネッサンス的思考ではないか(ルネッサンスについて語るには私には知識がないのが哀しい)。元々古代日本は固有のおおらかで明るい文化を保有していたのに、仏教や儒教の浸透により、おおきく影響を受けて歪められてしまったと国学者たちは主張した。だからその影響のない万葉集を称揚したのである。彼らにとって万葉集はおおらかで明るい世界を描いた歌集であり、古事記や日本書紀にたいしても同様の評価をする。平安時代以降の仏教文化、中国からの儒教の影響を一度取り除いて本来の日本の文化を取り戻そうというのだ。
ここからは私の連想。それが攘夷や勤王に繋がり、倒幕の思想的原動力になった。明治に入っての廃仏毀釈などもその流れであろうか。国粋的な神道的思想はこの流れから生じたのか。
本に戻る。その万葉集についてまず著者の異説が語られる。大伴家持の屈折した心境や立場を反映した万葉集は、必ずしもおおらかで明るい歌集などではないと主張する。その論拠が縷々述べられる。もちろん彼がのちに詳しく論じる柿本人麻呂について(『水底の歌』にまとめられている)も言及する。万葉集と言ってもとりあげられた歌のいくつかに見覚えがある、という程度の知識なので、ただそうなのかと思うばかりである。
『水底の歌』については若いときに通読したが、さっぱり感興を覚えなかった。まだ処分せずに残してあるはずなので機会があれば読み直してみようか。
ここでおもしろいのは、通説をまず直感で否定して見せ、その自分の説の裏付けとなりそうな部分を呈示してみせるという手法だ。それが何を選び、何を選ばなかったか分からない当方は、疑問を抱きようも無い。恐らく反論も山ほどあったに違いないが、それを撥ねのける強さに感心するばかりである。ずいぶん学界を怒らせているだろうが、歯牙にもかけないのが梅原猛という人である。ある意味で痛快なのだ。
日本の古典研究の学者の多くが国学的思想の呪縛から逃れていないと見るのが梅原猛なのである。しからばそれを内省して、そんな呪縛などないと自信を持って反論した学者がどれほどいるのだろうか。
私の直感では、梅原猛も解釈が自由すぎてしばしば暴走したり間違ったりしていると思う。たぶん反論する学者達は、その点ばかりを追求するから根本的なものを見逃して、自らをレベルアップする機会を失っているのかもしれない。面白いことをいうなあ、と一度受け入れた人がどれほどいただろうか。難しいだろうなあと思う。
私でも首をかしげた梅原流藤原定家論については次回。
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梅原猛作品についてはこれまで若い時からかなり読んだ記憶があるのですが、記録に残しているのはいずれも共著の、『長江文明の探求』 『長江文明の曙』 くらいで、純粋に同氏の思想なり哲学が溢れているような作品について自分がどのように感じたか、考えたかが今となっては判りません。 ただやはり私もかなり強引だなと思ったような印象が残っています。 上記の作品はいずれも共著でしかも中国の長江文明についてのものなので、流石に「梅原節」は遠慮されたのでしょう。
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ただ1点ちょっと気になることとして記録しているのは、 <定説を覆すような仮説の中には別の目的のため、例えば政治的目的のために為されたものがある> という指摘でした。 もちろん梅原氏が別の目的のため異説を唱えられたというわけではないのですが、そうした視点もこうした本を読む際には必要かな?と思った次第。
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投稿: Hiroshi | 2017年12月27日 (水) 14時01分
Hiroshi様
これはこの本の総括の中で書こうかと思っていたことですが、梅原猛が書いたことには裏付けのないもの(彼の直感によるもの)がかなりあると思いますが、それが結果的に間違いであっても、その問題提起は刺激的でこちらのテンションを引き揚げてくれます。
正しいか間違っているかということよりも、新しいものの見方感じ方を楽しむという意味で、いい本を読んだと思っています。
梅原猛が政治的かどうかといえば、本人は否定するかもしれませんが、結果的に彼の軌跡は極めて政治的たったと思います。
投稿: OKCHAN | 2017年12月27日 (水) 14時25分
『どんな奇妙で無茶な仮説でも筋が通っていればよい。論理に矛盾がなければ問題ない。ただし、その仮説を誰もが検証できるように、「反証可能性」を提示出来るかが問われている』 という教育を我々は受けてきたつもりです。
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この検証の繰り返しで科学は進歩するわけで、その過程で常に過去の間違いが見いだされ、書き換えられる。これが科学の宿命でしょう。永遠の真理などは科学とは無縁の存在。
そうした立場から見ると。「反証可能性」を提示することの少ない、古典学や経済学、歴史学などはハードサイエンスには程遠いな〜 と感じているのが正直なところです。
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もっとも、「科学的真実」というものは科学者が「真実」であると考える仮想状の概念に過ぎないというのが正確なところなのでしょうが…
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投稿: Hiroshi | 2017年12月27日 (水) 17時03分
Hiroshi様
大学に進学して、人文科学や社会科学という言い方に驚いたことを思い出しました。
そういえば「事実」と「真実」についても区別をつけずに安易に使うことが多いですね。
自分が信じていることも、時には疑うという姿勢が必要なのでしょう。
異論でも一度は最後まで聞いてみると、案外新しいものの見方を知ることにつながったりします。
でも年ととも異論を聞く余裕がなくなり、煩わしさばかりを感じるようになってきました。
投稿: OKCHAN | 2017年12月27日 (水) 17時18分