(続々)梅原猛『古典の発見』(講談社)
後鳥羽上皇と藤原定家は歌についての美学が違い、そのために定家は長く不遇を強いられた。しかし後鳥羽上皇が承久の変で失脚したことで、結果的に定家は陽の当たるところに出ることができた。後鳥羽上皇は、島流し先で書いた歌論の中で定家を散々にこき下ろしているという。しかし歌人としては、やはり藤原定家の方が勝れているであろう(私にそれを比較する力はないが大方はそう評価しているようだ)。
新古今集では定家は本歌取りという手法の歌を数多く収めている。この本歌取りについては高校の時に習い、その故に正岡子規などは新古今を評価していないと読んだことがある。確かに写実とはほど遠い手法である。しかしその美学の奥深さを理解するとき、定家の心の襞の複雑さ、微妙さこそ素晴らしいのだという評価もできるのである(らしい)。
それはそれとして、私が引っかかったのは、著者の取りあげた歌についての解釈である。
古今集の本歌
さむしろに衣かたしき今宵もや
我を待つらむ宇治の橋姫
これを定家が本歌取りして
さむしろや待つ夜の秋の風ふけて
月をかたしくうぢのはしひめ
という歌を新古今集に収めているのであるが、
「宇治に遊女がいた。橋姫というから下級遊女であろう。この遊女を貴族が一夜買う。遊女は、この貴族に惚れる。けれど、貴族はそうしばしば遊女のところへ通うことができない。それゆえ彼は橋の下で、寒そうに自分を待っている遊女を思いやって歌を作る(後略)」というのが本歌の解釈で、定家は「衣かたしく」を「月をかたしく」と変えることで、女の孤独感を強調し、凄惨な女の美しさ、作られた空想の美にしているというのだ。
なるほどそう読めるものなのか。しかし私が気になるのはそのことではない。
「宇治の橋姫」といえば、Wikipediaで確認すればすぐ分かるけれど、自ら鬼に変貌することを神にのぞみ、生き霊と化した伝説の女が思い浮かぶではないか。宇治橋の近くには小さいけれど橋姫神社がいまも残っているのである(怨霊を鎮魂するための神社である。実際に私は見に行っているから確かである)。
当然「宇治の橋姫」という言葉にはその橋姫伝説が念頭になければおかしいのではないか、と思うのだが、梅原猛の文章には全く言及がない。そこで引っかかってしまって続きを再度読み始めるためにずいぶんと精神的エネルギーを費やしてしまったのである。
連想する私がおかしいのかもしれないとひとまず気持を収めた次第である。そうでないとすべてが空しくなる。
正しいとか正しくないとかとは違う値打ちが梅原猛の本にはあると思うから読み続けられる。今までにない発想で、誰も言ったことのない切り口でさまざまなことに論を立てる。それは刺激的で挑発的である。鵜呑みにして間違うのはこちらが悪いのである。その刺激こそ新しいものの見方を鍛えてくれる。これは私にとっての先達なのである。
ここまででこの本の出だし数十頁である。このあと芭蕉論、そして芭蕉をあまり評価しない正岡子規の写生論や王朝女流文学や女流日記について、吉田兼好論、能について、そして日本人の美意識や宗教論が展開されていくのだが、それを一つひとつ語っていくと果てしがないのでここまでとする。
最後に、梅原猛の文章に出会ったのは、高校の時の国語の教科書で、謡曲(つまり能である)の『隅田川』について書かれたものである。私が古典に少しだけ興味をわかせるきっかけになった。この本では死霊のドラマ『能芸論』として『井筒』という能が詳しく語られていて、興味深かった。
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古文は正直言って一番嫌いな教科でしたが歴史は好きで、理系だったのにも関わらず世界史と日本史を受験で取ったくらいです。 ところが以前ラジオ講座かなんかで古文の授業を聞き流していた時、古文と歴史を横断するような講義を聞き、「嗚呼、こんな授業を受けたら、古文も好きになったかもしれないな」と思った記憶があります。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/425/trackback
古文が古文だけで終結するような世界ではなく、周りの世界と結びついた学問だとするなら当然なことなのでしょうが… そのこと関連するような話だと感じました。
投稿: Hiroshi | 2017年12月28日 (木) 08時57分
Hiroshi様
同じような思いでいた方がいると知ってなんだか嬉しいです。
古文の文章が書かれた時代背景や思想的状況をもう少し理解していたら、確かにずっと興味が持てたかもしれませんね。
だから多少知識を持てるような今になって、古典がちょっと面白く感じられるようになったのかもしれません。
現在の価値観で過去を考えることから自由にならないと、古典の面白さは分からないように思います。
投稿: OKCHAN | 2017年12月28日 (木) 09時30分