梅原猛『世界と人間 思うままに』(文藝春秋)
梅原猛は私の母と同年の1925年生まれである。つい先ごろまでテレビでもその意気軒昂なところを見せていたけれど、いまはどうなのだろう。健在だろうか。
若い頃『隠された十字架』という本で、法隆寺と聖徳太子についての極めて冒険的な仮説を読んで以来、彼の著作にはまってしまってずいぶんたくさん本を読んだ。今回、大切にしてきたそれらの本の大半を処分したが、捨てきれなかった何冊かの中の一冊が今回読んだ本である。
この本は1992年から1993年にかけて中日新聞(=東京新聞)に連載された文章をまとめたもので、エッセイとして読めるので読みやすいのである。『思うままに』シリーズとして何冊か出版されたが、私は五冊持っている。それですべてかどうか知らない。ある時期から梅原猛の本を読むことがなくなったからだ。彼の自己顕示欲の強さにいささか食傷したというところだろうか。
学説はいろいろな資料を積み上げた末にそれを根拠に提唱するのが普通だが、彼の場合は直感に基づいてまず仮説を立て、それを検証することで仮説を学説に結びつけようといういささか乱暴なものだ。しかしある意味で理科系の検証方法に似ていないことはない。
彼は仮説が検証の過程で破綻することにびくともしない。それに拘泥せずに新しい仮説を立てるのである。だから彼の著作の内容は時代によって変化していく。矛盾することもしばしばだが、それを咎めてもそれが彼のやり方だから仕方がないのである。
この本の中にその手法を思わせる文章があるので引用する。
「私の学問の特徴はまったく新しい仮説を提出することである。新しい仮説を提供するということは、世界全体を敵にまわすことである。なぜなら、世界は古い仮説の上に安らっているからである。その仮説を壊し新しい仮説を立てるのは、古い仮説の上に安らっている多くの人の敵意を招くことである。それゆえ多くの学者は新しい説のふもとまではいっても、その仮説の帰結の恐ろしさに辟易して後退するのであるが、私は孤独に耐えることができたので、その仮説を追求して私の学問が出来たのである」(後略)
哲学者として日本古代学、宗教論、民俗学など多岐にわたって膨大な書物を書き続ける、そのエネルギーが桁外れの人なのである。その思考の断片が小文の中に散りばめられているこの本はおもしろい。しかしはまりすぎると迷路に入るおそれもあるので注意が必要である。
そんな彼が書評家に酷評されたことを恨んで恨み節を語っている文章があって笑ってしまった。彼が散々に悪口を書いている書評家Dとは百目鬼(どうめき)恭三郎のことであろう。さもあろう、百目鬼恭三郎はスタンドプレイをもっとも嫌う。彼にとって梅原猛はただの学問の曲芸師にしか見えなかったに違いない。
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