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2017年12月26日 (火)

梅原猛『古典の発見』(講談社)

 古典は発見するものか?なるほど個人一人一人が発見するものかも知れない。普通の日本人なら、出会いは教育の中で与えられているのである。しかし古典を発見するのは自分であろう。「発見」とは、誰もに見えていながら見過ごされていたものを、もう一段高いレベルで見ることで、つまり真に見る目によって見つけることを言うのだろう。

 見ようと思わなければ見えないものがある。世のなかにはそのようなものがたくさんある。はたしてそれにいくつ気がつけるだろうか。でもひとつでもそれに気がつくと、もっとたくさんあることを識る。それには先達の助けが必要である。

  先達とは何か、すでに知る人である。なおかつ、いまだ知らぬ人を知る人にすることの出来る人である。ただ知識を情報として蓄えているだけの人は先達とはいえない。だからコンピューターはいくら情報を山ほど持とうと先達にはなれない。

 しばしば先達は先達であることを自覚しない。それでいいのである。知らぬ人が先達を先達として頼り、その助けで知る人になったとき、新たに知る人にとって助けを得た人が先達なのである。

 ややこしいことを書いたが、これは内田樹師の受け売りである。

 こうして人は「発見」する。発見することで知る。そのことを梅原猛師は語っているのである。さてこの本は日本の古典についての話である。すでに膨大な研究が重ねられ、解釈がなされてきた古典について、梅原猛師はしばしば異説を唱える。それは直感によるもので、固定観念を覆すものが多い。確かに古典の研究についての学術分野はずいぶんと権威主義的な世界だと言われている。

 えらい先生がこうだと決めつけると、異説をとなえると学界からつまはじきさせられるという話は繰り返し聞かされてきた。もちろん異説が正しいとは限らないが、異説を検証すらしないという世界は学問とは言えない。とはいえ確かに古典は検証が難しい学問なのかもしれないが。

 谷沢永一翁などは、ある教授の一派が監修した古典全集など読むに値しないとまで喝破していたが、それを読み比べておかしなものを避けるだけの知識が当方に無いのは悲しい。せいぜいそういう人たちの意見を参考にして無駄を避けるようにするしかない。

 さて、いつまでたっても肝心のこの本の話に至らない。その話は次回に。

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