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2018年1月

2018年1月31日 (水)

世の中の事には・・・

 枕元に何冊か睡眠薬がわりの本を積んでいるが、その中の一冊に宋代の詩人・陸游の『入蜀記』という本がある。ときどき開くだけだし、数頁読むと寝てしまうからいつ読み終わるか分からない。この本は紀行文であり、紀行文は大好きである。ただ、この本は人物がたくさん出てくること、同じ人物の名前が何通りもあるので混乱する。これは日本でも同じで、昔の地位(役職名も難しくて分かりにくい)のある人は名前がいくつもあるのだ。名前については次回のブログでこの本から一例を挙げることにする。

 陸游は役人であって(当時の詩人はほとんど役人である)辞令により、故郷の紹興のあたりから四川省へ赴任することになり、運河で北上し、長江に合流してそのまま四川へ向かうのである。四川は蜀の国であり、そこへ行くから入蜀記である。

 山陰(紹興)から臨安(杭州)、さらに秀州(嘉興)、平江(蘇州)、無錫、建康(南京)とたどったあたりまで来た。まだまだ先は長い。

 本文から

 今日は順風で、太鼓を打ち鳴らし帆をあげて航行した。東に下る二艘の大きな舟があったが、風に阻まれて浦に停泊していた。われわれを見て大そう立腹し、地団駄を踏み、罵りつづけたが、船頭は返事もせず、ただ掌をたたいて大笑いし、いっそう激しく太鼓を鳴らして、得意がってみせた。長江を航行する場合、渋滞したり、速やかに進んだりするのは、常におこることである。順風に恵まれたものは、これ見よがしになり、風に阻げられたものは、腹を立てる。いずれも当を得ていないというべきであろう。世の中の事にはおそらくこれに類したことが多いのであって、これを記してお笑いを供することにする。

 まことに人生もこのようだと思う。

澤田ふじ子『冤罪凶状』(幻冬舎時代小説文庫)

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 公事宿事件書留帳シリーズ第二十二巻にして最終巻である。著者の澤田ふじ子がここで筆を置くのは、なにかがあったからというわけではないようである。そろそろ区切りをつけても良いだろうということなのかと思う。すでに第一話から書き継がれて二十五年だそうだ。

 このシリーズを愛読している人にとってはいまさらだろうが、公事宿とは江戸時代にもうけられていた、裁判全般についての原告や被告の代理人である。原告、被告とも裁判については詳しく知らないから、訴訟の文書作成や裁判所である奉行所での審議全般のやりとりの代弁を行う。裁判が長引けば原告被告に宿も提供する。主に扱うのは民事であるが、ときには刑法犯も扱う。現在の弁護士よりもはるかに多岐にわたる代理人である。

 京都の公事宿「鯉屋」のいそうろうを自称する田村菊太郎は、父親が同心組頭であったが、理由があって腹違いの弟があとを継いでいる。田村菊太郎は東西の奉行所にも一目置かれていて、顔が利く。武芸達者であり、芸術にも造詣が深くて博識である。その田村菊太郎が鯉屋の主・源十郎とともにさまざまな事件を解決していくのだが、その解決は快刀乱麻を断つ如し、というよりも、情にあふれた血の通ったものであることが多い。

 今回の最終巻にあたって、解説を書いているのは著者の澤田ふじ子の娘である澤田瞳子。彼女は母親のこのシリーズを引き継ぐ意思を表明している。ただし書き始めるのは数年かもっと先になりそうである。そして前巻で手腕を見せたお清が女公事師として活躍することになりそうである。

 この全二十二巻は折を見て再読するつもりでいる。大好きな『鬼平犯科帳』シリーズ、『御宿かわせみ』シリーズはすでに再読三読している。読めば読むほどイメージが頭の中で具体的になっていくからその面白さも増すのである。だからそのイメージを損なう配役でドラマ化や映画がなされると腹が立つのである。田村菊太郎は内藤剛志、源十郎は渡辺徹ですでに確立されている。

2018年1月30日 (火)

名護市長選

 暇なときは(たいてい暇だが)ネットニュースを眺める。大事な話からどうでもいい話までさまざまあるが、それはその価値付けが人によってずいぶん違うからなのだろう。

 名護市長選が2月4日に行われるにあたって、朝日新聞と琉球朝日放送が情勢調査を行った。争点の一つである辺野古移設について反対は63%、賛成は20%だったそうだ。四年前の前回市長選では反対が64%で、賛成が19%だったという。これだけ見れば今回も移設反対の稲嶺氏が勝つということなのだろう。しかし、これだけ米軍のヘリコプターが落ちたり不時着したり、米兵の不祥事が続く中で、しかも移設反対を正義とするメディアがとったアンケートでこの結果である。

 私が興味があるのは、このアンケートの反対63%、賛成20%の数字と、選挙の得票率の数字の比較である。その差がこの情勢調査のバイアスの目安となると思うからだ。

 このあと基地問題について日ごろ考えていることを書き出してみたのだが、自分の意見なのか、誰かの受け売りなのか分からないものの羅列になってしまって、書いていて自分でいやになった。

 米軍基地は存在しないほうが良い。しかしいま単純に沖縄の米軍基地がフィリピンのスービック基地のようになくなってしまえばどうなるか。いまの南シナ海の状況を見れば明らかである。地政学的には防衛の要として沖縄に軍事拠点が必要であると思う。

 それなら日本が自主防衛体制を強力に推し進めて米軍の代替をするのか。それを基地反対論者は認めるのか。最も自主防衛に反対するのはその人達ではないのか。しかし米軍だから中国に睨みが利くけれど、自衛隊では無理か。

 人家の中の危険の多い嘉手納基地を辺野古に移設して少しでも危険を減らすことは、現状よりは改善である、という考えを認めることは、基地問題の解決ではない基地肯定である、という論理による反対運動が嘉手納基地の危険解消を遅らせていることに対して、もどかしい思いもある。

 沖縄の米軍基地は日本を護るためのものではない。アメリカのための基地であるということは認識しておく必要があるだろう。だからあまり面倒くさくなれば、もういいや、とばかりにアメリカがひきあげる可能性は多分にある。反対運動はそれを目指しているのかもしれない。

 こうしてとりとめのない想念がぐるぐる廻っている。

永訣の朝

 宮沢賢治が最愛の妹トシの病死に慟哭して書いた詩、『永訣の朝』を知らないわけではない。それなのに、先日芥川賞を受賞した若竹千佐子氏の『おらおらでひとりいぐも』の題名が、この詩の中の

 (Ora Orade Shitori egumo)から引かれていることを知らなかった。

 思えば宮沢賢治のふるさと・花巻と、若竹千佐子氏のふるさと・遠野は近いのである。歩けばそれなりの距離だが、花巻温泉に泊まっていれば、車で宮沢賢治記念館を見学して、さらに日帰りで遠野をゆっくり散策できる。

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 たまたまそのことを教えられて花巻と遠野を懐かしく思い出した。花巻温泉にはたびたび寄っている。お気に入りの宿もある。雪が溶けたら今年も行くことにしよう。ひところ宮沢賢治の童話をいくつか丁寧に読んだりしたことがある。賢治の著作物のほんの一部しか読んでいないけれど、さいわい「ザ・賢治」という、童話と散文、詩をすべて網羅した本があるので、久しぶりに繙いてみようと思う。

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2018年1月29日 (月)

澤田ふじ子『虹の見えた日』(幻冬舎時代小説文庫)

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 公事宿事件書留帳シリーズ第二十一巻。お馴染み田村菊太郎を主人公にしたこのシリーズは、平岩弓枝の『御宿かわせみ』と並んで私の大好きな時代小説である。

 この本を読み始めて「あれっ!」と思った。そう思うはずである。すでに読んだ本であった。それなのに読み出したらやめられない。面白いから最後まで楽しめた。

 このシリーズは一冊に六話の短篇が収められている。捕物帖の変形なのだが、特徴はとにかく会話文がとても多いということだ。舞台が京都(澤田ふじ子は愛知県生まれだが、書かれる小説の多くは京都が舞台である)なので京都弁の会話となる。その会話が文字ではなく、音声で聞こえるようならこの小説の世界にはまったということだ。

 会話にはその語り手の階層、職業、性格、思惑が自ずと込められるもので、それが巧みに織り込まれているから、会話から多くの情報が読み取れるのである。

 社会の醜い面が現れて事件になるのだが、そこにはいろいろな事情や関係者の性格が絡む。読んでいれば自分に都合の良い生き方をして、人の迷惑や損害など何とも思わない人間の生きざまに腹が立つ。それが詳しく語られたあと、普通の小説ならその理不尽な生き方をした人間がとことん報いを受けて溜飲を下げてくれる。それが快感なのである。

 ところがこの小説では勧善懲悪の一歩手前で打ち止めになることが多い。悪者がとことん制裁されるシーンはあまり描かれない。これからそうなる、というところで打ち止めとは殺生な、という思いもないことはないが、それがとても深い余韻を残すことにもつながっていて、慣れてくるとそれも好いなと思えてくる。

 菊太郎の恋人・お信の娘であるお清が公事師見習いとして見事な手並みを見せる表題の『虹の見えた日』はこの次の第二十二巻で完結するこのシリーズの、その先へのつなぎであることがその第二十二巻の巻末の澤田瞳子の解説に書かれている。そのことは次巻の『冤罪凶状』で。

ゆっくり行くことにする

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 加齢臭などといって高齢者特有のにおいが臭いとして忌避される傾向があるようだが、子どものときかいだ祖父母のにおいは私には懐かしい匂いとして記憶されてもいる。

 自分にはそんなにおいがまだないようなつもりだが、気がつかないだけかもしれないと思っていたら、たまたま自分にもそういうにおいがすることがあるのに気がついた。加齢とともに定常的になり、しかも強くなるのかもしれないが仕方のないことだ。

 アンチエイジングに努力している人がテレビに出ていて、実年齢よりも若い!とビックリされたりして自慢げである。確かに驚くほど若々しく見えるが、実際に若くなったわけではない。「若く見える」という褒め言葉にはかならず(お歳の割には)という言葉がいわれなくても実は添付されている。

 なまじその年齢のあざむき方がはなはだしすぎると、却って老醜を感じてしまうことがある。

 歳を取ったら眉毛の中に長く伸びるのが出てくるのが不思議だ。床屋で「切りそろえましようか?」と必ず聞かれるが、いつも断っている。(年寄り臭く見えますよ!)という語らない言葉が聞こえているのだが、私は眉毛が長いのは長命の印だと思うし、おじいさんの眉毛の長いのは格好が良いと思う。そのかわりむさ苦しく見えないように身だしなみには多少気をつけないといけない。

 新しいことにだんだんついて行けなくなっている。ビットコインなどといっても何のことやらさっぱりその仕組みが解らない。電子マネーくらいまでは何とかようやく受け入れ始めて、案外重宝なことも知ったけれど、それも現金との互換性の実感があるから受け入れることが出来ている。

 歳とともにさまざまなことを受け入れるのに時間がかかるようになる。それなのに世の中の変化はどんどん加速している。実は加速しているわけではなくてこちらが減速しているだけかもしれないが、どちらにしてもついていけない年寄りには同じことである。

 自分ではつい数年前まではかなりついて行けていたつもりだった。しかしちょっと引きはなされたと思ったら、もう前が見えなくなっている。ここであがいても息が切れるだけである。

 出来ること、やり慣れていることを手がかりにゆっくり行くしかないのかな、と開き直ることにした。

 置いてきぼりされたことに怒りを覚えても仕方がないのである。

2018年1月28日 (日)

高橋ユキ『暴走老人・犯罪劇場』(洋泉社)

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 裁判傍聴マニアというのがあるらしい。著者は女性の裁判傍聴グループを結成し、その傍聴で見聞きしたこと、調べたことをもとにしてブログを書き、さらにそれをまとめて本を出しているようだ。

 彼女は特に老人の犯罪をテーマに選んでいるという。

 老人犯罪は実際に増加しているのか?老人の絶対数や全人口に占める比率が増えているからそう見えるだけではないかと思っていたら、それよりも明らかに老人犯罪の増加が多いようである。

 それはどうしてなのか、社会的意味を考察しているであろうと思ってこの本を読んでみたのだが・・・。

 購入して読み始めたからには読了しようと努め、何とか読み終えたけれど、私にはつまらない本であった。ただ高齢者の犯罪を紹介し、裁判での被告となった老人の異常さをこれでもかと繰り返し再現して見せているが、なにも老人だからではなく、犯罪を犯すような被告であれば、このような不合理な陳述をするであろうことは想像できる(何しろ刑事犯罪の傍聴などしたことがないのであくまで想像するだけである)。

 そしてなぜ高齢の犯罪者がこのような心性を持つのか、それは高齢者でない犯罪者とどう違うのか、そこに対しての踏み込みが不十分で、著者の思い込みだけが語られているように読める。社会的な現象ととらえ、その背景を読み解き、なるほどと思わせてくれなければただの犯罪実録記事の羅列である。

 左様、三流週刊誌の犯罪実録記事の、老人(ところが老人とはいえないような年齢の者もしばしばいて、老人の基準がどこにあるのかもよく解らない)が被告であるものだけを取りあげたものを読まされたという印象しか残らなかった。

 どんな趣味を持とうがご自由に、というしかないが、本にするならもう少し掘り下げて社会的意味を明らかにして欲しいものだ。

「金、プライド、不寛容、歪んだ正義感・・・」を燃料として、高齢者特有の「性質」が「着火」させているのだ、というのは文学的だが何をいっているのか、根拠はなにか良く分からない。「年寄りは欲張りで傲岸で自分勝手で自己中心的だ」と著者は見做しているようである。

 多分そういう年寄りだけを見続けているとそう見えるようになるのであろう。せいぜいそういう年寄りにならないようにしたいものだ。

レトリックの神髄

 昨晩のBSフジのプライムニュースは、いつもの一週間のまとめ(土曜日はいつもそうである)ではなく、先日亡くなった西部邁氏の特集だった。全部で十五回出演したそうで、その一部が放送された。

 保守の論客としての面目躍如の姿を見て彼の在りし日を偲んだ。特に視聴者のステレオタイプ的な質問に対する回答が「人に聞こうとしないで少しは自分の頭で考えろ」と舌鋒鋭いもので痛快であった。同感である。

彼の最後の出演のときの言葉
「僕はいまの日本の姿とその将来に絶望している。そして(現状を正しく認識して)私のように絶望する人たちが少しでも増えていくことが、わずかに私の希望だ」

 これこそ西部邁流レトリックの神髄だ。いわんとすることが良く分かる。彼の本は多分すべて処分をしてしまったはずだが、文庫本で一冊くらい購入して、久しぶりに西部邁節を味わって、もって冥福を祈ろうか。

2018年1月27日 (土)

五木寛之『孤独のすすめ』(中公新書ラクレ)

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 180頁あまりで活字も大きいし、書かれている内容は「なるほど」と迷いなく同意できることばかりだし、あっという間に読み終えることが出来て、よく「分かる」。しかし「分かる」ことと「解る」こととの間には超えがたい距離があるのだ。

 それぞれの事柄には著者が考えぬいたすえの言葉が記されている。知っていることを「解る」ことにするのはとても困難であることは私も知っている。でも知っているからといって「解る」ことが出来るというわけにはいかない

帯には「人は年をとると、孤独という自由を手に入れる」とある。思えば高校生時代、人生に鬱屈して虚無的になっていた頃、すべてのしがらみから解放されて自由になりたいと心から願っていた。あのときの私がいまの私の立場に立てば、それを理想の状態と思うだろうか。

 人はただ自分の置かれた状況から逃げ出したいためにそうでない自分を夢見るだけではないのか。

 中国では人生を四つの時期
     青春
     朱夏
     白秋
     玄冬
に分けて考えたという。そして白秋から玄冬の時期とは人生の下山の時期であるというのがかねてからの著者の言葉である。

 この本を読んでいる私は白秋なのだろうか、玄冬なのだろうか。多分まだ白秋なのだが、来たるべき玄冬におびえている白秋なのだろう。だからこのような本を読んだりしている。

 この本を読んだら元気づけられた、ということはあまりなかったけれど、心配しても仕方がないのだ、という諦めの気持になった。「諦め」とは「明らかなこと」を「究める」ことであると著者はいう。そういう言い方は説教臭くて嫌いなのだが、素直に受け取ればなるほどと思わないことはない。
 
 あまりにもやさしく書かれすぎていて、つい読み飛ばしている中に、じっくり考えるべきことがある気がしながら、ついいつものペースで読んでしまった。人生の先達の言葉として、玄冬にさしかかったらもう一度読んでも好いかもしれない。

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 もともと孤独を求め、孤独を苦にすることなく楽しむことは可能だと考えているから、共感するところは多かった。しなければならない公共的な役割は引き受けるけれど、進んでボランティアまでする気はない。勝手だが、それで勘弁してもらおうと思っている。それが生きがいである人もいるだろう。私はそうではない。それなら孤独を引き受けるのは当然のことなのだとあらためて自覚した。

2018年1月26日 (金)

深刻なことか当然のことか

 ネットニュースに取りあげられていた読売新聞の記事「出版不況、雑誌販売の不振が深刻・・・初の10%減」。

 そのまま受け取れば、やはり本はどんどん売れなくなっているのだなあ、と思う。しかしよく読むと・・・。

 昨年の書籍・雑誌の推定販売額(電子書籍を除く)は前年比6.9%減、13年連続の減少だそうだ。特に雑誌は10.8%の減少で初の二桁減だという。雑誌の内訳のうち、コミックスが約13%減、月刊誌が11.1%減、週刊誌が9.2%減であり、休刊する雑誌も続出している。

 一方、書籍は3.0%減と小幅にとどまったのだそうだ。

 紙の出版物の減少の話であり、特に漫画などのコミック本の売り上げが減少していることが全体に響いているということらしい。「電子書籍を除く」とあるように、電子書籍は前年比16.0%の増加だったようである。

 私の息子も「進撃の巨人」を始め、コミックは電子書籍で読む。それなら家がコミック本だらけにならないで済む。若い人はどんどん電子書籍の利用が増えているのであろう。それなら紙の出版物が減るのは当然で、何もおどろくに当たらない。

 ましてコミックは若い人が読む比率が圧倒的に高いであろう。その若者の数が年々減少しているのである。減るのはこれも当然である。

 書籍の販売が減少している、みんなが本を読まなくなったからだ、日本人は本を読まずにバカになりつつある、と記事は訴えたいのであろうが、何のことはない、それほど深刻な事態であるわけではないことが分かる。つまらないもの、時代に合わないものは淘汰されていくだけのことで、おもしろいもの、必要なものは売れているのであろう。

 ただ、紙の出版物の絶対量が減れば本のコストが高くなる可能性はある。本が次第に高価な贅沢品になるおそれがある(そうなりつつある)。図書館がベストセラーや文庫本まで置くようになっていることも出版数の減少に拍車をかけているという側面もあるだろう。とはいえ、むやみに出版点数を増やしても採算が合わないことで、つまらない本が減るのであれば歓迎である。

気を取り直す

 昨夜も風呂にも入らずに早く寝たら夜中に目が醒めてしまった。いつも以上にシーンとしているので、外を見ると雪が降っている。

 朝起きると写真のような雪景色である。

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 韓国・ソウルの今朝の気温は-17℃だと海外ニュースで言っていた。昨日の奥飛騨の朝の外気温が-13℃だったからそれより寒いのだ。平昌はソウルより寒いだろう。

 昨晩夜中に相変わらず堂々巡りの悲観的な考えが頭に渦巻いていたが、考えつかれていつの間にかまた寝ていた。

 朝起きたら馬鹿らしくなってきた。思えばそんな考え方は私の考え方ではない。

 人の世話にならずに独りで暮らせるほどに健康で、友達も、元気で働く子どもたちもいる。お酒は美味しく飲めるし美味しいものは美味しいと感じることが出来る。豊かではないが、いまのところ生活に困窮はしていない。なにより誰にも拘束されず、自由気ままである。

 加齢とともにさまざまな不自由が増えるのは仕方のないことである。ともかくいまは恵まれているといって好い。そこに不安を感じて、いまのしあわせを忘れてはバチがあたるではないか。いまをありがたいことだと考え直そう、と思ったらなんだか元気が出て来た。

 こうしてこれからも気持の明暗が繰り返すことだろうが、とにかく袋小路から脱出できそうな気分になってきた。

2018年1月25日 (木)

失われたときめき

 もともとそれほど感情の起伏が大きい方ではないが、嬉しいときは嬉しいと思い、悲しいときは悲しいと思う。それはむかしとあまり変わらない。

 昨晩、食事のあと横になって本を読んでいたらそのまま眠ってしまった。夜中に目が醒めたら今度は眠れなくなった。眠ろうと思うとますます眠れない。ボンヤリといろいろなことを考えている。

 何か楽しいこと、楽しみしていることを考えようと気持をそちらに向けてみる。そうしたら楽しいこと、楽しみなことがあまり思いつかないことに愕然とした。子どもたちがやってくること、友人と会食すること、旅に出ること、新しい本を買って読むこと、それぞれに楽しくないことはないのだが、むかしそれが心から楽しく感じられた気持ちと、比べようもないほど気持が沸き立たない。

 決して厭世的になっているわけではない。

 それよりも、つい楽しくないことの方に気持が向いてしまう。考えても仕方がないことばかり考えている。そのときはそのとき、と自分を励まそうとしてもなんとなく空しい。

 こんな気持ちから解放されるために旅に出たのにそれにとらわれている。人は空しさを抱いて生きるしかないのか。孤独など平気で、自分を見つめることが出来てけっこうなことだ、などと強がりを言っていても、見つめた先にある虚無的なものにつかみ取られそうになっている。

 人が宗教に惹かれるのはこういうときなのだろう。いまのところそこまで追い込まれていない。ただ、残りの人生はそれほど心ときめくものではないことをあらためて自覚しただけである。

氷瀑

極寒の朝に、特別寒そうな景色の写真を。


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今日名古屋へ帰る。まず車を雪の中から掘り出さなければならない。

2018年1月24日 (水)

吹きだまり

 夕方から風が強くなった。梢の雪はほとんど吹き払われる。そのときに一面が真っ白になる。そうして思わぬところが吹きだまりになり、信じられないほどの雪の山になっていく。

 むかし年下の同僚が仕事で得意先の工場を訪問したあと、車で吹きだまりに突っ込んでしまった。地吹雪でよく見えなかったのであろう。悪戦苦闘すること一時間余り、たまたまその工場の人が用事で出かけて通りかかり、それに気がついた。

 工場の手の空いている人たちが総出でたちまちのうちに彼とその車を救出した。

「歩いて五分もかからないところなのだから、すぐたすけを求めれば良いのに・・・」、とその会社の社長があとで私にそう言った。

 得意先に面倒をかけることは借りを作ることだ、と同僚は考えたのだろう。申し訳ないと思ったらしい。

 しかし私の考えは違う。得意先に借りを作ることに全くためらいはない。借りは返せば良いのである。ときには借りた以上に返すことが出来る。営業としてこんなチャンスはないのである。得意先がこちらに負い目を感じるようなことこそが避けるべきことで、相手が優位に立ったことを喜んでくれればそんなありがたいことはないのである。

 宿の窓から吹雪いている外の景色を眺めながらそんなことを思い出していた。明日は名古屋に帰る日だが、今晩は名古屋も雪らしい。明日は無事帰れるだろうか。

飛騨大鍾乳洞

朝、宿の主人が、「この地区に大雪警報がでています」と言った。昨日と比べて格別強く降る様子もなく、昨日よりも風が少ないくらいだが、ずっと降りつづいている。気温は低い。朝は-7℃くらいに下がったそうだ。これから雪が強くなるのだろうか。


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22日に飛騨大鍾乳洞に行ったときの写真。鍾乳洞の写真が上手く撮れたためしがない。特にここは中国みたいに色つきのライトアップがされているので、カメラがその色についていけないらしい。

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入り口を入ると、いきなりこんな階段がある。ここは狭いし階段も多かったことを思い出した。見る場所が第一洞、第二洞、第三洞と三つに分けられていて、第二洞と第三洞は足腰の弱い人、足元に自信のない人はご遠慮下さいと貼り紙されている。それぞれ途中で外部へ抜けられるようになっている。

特に第三洞は探検コースなどと書かれていたが、私でもスイスイ行けたから、たいてい問題ない。ただ、狭いところ、天井の低いところが多いから、巨漢の私にはそれがつらい。

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こんな道を歩いて行く。天井から水滴が首筋にかかる。

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このサイケデリックな色合いは、中国の桂林の鍾乳洞を思い出させる。あそこはもっとハデハデだったけれど。

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石筍。ここで水滴に打たれ続けると、私に石筍が生えるであろうか。

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国会議事堂・・・。なるほど。

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王冠・・・。なるほど。

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こういうぬめっとした感じは不気味悪い。

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天井を見上げる。この得体の知れない壁面にドキドキする。好いなあ、洞窟。何しろこんな天気(雪)だから誰もいない。普通ならなんとなく暗がりにざわざわするのだが、ところどころで自動的に女性の声で説明が入る。かなり大きな声であり、にぎやかなので独りであることを忘れる。

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仏様の耳だそうだ。もっとあられもない名前をつけそうなところを踏みこたえたようだ。

全長800メートルを30分ほどで楽しんだ。洞窟内の気温は12℃と表示されていた。外がとても寒いから、暖かく感じる。

このあとすぐ横の氷瀑を見に行く(といっても帰り道の途中から覗ける)。これは絶景であった。

どちらが良いか分からない

 安倍首相が平昌オリンピックの開会式に参加の方向で検討中だと今朝のニュースで報じられていた。

 合意がなされたはずの慰安婦問題の蒸し返しや、北朝鮮のペースに終始する平昌オリンピック開始前の報道を見ていると、安倍首相は開会式に参加すべきではないと最初は思っていたけれど、いまは参加するほうがいいのかしないほうがいいのか良く分からなくなった。

 感情論からいえば、もちろん文在寅政権の態度は日本にとって不快であるから、参加しないことでその不快感を意思表示するのが当然に思える。参加すればそれほど不快には思っていないのだ、などと誤解されるおそれがあるという意見にも一理ある。

 オリンピックは参加することに意義があるという。だからそういう感情論はひとまず棚に上げておいて参加すべきだという意見も頷ける。政治的な理由があって参加しないと決めることはオリンピックの精神に反するというのも正論である。

 隣国のセレモニーに参加を要請されているのに断るのは角が立つ。東京オリンピックに韓国の大統領が参加しにくくなるであろう。政治的思惑が絡まない東京オリンピックには主要国の首脳の多くが参加すると思われるから、韓国が参加するかどうかはそれほど気にすることではないともいえるが、お隣さんであるから出てもらうほうが良い。

 そういうことでわだかまりが出来るとますます関係がこじれて、解きほぐすのが一層困難になるのなら、譲れるところは譲っても好いではないかという気持にもなる。

 いま文在寅は目先の平昌オリンピックの成功だけしか眼に入っていないように見える。そしてその成功には北朝鮮の参加が絶対に必要だと思い込んでいるようである。この機会に少しでも北朝鮮との距離を縮めることが出来れば、大きな功績として歴史に名を残せると確信しているのであろう。多少北朝鮮のペースになっても得るもののほうが大きいと信じているらしい。

 問題はオリンピックのあとの半島をどうしていきたいのかについてのビジョンが文在寅大統領にあるのかどうかということだろう。金正恩には確かなビジョンがありそうである。

 韓国の若者は、あまりに北朝鮮のペーストなっている状況に対する反発が起きているという。朴槿恵に対するロウソク革命を機に誕生した文在寅政権であり、その支持層の中心は若者達だった。その若者達が文在寅に失望しつつあるという。観念だけでは現実は変わらないことに気が付きだしたのであろう。

 話が戻るが、その若者達が、韓国がやや孤立を深め始めていると感じているのなら、ここで安倍首相が平昌に行くことは彼らにどのように映るだろうかということだ。もしそれが彼らが日本に好意的な見方への変化の一助となるのであれば、それこそが安倍首相の参加に賛成する理由になるかもしれない。

 いやいや、韓国の人の多くはそんなことでは日本に対して見方が変わるようなことなどないのだという考えもあるだろう。東京オリンピックを成功させるために来るのだ、とか、慰安婦問題の合意の見直しも日本はポーズだけ怒って見せているが、それほど気にしていないのだ、などと受け取ることにつながると心配する人たちもいるようだ。

 韓国のマスコミが報じる韓国国民の思考は日本人とずいぶん違うようであるから、日本がこうなら良いなと思うようには受け取ってくれないことの方が多い。そもそも正しく日本のことを伝えてくれていないようにも見える。

 あれやこれや考えて、安倍首相が平昌オリンピックに行くことに賛同するべきかどうかよく分からない。

 本当は行きたくないけれど、アメリカあたりから「日韓の関係修復のために行け!」といわれたのだ、などということが間違ってもなければいいのだが。

2018年1月23日 (火)

昨日の雪の話題がニュースやブログを賑わしているが、私もまさに雪のなかにいる。


昨日の宿の部屋の窓からの景色。

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今日昼過ぎの景色。

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断続的に降りつづいている。

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ずいぶん積もった。

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ときどき強い風が吹く。外に出る気にならない。

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宿の貸し切り露天風呂。湯温は41℃くらいか。屋根なしの露天なので、首から上が雪に降られる。いくらでも入っていられる。洗い場にも雪がうっすら積もっていて滑る。

 明日はさらにこの地方も30センチほど積もると天気予報で言っていた。

飛騨ミュージアム・大橋コレクション

 高山から平湯に向かう途中に飛騨大鍾乳洞がある。三十年以上前に一度訪ねている。洞窟好きで、鍾乳洞は機会があれば立ち寄る。何度も入った鍾乳洞もある。

 人が少ない鍾乳洞はちょっとこわい。特に天井の暗がりを見上げたりするとなにかが潜んでいるような気がする。でもこわいからこそ面白い。自分の心がざわめくのが気持ちいいのかもしれない。ふだんはあまりざわめかないし・・・。沈滞した精神の池に石を投じてみるというところか。

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 鍾乳洞の観覧券売り場の前にとてつもなく大きな鍋がある。日本一宿儺(すくな)鍋とあるが、確かに日本一だろう。下はかまどになっているらしく、しゃもじや柄杓があるからどうも実際に鍋料理が出来るらしい。

 チケットを購入して中に入る。鍾乳洞に併設して大橋コレクションの展示場があり、そこへ立ち寄るコースになっている。
 そういえばここに展示されていた金塊が盗難に遭ったというニュースがあった。実際には本物ではなくてレプリカだったらしいが、さいわい戻ってきたらしい。それが展示されていたが、撮影不可とのこと。

 二階と三階が大きな展示場になっており、古今東西の、かなりの逸物がずらりとならんでいる。ほんの一部を紹介する。

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 これは中国の陶器や銅器。

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 唐三彩みたいだけれど多分新しいものだろう。

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 大好きなお面がいくつもある。

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 こわそうなお面よりも、こういう普通の顔のお面のほうがこわい。なんだか江戸川乱歩の小説に出てくる変質者みたいだ。

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 説明の通り。

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 ピラニアの化石。干物みたいだ。

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 魚の化石。

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  小さな恐竜の化石。化石大好き。

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 大きな大黒様と恵比寿様。

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 こちらも大黒様と恵比寿様。下からのライトでちょっと不気味。

 展示物はとても多いし丁寧に見たら一時間はたっぷり楽しめるが、鍾乳洞に早く行きたいので適当に切り上げる。このコレクションだけを見に来ても良いくらいの値打ちはあるのだが。

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 いよいよ鍾乳洞入り口へ。

  続く

よく食べよく寝る

 よく食べてよく寝た。でも子供ではないからもう育たない。多少腹回りが成長してしまうくらいか。期待通りに居心地の良い宿で、食事も美味しい。贅沢ではないが、気配りが感じられて気持ちが良いのである。

 雪は夜半にほとんどやんで、今朝六時前から入った露天風呂でも粉雪が薄い頭にわずかに感じられる程度の降りである。身体は温まるが首から上が零下の空気のなかにあるからいくらでも入っていられる。

 日ごろは睡眠の質が悪く、熟睡感が得られることが少ない。なるべく控えている睡眠薬を飲んだときだけは朝の寝覚めが良い。昨晩は早めに瞼が勝手に降りた。に三時間ごとにほんのちょっと目覚めたけれど、それでも爆睡した実感がある。

 この満足感が欲しくて温泉に来ていることにあらためて気がついた。

 天気予報では本日また雪が降るという。車は雪に埋まるだろう。散歩に出たくても雪では億劫だ。景色は一面の銀世界で山は見えないだろう。

 色を添えるために昨日見た氷の世界の写真を一枚。

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2018年1月22日 (月)

奥飛騨の温泉にいる

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 写真は着いてすぐに宿の部屋から撮ったもの。雪景色であり、今もしんしんと降っている。ガラスに網が入っていて映り込んでしまった。外は-2℃か-3℃で、これからさらにぐんぐん冷えるそうだ。

 家から奥飛騨まで、高速を使えば三時間あまりで着くが、急ぐつもりのないときは国道41号線で高山経由で行けば四時間あまりで着くから、本日はそのルートで行く。11時頃出ても十分であるが、雪が降ることが確実であるし、余裕をみて10時頃出発。名古屋には雪の気配もない。

 41号線は小牧インター出入り口前後でいつも渋滞する。なにしろこの周辺は大きな倉庫や機械製造の会社が多いから、トラックがとても多いのである。いつも以上に渋滞しているあたりを抜けて、犬山あたりを過ぎればあとは快走である。

 いつもなら雪が見え始める下呂温泉あたりにも雪は全くない。しかし下呂を過ぎてしばらくすると、ちらちら白いものが舞い始めた。予報通りの雪である。ちらりと雪をかぶった御岳が遠望された。

 ナビは高山市街に入らずに、ずっと手前でショートカットの道を案内する。時間が余るようなら飛騨民族村の雪景色でも見ようと思っていたのだが、高山にあまり雪がない気配なので(行ってみたら雪があったかもしれない)ナビに従う。

 これでは少し早く着きすぎてしまう。そこで洞窟好きの私はひらめいた。飛騨大鍾乳洞に行こう!確か冬は凍った滝も見られるはずだ。

 そうして鍾乳洞、そして大橋コレクションを眺めて時間調整をすることにした。それらについては明日にでも報告する。行って大正解、素晴らしいものを見ることが出来た。

 そのかわり、鍾乳洞前の駐車場に停めていた車はあっという間に雪に蔽われていた。道路も雪に蔽われ、センターラインなど全く見えない。登り坂でカーブも多い雪道をちょっと緊張しながら走る。そういえば雪道を走るのは今シーズン初めてである。

 宿に入ってすぐに浴衣に着替え、露天風呂で雪を眺めながら湯につかる。いつもなら、なにかがほぐれていくのだが、ちょっと緊張して運転してきたせいか、気持のこりはなかなかほぐれない。こういうときは湯上がりのビールである。

 そうしてビールで気持をほぐしながら降りつづく雪を眺めつつ、このブログを書いている。

梅原猛『シギと法然(思うままに)』(文藝春秋)

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 1990年代末(つまり世紀末)に新聞に連載されたエッセイをまとめた「思うままに」のシリーズの五冊目である。このあとも続いたのかもしれないが、私の持っているのはここまで。

 「シギ」とは鳥のシギであり、蔵前干潟の埋め立て反対運動に著者が賛同して、結果的に埋め立てが中止されたことを取りあげたことによる。諫早湾の潮受け堤防の反対にも賛同していたが、ギロチン(堤防の遮蔽板)が強行されて有明海の干潟が失われることについてもムツゴロウを引き合いに出して取りあげていた。こちらは『亀とムツゴロウ』のほうに記載されている。

 法然は浄土宗の祖師である。法然についてはかなり詳しく取りあげられている。もともと梅原猛は京都大学で実存哲学をテーマに思索を重ねて『闇のパトス』という論文にまとめている。そしてそのあと人間の情念をテーマに『笑いの構造』という本を上梓した。これらはまだ二十代のときである。その後日本人の精神の根底には宗教があると観て、日本仏教の分析を重ねた。さらにそこから日本古代についての研究に分け入っていく。

 それらを六十代を過ぎてからもう一度咀嚼し直しての思索の流れがエッセイとしてまとめられているのである。

 そう言えば私もその流れに沿って梅原猛を読んできたのである。賛同する部分、一方的な決めつけに反発する部分と多々あったけれど、今それを思い返し読み返してみるとずいぶんと影響を受けていたことが分かった。

 自分自身の思考の流れをもう一度見直すためにも、梅原猛や森本哲郎師の本を読み返してみようかと思っている。

 ところで、昨日のニュースで評論家の西部邁(にしべすすむ)が自死したようだというニュースを見た。この人の本も若いときによく読んだ。レトリックにあふれ、やや晦渋なところがあるから言わんとするところを読み取るのに骨が折れたけれども、読み慣れてくると分かるようになった。

 もう何十年も彼の本を読むことはなかったけれど、読みにくい本であっても読み込めばその書いてあることが分かるものだということを教えてくれたのは西部邁の本だった。大事なことが書かれているらしいことが直感で分かったら、難しそうでも読んでみるようになったのはこの頃からだ。

 彼の本は、私がスーパーサイエンスなどに傾きかけたところを引き戻してくれた。あのままいったら、もしかしてオウム真理教などに引き込まれたかもしれない。スーパーサイエンスからオカルトへ、そんな道が見えていた。そういう時代だったのだ。

 西部邁は本当に自死したのか、理由は何なのか、これから明らかになるだろう。残念である。

2018年1月21日 (日)

したりしなかったり

 いつも拝見している「けんこう館」さんのブログに金属の歯の被せものが取れたという話が書かれていた。実は私も先週初めに歯間ブラシで隙間を掃除していたら、左下奥歯の被せものが取れてしまったのである。はめればいちおう納まるが、ねばりのある食べ物を食べるとぽろりと取れてしまう。餅など食べているときにうっかり一緒に呑み込むおそれもあるので外したままにしている。

 その前から噛み合わせがおかしい状態が続いていた。古傷のアゴのちょうつがいのズレが歯の噛み合わせの狂いと合わさって、ギシギシいう度合いがひどくなっている。歯医者に行かなければならないと思いながら、行くと多分あちこちいじらなければならない部分があるので治療が長期化しそうな気がする。

 そうなると遠出がし難くなるのがイヤなのである。アゴをギシギシいわせ、歯にやたらに物が挟まる状態で「歯医者に行かなければ・・・」と思いながら行かずにいる。

 来月の連休に、恒例にしている酒蔵の新酒試飲会がある。もともとは津島酒造組合主催の蔵開きに参加することで始めた試飲会の参加だったが、その組合も半減して、今も続いているのかどうか知らない。この十数年は、ある酒蔵の試飲会にずっと行くようにしている。仲間をつのっていく。いつも五六人で参加する。大阪や京都や奈良から来る友達もいるので地元の私が幹事もどきの役割をする。

 幹事といっても集合の日時と待ち合わせ場所を連絡するだけである。いつも名古屋駅で集合し、デパ地下でつまみになりそうなものを調達、それをぶらさげて名鉄電車に乗っていく。以前は一月末乃至二月初めだったのが、今回は遅い。酒蔵から私に案内の葉書が送られてくる。それを見て皆に連絡する。葉書はだいぶ前に来ているが、そろそろ皆に連絡しないとどうしたのかと思われるので、来そうな人、来て欲しい人にいっせいにメールを送信した。

 こういうことはちゃんとやるのである。以前は酩酊して粗相をしたこともたびたびだが、今はそこまで羽目を外さない。外さないつもりだが、調子に乗ると分からないのが酔っ払いである。ただ、新酒会のあと、名古屋駅前のデパートの最上階で牡蠣のがんがん焼きをみなで食べるのがここ二三年の楽しみにもなっているので、多少歯止めにはなっている。もちろんそこでも酒を飲む。

 二ヶ月以上床屋に行っていない。薄くなって残り少ない髪をいじられるのがわずらわしい。何しろ床屋まで出かけるのが面倒だ。髪が伸びすぎても鏡さえ見なければなんということはない。しかし襟足がぼさぼさしてくるのはいかにもむさ苦しくてそれだけは気になって仕方がない。

 思いきって出かけると、髪を切ってさっぱりして、今度はこんなに間隔を空けずに来ようと床屋でいつも思うのだが、思うだけである。行くのは新酒会の前くらいにしようかなあ、などとまた先延ばしにすることを考えている。

寒波

 明日から三泊四日で奥飛騨温泉に行く。前から行きたくてなかなか取れない、安いのに評判の良い宿が予約できたのである。冬とはいえ晴天の日もあるだろう、そのときは新穂高のロープウエイや付近の散歩くらい出来るだろう、などと思っていたのであるが。

 ところが最強寒波が襲来するという。そして予報では滞在中はすべて雪である。

 そもそも奥飛騨までの道路は大丈夫であろうか。だんだん天気が悪くなるということなので、明日は早めに出かけることにしようと思う。今回もセミ湯治、読書三昧になりそうだ。

 敬愛し私淑している森本哲郎師の文章の中に、タッシリナジェールという古代のアフリカの遺跡に行く許可を待つ間、延々とサハラ砂漠の掘っ立て小屋のようなホテルに足止めされる話がある。そのときにさまざまなことを思索するのであるが、その無為ともいえる時間こそがもっとも貴重な時間であることを師は悟る。

 日ごろからボンヤリしていることの多い私であるが、さらに徹底してボンヤリすることが今回も出来るようである。だいたい生活は些事で出来ている。その些事でボンヤリは大いに妨げられるのであるが、温泉であれば些事はほとんどない。些事がなければ思索は深まるか?

 そもそも思索するほど緻密な頭でもないから、ボンヤリ具合がさらに進むだけかもしれない。

2018年1月20日 (土)

葉室麟『天翔る(あまかける)』(角川書店)

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 先日読んだ『大獄 西郷青嵐賦』は、西郷吉之助(隆盛)の視点(根底には島津斉彬の思い)から語られた明治維新前夜の話であるが、こちらは幕末の福井藩藩主・松平春嶽の視点からの物語である。

 松平春嶽は、島津斉彬、伊達宗城(むねなり)、山内容堂とともに幕末四賢候と云われた。春嶽は徳川御三卿のひとつ、田安家の生まれであるが、徳川将軍家慶の命で越前松平家を継いでいる。幕末四賢候はみな隣国の清が西洋列強に蚕食されている実情をよく知り、しかも西洋の軍事力が高いことも承知していた。そしてこのままでは日本も清国と同様、亡国の淵にあることも弁えていた。

 だからみな開国派である。

 歴史家は、明治維新が尊王攘夷派の志士たちによって成し遂げられたと伝えてきた。しかし彼ら下級武士たちだけで明治維新が成ったわけではないことがこの本で語られている。

 NHKBSの歴史ドキュメントの番組で、薩摩の家老、小松帯刀が取りあげられていた。NHKの大河ドラマ『篤姫』で、瑛太が小松帯刀を演じていた、あの小松帯刀である。番組で語られていたことで強く印象に残った言葉が、「明治維新は下級武士の力だけで成し遂げられたのではなく、小松帯刀のように地位と知名度の高い、信用のある人が実は歴史を動かしたのである」というものであった。

 その言葉の意味がこの『天翔る』という本を読むと本当に実感としてよく分かるのである。京都で尊攘派がテロに明け暮れ、血で血を洗う闘争を繰り広げ、明治維新後その功績をたてに長州出身者が多く重職に就いた。

 しかし、彼らは本当に幕末から明治維新への歴史の転換にそれほどの功績を挙げたといえるのか。この本はそれをあらためて考えさせてくれる。

 続けて読んだ葉室麟の『大獄 西郷青嵐伝』と『天翔る』で複眼的な幕末史の知識を得ることができた。これに長州側の誰か、たとえば木戸孝允(桂小五郎)などの視点から書かれた本があればよいのだが、残念ながら葉室麟はもうそれを書いてくれないのである。

 代わりに、村松剛の『醒めた炎 木戸孝允』でも読もうか。ただしこの本は分厚い本で全四巻の超大作である。素晴らしい本で、幕末史についてはほとんどこの一作で網羅されているといっても良い本である。いつかまた読み直したいと思ってはいるが、ちょっとハードだからなあ。この本は中公文庫で手に入る。

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夏木陽介から沢口靖子を

 俳優の夏木陽介が亡くなった。彼の出ている映画を夏木陽介だと意識して初めて観たのは、武田鉄矢主演の『刑事物語3 潮騒の詩』だった。どうして覚えているのかというと、この映画は沢口靖子のデビュー映画だからだ。星由里子が母親役で、父親役が夏木陽介。父親は指名手配犯で(多分濡れ衣だった気がするが、よく覚えていない)、武田鉄矢扮する刑事が張り込みをする。ここで沢口靖子と絡むわけである。木製のハンガーをヌンチャクのように使った格闘が面白い映画だった。

 だから夏木陽介というとすぐこの映画のことを思い出し、沢口靖子を思い出すのである。デビュー映画だから演技はぎこちなかったけれど、やはりそれなりのオーラがあるなあと感じた。

 今『科捜研の女』シリーズの再放送を楽しみに観ているので、私にとって沢口靖子は顔なじみなのである。ただしこのシリーズ以外はきりがないので見ないことにしている。

 夏木陽介本人にはそれほどの思い入れはない。何しろあまり出演作品を観た記憶がないのである。

2018年1月19日 (金)

兼業、副業、アルバイト

 ベトナムへは二度行った。それでも機会があればまた行きたい。ベトナムでは信号が少ないから、道路を渡ることに慣れなければならないという難点があるが、それも二時間も経てばコツを覚えて地元の人並みに渡ることができるようになる。要は思いきりと度胸である。ためらうのが一番危ない。なによりベトナムの人々はフレンドリーで居心地がいいのである。

 ベトナムは若い人が多い。ベトナム戦争でたくさんの人が死んだのであろう。日本の戦後と同じである。年寄りより若者が多いから活気がある。そしてどこの国の人よりもみな働き者である。仕事がひとつだけという人はほとんどいない。たいていの人が二つ以上仕事を持っている。土日に仕事をすることも厭わない。

 収入に対して高価な土地や家などの不動産を手に入れるのが彼らの夢である。それなのにあまり中国のような拝金主義的な感じがしないのはどうしてだろうか。金を貯めることそのものが目的であるのが拝金主義で、ベトナムの人には金を貯めるのは家や土地を持つというはっきりとした目的があるからだろうと思う。

 昼間の仕事、そして夜も働き、土日も働く。みんなそうだから疲れ果てた顔をしたりしない。「過重労働?何のことだ!」と彼らは言うだろう。働かされているのではなく、自分の意志で働いているのである。

 日本では副業やアルバイトを社則で禁止している会社が普通である。人手不足の時代を迎えて、企業に副業や兼業、アルバイトを認めさせるようにしていくことになった、とNHKのニュースで報じていた。

 特に大企業の優秀な人の余力を中小企業の人手不足に振り向けることで、人手不足対策にすることを狙っているのだそうだ。これから企業の社則が変更されて仕事を二つ以上持つ人が増えるのだろうか。もともと日本人は働くのが好きだから、就業機会を増やすことが社会にとって有用だというのだろう。

 しかし、なんとなく話に違和感がある。働き方改革で就業時間の短縮を推進し、有休の消化を促し、残業時間に枠を決めて制限していこうとしたのではなかったのか。副業兼業アルバイトによって労働時間はどうなるのか。誰が総労働時間を管理するのか。残業を減らしてその分アルバイトをすることは過労にはつながらないのか。それは働く人の自己責任か。

 矛盾する施策をどうつじつま合わせするのだろうか。

 単純労働はどんどん機械化され自動化して省力化し、人出があまり必要ではなくなっていくだろう。就業機会のある職業が変わりつつあるようだ。有能な人だけがますます多忙になるのだろう。これは貧富の差をますます拡大することにつながるだろう。

 ワークシェアといいながら、仕事の分配が偏る傾向が促進されるのかもしれない。

春遠からじ

ベランダの上には上の階のベランダがある。これが張り出した廂(ひさし)となっている。冬は太陽が低いので、廂に関係なく部屋のかなり奥まで直射日光が射し込む。夏は太陽が高いから廂に遮られて部屋の中には日光は直接射し込まない。まことに具合がよく出来ている。

 時間とともに太陽が移動する。光を浴びるのは心地よいのであるが、日に当てたくないものも身の廻りにある。お茶各種、薬、光で劣化するディスクの類である。しまっておけばよいのだが、坐ったまま用を足そうとするので光の当たる場所に出たままになっているのだ。日射しがありがたいような、ちょっと迷惑なような、しかしカーテンを閉めるのもどうかと思ったりしている。

 気がつけば上に何かをかぶせたりして光が当たらないように注意はしている。その日射しの射し込む範囲がこころなしか狭まっているようである。年末年始の頃にはあんな奥まで射し込んでいたのが、このごろは多少遠慮した位置にまでしか射し込んでいない。

 日が長くなるに従い、太陽は少しずつ高くなっているのであろう。まだまだ冬の寒さは続くけれども、その中に春に向けての兆しがちょっとだけ感じられる。虫ではないけれど、啓蟄に向けて私の心も蠢きだして来そうである。真冬にこそ思う、春遠からじである。

2018年1月18日 (木)

祖父のこと

 明治生まれで頑固爺そのものだった母方の祖父は、孫の私にも厳しかったが、どういうわけか私はちっともこわいと思わず、そのためけっこう可愛がられた。私のしつけの八割は、両親ではなく祖父母に仕込まれた。小学校の一年生くらいから夏休みや冬休みはもちろん連休などがあれば、独りでバスで一時間ほどの祖父母の家に泊まりに行った。夏休みなどはほとんど祖父母の家で過ごしたものだ。

 古い絵日記などを見るとそれが分かる。あの絵日記はどこに行ったのだろうか。

 祖父は明治28年生まれだったはずである。理科系人間でずっと物理や化学、地学の教師をしていた。どう考えても文化系の私が理科系に進んだのも祖父の影響が大きいのである。

 女学校の教師のときに生徒の一人を見初めて、卒業と同時にその女学生の家に乗り込み、結婚を申し込んだ。それが祖母である。結婚して母が生まれたとき、祖母は17歳だった。だから祖母は私が生まれたときにはまだ40過ぎであり、おばあさんではなかった。私の手を取って歩いていると、しばしば遅くできた子供と間違われて嬉しそうだった。

 歳をとってからも仲がとても良くて、祖母は100%祖父に頼りきりだった。祖父は公立の高校の教師を勇退したあと、私立の高校の教頭格で70歳過ぎまで教師を続けた。ついに自発的に引退するとき、その理由を黒板に字を書くときに「上向きに頭をあげ続けるとくたびれるようになったから」と笑いながら私に言った。

 その祖父も90を過ぎることから認知症になった。しばらくしたら、ずいぶん年が離れているのに祖母の様子がおかしくなった。祖父に支えられた一生だったので、祖父の面倒をみるどころか自分も後を追って認知症になってしまい、その面倒は結局私の両親が見ることになった。

 そのころ私は家族や祖父母とは離れたところに暮らしていたので、めったに祖父母を訪ねることが出来なかった。無理をして訪ねることは出来たけれど、変わり果てた祖父母がみていられないというのが本音であった。

 今思えば悔いの残ることであった。顔を出せば喜んでくれるのが分かっていたのに・・・。

 私が子どもの頃可愛がってくれていた祖父の歳を今越えつつあることに気がついて感慨を覚えている。

集中力

 人生の要諦は「集中力」であると私は思い、子どもたちにも繰り返しそう伝えてきた。本当の実力は持続力かもしれないが、私には残念ながらそれがあまり備わっていない。集中力と持続力がともに備わっている人こそが人に優れた功績を残す人である。

 私はそのような優れた人たちからみると能力が劣ることを若いときに繰り返し思い知らされてきた。多少の自負はあったのであるが、人並みかそれ以下であることを理解する程度には愚かではなかったのである。

 それでも集中力には自信があった。人より劣っていても、集中しているときには実力以上の能力を発揮できることに気がついていた。あとで考えるとどうしてそんなことが出来たのか、と思うようなことがしばしばある。だから試験は得意である。一夜漬けは得意だし、試験の時の集中力は自分でも驚くほどである。頭がフル回転して熱くなり、顔が真っ赤にほてって、しかも膨張してくるのが分かるのである。

 そういうときは不思議なことにうろ覚えのことが頭の奥からすらすらと出てくる。そして集中して思いだしたものは記憶に刻み込まれて忘れないものになる。だから試験は好きだったし、試験のおかげで増えた知識はたくさんある。

 そのかわりふだんはボンヤリしている。

 現役時代は営業という仕事をしていた。営業は人に会う。どんな人とどんな展開になるか、事前に頭の中でシミュレーションをして面談に臨むのであるが、想定通りに行くことはまずないし、そもそも想定できる予備情報のないことの方が多いものだ。

 行く前はずいぶん緊張するし、ときには逃げ出したくなることもあるけれど、目を瞑ってエイヤッと場に臨む。そうすると思ってもいない自分がそこに現れる。ほとんど考える前に言葉がどんどん出て来るし、相手の言葉の意味も頭にスイスイと入ってくるのである。

 後で考えるとどうしてそんなにうまいことしゃべれたのか自分でも分からない。自分でない自分が勝手に話を進行しているのである。

 もちろんいつもいつもうまくいくとは限らないが、ふだんの自分では出来ないレベルの仕事が、集中すると何とか多少とも出来ることは不思議なほどである。

 本を読んでいてもそういうことがある。そういうときは回りの一切が五感から飛んでしまっていて、時間すらそこにはない。気がつくと一気に百頁も二百頁も読み進めていて驚く。

 それなのにその私の集中力の出現が、近頃めったになくなったことはまことに残念である。それは歳のせいであることはもちろんであるが、どうも自分をそういう状況に追い込むような機会がなくなっているからであるように思う。

 予定をほとんど立てず、知らない人に会う機会の多い独り旅をするのも面白いかもしれない。どうしていいか分からない事態こそ、私を励起させるような気がする。今年は極力そんな旅を実行しようかと思う。

 ただ一番心配なのは、今までは酒を飲むと記憶力が回復するという超能力があったのに、今は飲むほどに記憶があいまいになるところをみると、長年の深酒で私の集中力が錆び付いてしまっているかもしれないことである。窮地に立ったらますますうろたえてしまうようなら、もう終わりである。そうなる前にとことん緊張感に自分を追い込む場面をつくることにしなければ・・・。

 そういえば昨年なかばまでの三年間は、ストレスフルな裁判沙汰(調停や審判など)が続いていた。これは精神の退化を食い止めはしたけれど、あまりのストレスで、人生初めての不眠になってしまった。今もそれが尾を引いて睡眠のリズムは狂ったままだし、不定期の睡眠薬の服用は続いている。

 ああいうのはできれば願い下げだが、人生は好事魔多しである。明日なにがあるか分からない。それを切り抜けるためにもささやかな自分の能力を磨いておく必要があるかもしれない。ボンヤリしてばかりいられないのである。 

2018年1月17日 (水)

こだわる

 むかしは文字通り乱読だった。面白ければそれで好いと思って、手当たり次第に面白そうな本を読んだ。当然エンターテインメントの本ばかりだから「ああ面白かった」で終わりである。めったに心に残る本に出会わなかった。だから特定の作家をまとめて読むなどということはほとんどなかった。

 せいぜい集中して読んだのは芥川龍之介くらいか。そのおかげで、あとで今昔物語に導かれたのは幸いであったが。そのあと高校時代に友人が父親の井上靖全集を持ちだしてきて勧めてくれた。全部で10冊を超えた全集を次から次に楽しみながら読んだ。初めての全集読破であった。さらに今度は日本文学全集や世界文学全集を読みまくったが、たいてい読み飛ばしでほとんど覚えていない。しっかり読んだのはヘルマン・ヘッセとホフマンくらいかもしれない。

 今は小説でもエッセーでも一人の人を集中して読むことが多くなった。ある程度食傷するまではそれが続く。だから気にいるとその人の本をまとめ買いしたり買い集めたりしてしまう。そうしてすべて読み切る前に他の人の本に移ってしまうから、読み残しの本が当然どんどん増えてしまうのである。

 いま新刊を読むのに並行して、それらの読み残しの本やむかし傾注した人の本をまた読み直している。最近は梅原猛を読み直しているところだ。すでに五六冊読んだけれど、まだしばらく続きそうだ。若いときに読んだ感想と、今の感想は同じでもあり、またずいぶん違うところもある。

 その違いは読み方が多少は深くなったということだろうか。それはそのまま自分自身が若いときの自分ではないことの証でもある。なんとなくそのことを感じることが面白い。

 何かを考えるとき、あちこちきょろきょろしてばかりいては考えがまとまらない。だから本もある程度こだわって定点観測のように同じ本を読み直すことも良いものだと、このごろ感じられるようになった。乱読に明け暮れた若いときの私が聞いたら驚くだろう。

 読み返したい人たちの本が棚に並んでいる。それらを列記していけば、私という人間がどういう人間か分かる人には分かるかも知れない。機会があれば主なものをここに書き出すこともあるだろう。別に隠すことではないし。

葉室麟『大獄 西郷青嵐賦』(文藝春秋)

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 維新前夜までの西郷隆盛が描かれている。まだ西郷吉之助であり、西郷隆盛とは名乗っていない。ラストはよんどころない事情で奄美大島に暮らして(藩命による島流しとはされていない)いた西郷が、島妻の愛加那と子を残して、再び幕末の風雲の中へ踏み出すシーンである。これは文藝春秋に連載されていたもので、最後が昨年の六月号であるが、このあとも書き続けていたのだろうか。それならば完結せずに絶筆になっているのかもしれない。

 始めのほうで、薩摩藩島津家のお由羅の方騒動の話が少しだけ語られている。このお家騒動については若い頃読んだ海音寺潮五郎の『二本の銀杏』という小説で承知している。西郷隆盛といえば海音寺潮五郎(鹿児島県出身)である。そして江藤淳も西郷隆盛に詳しい。

 この小説で描かれている西郷吉之助は明るく強く理想に燃えている。そして友である大久保一蔵もそうであったけれど、時代が彼らを変えていく。全体としては、西郷吉之助が敬慕する島津斉彬と、それを恐れる井伊直弼の争いが描かれていく。実際は西郷吉之助、福井藩(松平春嶽)の橋本左内らの一橋派と井伊直弼の腹心である長野主膳らが朝廷をめぐって争うことになる。そして旗色の悪くなった井伊直弼の断行したのが安政の大獄だった。

 安政の大獄の嵐が吹き荒れる中、島津斉彬は急死する。健康だった斉彬が急死するのは、父親の島津斉興による毒殺だったとこの小説では断定している。これは小説家の空想ではない。まさにお由羅の方騒動では不思議な急死があいついで起きているのだ。しかも斉彬の子どもたちは次々に死んでいる。前藩主の島津斉興とお由羅の方が、お由羅の方の子どもである島津久光(斉彬の弟)に実権を移そうとしたとしてもおかしくないし、井伊直弼の恫喝で、島津斉興が藩のためとの口実で、息子の斉彬の毒殺を指示したことも十分あり得るのである。
 
 西郷隆盛は少し理想化して描かれすぎてきたように思う。西郷隆盛を知る人ほど彼の魅力に取り込まれるようだ。そういう意味ではこの小説もその傾向がある(主人公だからしようがないのである)。とはいえ幕末の朝廷と幕府内の動向がとても分かりやすく絵解きされていて読みやすい。多分西郷隆盛のすごさ、清濁併せ呑む怖さはこの小説のあとに描かれていくはずで、それが読めないらしいことに残念な思いがする。

 葉室麟様、ちょっと亡くなるのが早すぎます!

 昨日発表された芥川賞に若竹千佐子さんの『おらおらでいぐも』が選ばれた。つい先日読んだばかりで、このブログに取りあげたところである。なんとなくわがことのように嬉しい。

2018年1月16日 (火)

セキュリティ

 セキュリティといっても、デジタル世界のセキュリティのことではない(もちろんデジタルセキュリティは悩ましい問題である。何しろその仕組みがさっぱり分からずに利用しているから、その危険性はあたかも魔物の如く恐ろしく感じられる)。

 温泉にときどき行く。日帰り温泉だったり、安い民宿温泉だったり湯治宿だったりすることが多い。そこでは何しろ鍵が不備であったり、なかったりする。カメラ一式、パソコン、もちろん財布やカードは大事なものであり、失いたくない。

 そういう宿で盗難のおそれを問うと、「いままでそんなことはなかったし、そんなおかしな客はここには来ませんよ!」などと一笑に付される。ところが風呂場などに「最近脱衣場荒らしが出没しているので貴重品に注意!」などと貼り紙があったりするのである。

 むかしはたいした持ち物もなかったからフスマだけでドアなどない部屋に平気で泊まっていたものだった。失うものがない時代が気楽で懐かしい。しかし世の中には見つからなければ悪いことをするという輩が必ずいるものである。たまたまそんなものに遭遇しないと誰が言えるのか。

 そうしてきっちりとドアの閉まる宿に泊まるようになっていく。次第に宿泊費もかさむ宿に泊まることになるわけで、金にゆとりが無い境遇になっているのに却って金がかかるのはつらい。

 そんな宿なのに、脱衣場に鍵のかかるボックスを置いていないところも多い。脱衣籠にただ鍵をほうり込んでおくしかないのである。これでは部屋の鍵の意味がないではないか。私は長湯である。露天風呂があれば露天風呂でゆっくりする。そんなときに脱衣場が気になり出すとおちおちしていられない。

 最近はどこの温泉宿も日帰り入浴を受け入れているのである。そのような人のなかにおかしげな人がいない保証があるだろうか。こっそり鍵を持って行かれて荷物を盗まれて、そのまま逃げられても誰やら分からない可能性もある。

 そうしてつまらないことを気にかけていると、温泉でゆっくりすることができなくて何しにいったのか分からない。私は出来る場合には、たいてい帳場かフロントに鍵を預けるようにしている。それを一笑に付されるのであるが、自己防衛による安心は何より大事なのである。

 温泉宿は須く、ちゃちでも良いから鍵付きのボックスのある脱衣場にして欲しいものである。まあ悪い奴は目をつければどうとでも悪さをするのだろうが、出来心を押さえる役には立つだろうし、こちらもゆったりと風呂に入ることができる。

批判

 全員が賛成する意見は見直した方が良いという。批判的な意見は必ずあるもので、それがないことこそが問題だ、という。

 それを逆手にとって田嶋陽子に孤軍奮闘をさせているテレビ番組もあるが、なに、あれは田嶋陽子自身が自分の役割を弁えて演じているだけだ、という辛口の意見もないことはない。

 センター試験の当日の列車が事故で遅れ、パトカーが受験生を試験会場まで送ったという話がニュースで報じられていた。よかったな、というのが大方の素直な感想であろう。

 そのパトカーの所属する警察署にも賛辞の電話が寄せられたという。ところがその中に、「税金の無駄遣いだ」と苦言を呈する人など、少数の批判の意見も寄せられたという。

 そんな意見があっても報じられなければ誰も知らないので報じなければ良いものだが、知ればそのことを考えてしまう。警察の業務としては、確かにいささか逸脱しているといえないことはない。当然本来の業務があればそれを優先するだろう。しかし事件を放置して受験生を試験場に送ったということではないようである。

 「税金の無駄遣い」という批判は正論なのだろうか。警察は市民のために働いていて、それに対して税金が使われている。受験生も市民であるから、困っていれば助けるのは別に差し支えないだろうと思うのが正常である。受験生は列車の遅れで試験に間に合わなくなることを胸がつぶれる思いで心配していただろう。その気持ちが誰にも分かるからパトカーの行為を多としているわけである。

「税金の無駄遣い」という批判には、特定の誰かに個別的に税金を振り向けるのは不平等であるという論理が見えるがどうだろうか。しかしさまざまな事案に警察が対処したら、当然それは個別的な税金の投入になる。そんなことを斟酌したら何も出来なくなってしまう。

 確かに受験生の問題は、自己責任で対処すべきだというのは正論かもしれない。サービスの枠を拡げていけば際限がなくなる。不要の110番通報や身勝手な救急車の要請などが問題にもなっている。そういうものとして今回の善意を解釈したのかもしれない。

 それでも、良いではないか、よかったではないか、と思う人が大半である日本社会は健全だと私は思い、批判する人がいることに驚くのである。

2018年1月15日 (月)

角井亮一『物流大崩壊』(宝島社新書)

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 帯に「ネット通販は破綻する!」とある。なぜ物流は崩壊するのか?なぜネット通販は破綻するのか?と思うだろう。しかし著者はそんなことを訴えたくてこの本を書いているのではない。そもそも「なぜ」と問うた時点で、問われたことはすでにほぼ事実だと認めたことになるので注意が必要だ。

 ネット通販の急拡大によって、物流量が急増していることは誰にも実感として理解できることであろう。そのことでネット通販の物流を担う宅配便がパンク寸前の状態であることは、ニュースで大々的に取りあげられたので承知の人が多いはずだ。かといってネット通販の拡大はまだ途上であり、更に拡大し続けることはほぼ明らかなことでもある。

 だから物流業界がそれに対応できなければ「大崩壊」や「破綻」が起きるという危惧は根拠のないことではない。しかし世の中は予想できることには対処をするものだ。この本はそのような現実の物流の状態の分析を詳細に行った上で、その問題点を明らかにし、さらにさまざまな対処法を物流業界や通販会社が行っている事例を列挙したうえで、著者の考える物流の効率化と増大する物流に対応するための方策についての提言を行っている。

 思えばむかしは郵便小包か運送会社しか荷物発送を頼める場所がなかった。料金は高いし、梱包に対しても注文がうるさいし、しかもいつ着くか業者任せであった。それを打破したのが佐川急便であり、続いたヤマト運輸であった。既得権益を守ろうとする既存の運送業者からの抵抗は凄まじく、大変な苦労をしたことは伝説になっている。

 しかし既得権益にあぐらをかいている業界は、競争に曝されれば意気地がないものである。世の中の必要があっての宅急便の出現に対抗しようとしても頭がついていかなかったのであろう。そもそも既存の運送業者は会社から会社への荷物の配送を仕事として認識しており、個人向けの配送など歯牙にもかけてこなかったのである。

 そのような一大変革があった。そしてネット通販が次第に一般化し、アマゾンが日本に上陸したことで新しい大変革が始まったのである。物流が増えれば利益も増えると期待して、宅配会社は価格競争によってシェア確保、拡大を図った。しかしそのために配送運賃の低下が進みすぎて配送料が増えても利益が確保できない、または赤字になってしまうという本末転倒の事態になってしまった。

 このシェア維持のために過当な価格競争を行い、赤字になってしまうという愚かな事態は、私も営業としてさまざまな業界で目の当たりにしてきたので良く解る。利益が取れない価格を設定することは自社に対する背信行為だという認識がないのは、繰り返すが愚かなことである。その話について詳しく話し出すとまた別の話になるので今回はここまでとする。

 その過当競争による採算悪化のツケはどこに向けられたか。ご存知のように宅配便のドライバーに向けられたのである。過重労働で伸びない賃金が彼らを疲弊させている。ついに彼らも悲鳴を上げて会社に抵抗したのである。そしてアマゾンに対して値上げを申し入れて拒否された佐川急便はアマゾンから撤退した。そのあとを引き受けたヤマト運輸は短期ながらついに赤字に転落した。扱い量が増え、ドライバーに過重労働を強いた上に利益がないのでは踏んだり蹴ったりである。

 宅急便のドライバーはもともととても忙しいので若くないと務まらないと言われている。それでも給与がけっこう高かったからみな意欲的に働いていたのである。それがそれほど高給でもないのに過重労働では、ドライバーの需要は増えていても、なり手が増えない。

 運送業界全体でもドライバーの不足が深刻になっている。特にオリンピックに向けてその資材運搬のためにドライバーが向けられているために、一般流通のドライバーが不足し始めている。更に深刻なのが、高齢ドライバーの退職がこれから一気に起こるという事態である。いわゆる団塊の世代の退場がドライバーにも起こるのは必然である。ベテランドライバーの大量の退場である。

 それらすべての問題を抱えた物流業界がこのまま手をこまねいていれば「大崩壊」や「破綻」が起きるのは避けられないのであるが、ではどうするのか、というのがこの本のテーマであり、ネット通販の恩恵をこれからも我々が受け続けるにはどうするのが良いのかを考えさせてくれるのがこの本なのである。

 もちろん再配達の問題についても詳述されていて、なるほどさまざまな対策のアイデアがあるものだと感心させられるはずである。

2018年1月14日 (日)

久しぶりに

 正月前後に録りためたドラマやドキュメントがたくさんあって、それらを次々に観ては消去している。ドラマでは『相棒』や『科捜研の女』の新作や再放送がたくさんあった。それ以外にも観たいものがあるが、きりがないのでその二種類だけに限定している。その再放送の中にはすでに観たことがあるものも多いのだが、観始めると面白いので、犯人が分かっているのについ最後まで観てしまう。

 こうしてこのところ忙しいのである。娯楽に忙しい、などと言っていると御仕事に忙しい現役の人たちに申し訳ないが、このような娯楽はもっとも金のかからないもので、リタイアした人間には有難いのである。

 それでもいささかテレビを観るのに飽きてきた。テレビに飽きたら本を読めば良いのであるが、不思議なことにテレビに食傷すると本を読む意欲も減退するのである。

 北側の寝室をオーディオルームにしていて、そこで音楽を聴く。なかなか良い。しかし生来の貧乏性で、黙って音楽を聴いているだけでは手持ちぶさたである。その部屋は同時に遊び部屋でもあり、Windows-XPの古いデスクトップパソコン(もちろんセキュリティのためにネットは切断してある)がゲームマシンとして現役で稼動している。音楽を聴きながら、ここで囲碁やマージャン、シミュレーションゲームである大戦略ゲームなどで遊ぶ。

 最近は囲碁を楽しむ程度だったが、ずいぶん久しぶりに大戦略(お気に入りはキャンペーン版で、何度やったか数え切れないほどだ)をやり始めたら、夢中になってしまってやめられない。最適のシナリオや部隊配備はすでに頭に入っているので、必ず勝ち進めることが出来るのであるが、自軍の損害を最小にして敵を完膚なきまでに叩くという、アメリカ軍的な戦いを続けて快感を感じている。

 何百回目かの完勝に向けて、いま世界平和のために進軍中である。

前回の若干の補足

 孤独は寂しいもので、寂しい思いがつのることはつらいものである。そこでは、人は話し相手がいないことに耐えられずに自分自身との会話を始める。話しかける私と話しかけられる私は同じ私であるが、話しかけられる私は今現在の私であるとは限らない。過去の私であったり、未来の私であったり、こうでありたい私であったりする。

 そして更に孤独が深まれば、まさに今の私にそのような私たちが語りかけてくるようになる。こうしてさまざまな私たちが語りかけ、語りかけられて、それらがジャズのセッションのようであるような、にぎやかな孤独の世界が語られているのが、『おらおらで ひとりいぐも』という小説である。

 そういう会話の積み重ねが考えを深めていく。主人公の桃子さんという老女は、死んだ亭主もそう言っていたというように、もともとものごとを考えることが好きである。考えは自分の枠を越えられない、というのは間違いである。考えは自分の枠を越えるのである。そうして思考が深化すれば自分自身の枠も拡がっているのである。

 そうしてついに孤独の寂しさの極地を突き抜けたとき、自分自身がすべてのしがらみから解き放たれた自由な存在であることに気がつく。すでにうすうす桃子さんはそれに気がついていたけれど、それを真に悟るのである。

 そのとき彼女の目に映る世界は活き活きとして祝福に満ちている。老人であること、孤独であることは不幸せか?そうではないかもしれないことを気づかせてくれるという意味で、この本は素晴らしいのである。私は桃子さんに心から共感する。そしてこの本は、読んだら誰にでも分かるだろうが、久米宏の言うように「ゲラゲラ笑って読む」ような本では絶対にない。

2018年1月13日 (土)

若竹千佐子『おらおらで ひとりいぐも』(河出書房新社)

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 第54回文藝賞受賞作だそうである。著者は63歳の新人。55歳のとき、小説講座に通い始めて8年後にこの小説を執筆し、話題作となった。

 不思議な題名を書店の棚で見つけて手に取った。東北弁だとすぐ分かったのでその意味も見当がついた。迷わず購入した。一読、この本が傑作であることを感じた。

 表紙の写真は帯を外してある。帯が装丁を邪魔しているからである。帯の裏には久米宏と上野千鶴子が賛辞を寄せている。その久米宏の賛辞は・・・

「ゲラゲラ笑いながら読み始める
   音読すると更に可笑しい
   女74歳、僕は73歳
    潜行して読み進める、嗚呼、嗚呼
          読了しての感慨・・・内緒」

 何と虫酸の走る文章。久米宏が憎みたくなるほど嫌いになる。もともと好きではないが・・・

 この本をゲラゲラ笑いながら読む神経が理解できない。彼が異常でなければ、私がおかしいのか?ただ、音読することを勧めていることは正しい。正しいけれど、どれだけの人がこの文章を語るように音読できるというのだ!

 著者の若竹千佐子は遠野の人、この文章の東北弁は本物で、余程聴き慣れている人でなければここに書かれている言葉をそのまま聞き取るのは難しい。それでも多分たいていのひとはこの小説を読むことが苦労なく出来るはずだ。それが著者の力量なのである。

 ためしに「おらおらで ひとりいぐも」という題の由来と思われる文章を以下に抜粋する。

「体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。自分が分かっていると思っていたのが全部こんな頭でっかちの底の浅いものだったとしたら、心底身震いがした。
 もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。」

 東北弁と標準語が混在しているのだが、その書き分けが絶妙で、少しも破綻がないのは神業である。

 私は学生時代を四年間東北で暮らし、友人も多いから津軽弁以外は全く苦労なく標準語のように聞き取ることが出来る。だからこの本の東北弁はほぼ九割以上は語り言葉として聞き取ることが可能である。それはこの本を理解する上でとても有利に働いていると思う。

 亭主に先立たれた独り暮らしの老女の独白がえんんと続くが、老人であることとはどういうことか、人生とは何か、孤独と自由についての鋭い直感に充ち満ちている。

 読みやすいし、あまり厚い本ではないからすぐ読み終えることが出来る。そしてもう一度最初から読みたくなるはずだ。お薦めの一冊。

終わりの始まり

 私は澤田ふじ子の時代小説のファンで、彼女の作品はかなりの数読んできたが、いま手元に残してあるのは『公事宿事件書留帳』のシリーズのみである。このシリーズは、平岩弓枝の『御宿かわせみ』のシリーズと並んでその小説世界の登場人物となじみが深い、愛着のあるものである。

 その『公事宿事件書留帳』は幻冬舎の文庫のシリーズで揃えているが、新作がでているはずなのにしばらく書店で見当たらないので残念に思っていた。不思議に澤田ふじ子の本を揃えている書店が少ないのである。昨年できた名古屋駅前のゲートタワーに三省堂がオープンしていて、先日息子とぶらついたら、第二十一巻と第二十二巻が書棚に並んでいる。新作がとっくに出ていたのである。

 しかもその第二十二巻の帯には「菊太郎、最後の事件。人気シリーズ完結編」とあるではないか。著者になにごとかあったのかと思ったが、そうではなくて著者の意思で完結させたようである。

 シリーズの完結は愛読者としては残念なことであるが、どこかほっとするところもある。そのことこそが著者が完結させる理由かもしれない。

 まだどちらも読み始めていないのだが、第二十二巻のあとがきを澤田瞳子が書いている。この澤田瞳子という人の時代小説を店頭で見かけて、澤田ふじ子の新作だと思って買おうとしたことがある。しかし別人であることに気がついて棚に戻した。ただ同姓の作家でまちがえやすいなあとそのときは思っていた。

 ところが今回あとがきを読んで、彼女が澤田ふじ子の娘であることを初めて知った。そのあとがきで、澤田瞳子がこのシリーズを将来継承することを考えていると知り、なんだか嬉しくなった。平岩弓枝の『御宿かわせみ』が『新・御宿かわせみ』で登場人物を世代交代させて、江戸時代から明治時代に時代を移したように、世代交代させることを構想しているようである。

 澤田瞳子の作品を読んでみなければならないなあ、と今思っている。それよりもまず、この二巻を楽しむことが先であるが、他に読みかけの本が何冊も脇に積まれて順番待ちをしていて「割り込むなよ!」と文句を言いそうである。忙しいなあ。

2018年1月12日 (金)

揚げ足をとる

 ネットで海外ニュースを見る。外国語は全く駄目なので、翻訳されたものを読むことになるのだが、しばしばおかしな言い回しに引っかかる。特に韓国のニュースの翻訳に首をかしげることが多い。誰かが翻訳しているのか、それとも自動翻訳なのか。その翻訳に問題があるのか、もともとの言い回しが日本語に変換しにくいものなのか。

 中央日報のコラム「危険水準に達した韓国の専門家冷遇風潮」という記事から例を挙げる。

 モグラ叩きのハンマーのように経済主体が交替で叩きまくるのは青瓦台(チョンワデ・大統領府)参謀の過度な欲に見える。

 ・・・過度な欲?意味分かりますか?

「アマチュア外交」という汚名を被っても専門外交官の代わりに英語の下手な政権に近い人事を相次ぎ海外公館長に送り出す意地も専門家軽視の万華鏡だ。

 ・・・送り出す意地?専門家軽視の万華鏡?

 実際、歪められた専門家のせいで怒っている人が少なくない。

 ・・・歪められた専門家?たぶん専門家によって歪められた・・・という意味であろうか。

 全文は1/12(金)6:04中央日報日本語版を参照ください。

 結論は、「それよりさらに重要な教訓がある。トランプや文在寅政府に必要な徳目、圧倒的な専門性に対する尊重と謙虚だ」という末尾にある。

 ちゃんと専門家の意見を聞け!ということらしい。

 こういう粗雑な文章を読んでいるといちいち引っかかってしまって苦痛なのだが、あえて面白がるようにして我慢している。

上向き

 昨日は気分転換に散歩をし、トイレ掃除、台所回りの掃除をした。そういうことをする気になるのは気分が上向きであることの証だが、そういうことを意識的にすることが気分を上向かせることにつながっているとも言えるのである。

 そのあと『夢千代日記』全五回を休憩を入れながら一気に観た。出だしのタイトルバックの山陰線の風景に武満徹の音楽がかぶさって、一気に物語の世界に取り込まれる。特に余部の鉄橋の風景は、今はもう見ることはできないものなので感興を催す。

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 今の余部橋梁。右端の鉄塔があえて昔のものを残したもの。

 やはり吉永小百合は好い。意識的にほとんど聞き取れないような小声で台詞を語り、それでも集中して聴いていればかろうじて分かるという絶妙な演技で、夢千代という女性のはかなさを印象づけている。

 このドラマについては何年か前にこのブログで詳しく語ったことがある。今回特に感じたのは、林隆三の演じる刑事の強引さこそが山陰の湯里という温泉町のひなびた雰囲気とそこに吹き寄せられた人々の互いに寄り添い支え合うぬくもりを引き立たせているということであった。

 刑事は犯人を追い詰めてとらえることこそが正義を貫くことだという信念のもとに強引に人々の生活に踏み込んでいく。彼にはそれぞれの人にはそれぞれの抱えている哀しみがあることに気がつくことができない。彼は夢千代たちとの関わりの中で最後にそのことの意味と彼の正義との重さの違いをとことん思い知るのだが、そのときには彼自身がさまざまなものを失っていることに気付かされる。

 本当のやさしさは哀しみの先にあるということをあらためて考えさせてくれる。そして正義とやさしさの重さの違いも(そもそも比べられるものではないという反論もあろうが)。

 気力が低下しているときに観るには重いドラマだけれど、その分だけ微妙な台詞や演技の中に、より繊細に感じることができた気がする。何度観ても良いドラマだ。このドラマの続編である第二シリーズ、第三シリーズの再放送を切に望みたい。

 湯里(ゆのさと)という温泉は基本的に湯村温泉を舞台としているが、同時に浜坂という海岸の町も重ねられている。実際には少し離れているけれど、ここではひとつの町のように描かれている。ともに私の好きな町で何度も訪ねているが、それはもちろんこのドラマのイメージが強烈にあるからである。

2018年1月11日 (木)

自分だけは別だと思うらしい

 文在寅大統領の支持率は相変わらず高いが、それでも当初よりはじわじわと落ちているようだ。歴代の大統領の支持率を見ると、左派系の大統領ほど当選後初期の支持率が高いようで、朴槿恵大統領は当初低めの支持率から、反日親中国寄りの政策が奏功したのか次第に支持率を上げている。

 しかし政権末期には逆にすべての大統領の不支持率が高率になっていることは驚くほどである。韓国の大統領は一期五年と決まっているから、支持率が下がったから退陣したのではない。国民の多数から、よく頑張った、ご苦労様という声をかけられた大統領が一人もいないのである。 

 いや、ねぎらいの言葉よりも罵声を浴びせられた大統領ばかりというのが大方の印象であろう。そして退陣すると本人または身内が司直に訴えられ、安楽にその後の余生を送っているとはいえない。朴槿恵大統領に至っては任期中に弾劾を受けて牢屋にいる。

 どの大統領も自分が前車の轍を踏み、罵声を浴びせられることになることなど予想していないようである。自分だけは別だと思わなければ大統領になど立候補しないだろう。

 はたから見ているとその繰り返しに例外のないことが分かるのに、韓国ではどう思われているのだろうか。祭り上げるのも引きずり下ろすのにも明確な理由があると韓国の国民は言うだろう。

 しからば私はそのような引きずり下ろされるようなことをしないで国民のために頑張る、と思って次の大統領は立ち上がるのであろう。恐らく文在寅大統領もそう思っているはずである。

 しかし好事魔多し、国民は期待が高ければ高いほど些細なことで期待が裏切られたと受け取る。支持率の高い文在寅大統領が政権末期にどうなるのか、初めて例外的に拍手で送られる大統領になるのか、高みの見物をしたい。

 たぶん突然坂を転げ落ちると思うけれど。反日をはじめ、他人のせいにすることを正義として刷り込まれた国民は、あらゆる不満の矛先を大統領に向けるだろうことが明らかだから。それでも次の大統領が出てくるだろう。自分だけは別だと思って。

自分を疑う

 正月の酒を酌み交わしていたときに息子と言い合いになった。貴乃花についての意見が違ったからである。私が滔々と自分の見方の根拠を話していたら、「何で正月早々お父さんと(息子は親父などと呼ばずにちゃんとお父さんと呼ぶ)こんな言い合いをしなければならないんだ?お父さんはワイドショーの見すぎではないか」とさとされた。

 私は貴乃花についていろいろなことを知っており、自分なりに考えてきて、自分の貴乃花に対する判断は自分のものであると思っていた。しかし息子にそう言われて返す言葉がなかった。私が息子に一生懸命語っていた貴乃花についての評価は、はたして本当の自分の考えなのか、ワイドショーに刷り込まれた考えなのか分からなくなったからだ。

 息子から見てワイドショーの受け売りみたいに聞こえたなら、多分そうなのかもしれない。それにそもそも正月に口角泡を飛ばすような話題でもないものを話題としたことこそワイドショーの見すぎによるものだと言うしかないではないか。

 自分の考えだと思っていたものが実は自分がそう思わされていたのかもしれないと自分を疑うことをしないでいると、情報の量だけでものを判断してしまうおそれがある。ワイドショーは話題の取り扱いの優先順位が最近は異常であると感じながら、ぼんやり見ているとだんだん洗脳されていくおそれがある。マスコミの恐ろしさである。

 そんなささいな言い合いはあったけれど、もちろん息子とはわだかまりなど全くなく楽しい酒を飲んだ。息子にはいつもこうして教えられることが多い。親が言うのも何だが、なかなか大人なのである。

 ワイドショーは見ないつもりが、暇に任せてテレビをつけっぱなしにしているうちについ見すぎていたようだ。見るより見ない方が良いこともある。情報を取り込むと同じくらいボンヤリと考える時間も必要なので、暇なときは時間をそんなもので埋めないように心がけようと思っている。

2018年1月10日 (水)

絶不調

 本日は頗る厭世的な気分。めったにないことで、やり過ごすしかない。そういえばほとんど家にこもりきりである。しかし出かける気にならない。

 仕方がないから何もしないでゴロゴロしていることにする(ほとんどいつもそうだけれど)。ブログのネタはないこともないけれど、文章にまとめられない。

 私のことなのでこういう気分は長続きしない。明日には元に戻るはずである。

 そういえば昨夕スーパーに行ったらあまりの野菜の高いことに驚いた。しかも品揃えが少ない。翌日(つまり今日)が久しぶりの休業日なので、売りきりをするらしいが、それなのにほとんど値引きになっていない。買いたかったものが半分も買えなかった。豆腐まで買えなかった。

 気分はどうあれ、食べなければならないというのは人間は面倒なものだ。 

 今日は絶不調である。とはいえこんな駄文が書けるだけマシか。

2018年1月 9日 (火)

音楽を聴く

 ハイレゾ音楽を聴きだしたら、イージーリスニングジャズもいいなあと思うようになった。それを話したら、どん姫が「上原ひろみと綾戸智恵がいいよ」と教えてくれた。

 今日はなんとなく本を読んだり映画を観たりする気にならない。

 そこでどん姫の言葉を思いだして、e-onkyoから二人のアルバムを購入してダウンロードし、早速聴いてみた。上原ひろみのピアノは心地よい。あの大阪弁のおばさんとしてのイメージしかなかった綾戸智恵もぐっとくる。

 やはり音楽はいい音で聴くほど良いみたいだ。オーディオ装置のグレードがついエスカレートするというのが分かるような気がする。もちろんある程度の音量があってこそでもある。とはいえ野中の一軒家ではないから限度はあるが。

 しかしボンヤリ音楽を聴いていると、オーディオ用の新しいアンプが欲しくなる。今は、ハイパワーだが古いヤマハのAVアンプをオーディオ用に転用しているのだ(かなりいい音で聴けることは聴ける)。そんな贅沢をするゆとりはないが、それでもけずるものをけずればいつかはかなうかもしれない。夢見るだけでも楽しいものなのだ。スピーカーだってもっと良いのが欲しいしなあ。若いときにもっと無駄遣いをしないで残しておけばよかった。宝くじも買わなければ当たらないし。

梅原猛『癒しとルサンチマン』『亀とムツゴロウ』(文藝春秋)

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 ともに『思うままに』という題名で東京新聞に連載されていた随筆をまとめたもの。1990年代後半に書かれていて、その間に著者は胃がんで入院し、手術している。ガンは二回目であったが、発見が早く、今回も事なきを得たという。

 自己顕示欲が強いように見える著者も、入院の後の文章はこころなしか自省的に感じる。
「自分のよって立つ立場に対して少しも批判の目を向けない批判は真の批判とはいい難い」という言葉が記されていて、これは自分に対してではなく、当時社会主義国が崩壊してた後の状況に対して無自覚的な社会主義を標榜してきた人々に対する苦言であるが、そこに著者自身に対する内省がないとはいえない。

 今、小学校や中学校では日本神話は教えられていないから、日本神話について知らない日本人がほとんどとなっている。著者によれば、神話が学校で教えられないのは、戦後の日本の歴史学が津田左右吉の説を定説として採用したからだという。記紀神話は自己の政治権力を神聖化しようとした六世紀の政治支配者の虚構であるという説である。

 かつて記紀神話は万世一系の日本の国体の尊厳さを示すものだとして国家主義者によって利用された。津田左右吉の説はこのような国家主義的な歴史観に対する批判としては有効であったので、戦後の歴史学は国家主義的歴史観への警戒感から津田左右吉の説を金科玉条としてそれに対する批判を許さなかった。

 戦争に反対だから戦争に対して論ずることを反対したり、憲法を守るために憲法に対して論ずることも許さないというのが戦後の状況であり、日本神話についても同様に扱われたと著者は見る。

 その津田左右吉の説を前世紀末からの世界的な啓蒙主義や懐疑主義的歴史観の産物ではないかと著者は問いかける。はたして津田左右吉の説は正しいのか。

 こうして記紀神話の内容を取りあげながら、津田左右吉の説を批判していく。確かに古事記で語られている日本神話は、時の政権の正当性を意図していると決めつけるのは無理があるように思われる。色眼鏡で見さえしなければ、読めばそれが分かるはずである。

 ただ、そこで古事記を書いたのは柿ノ本人麻呂ではないか、という仮設を持ち出すのが著者の真骨頂である。その仮説の根拠は語られているけれど、私にはどうもそのまま受け取れない気がする。この暴走が著者らしいといえばそうなのだが、それを面白いと思うか、そこでばからしくなって本を放り出すか、人によって違うだろう。

 私は首をかしげながらも楽しんでいる。

 たくさんある文章のほんのひとつ取りあげてもこのように面白いし考えさせてもらえるのである。漱石論、環境問題、思想哲学論、古典など、多岐にわたってさまざまに浮かんだ考えをそのまま文章にしていて、自分が考えるための参考になる。

2018年1月 8日 (月)

新年の妄想

 年始挨拶をした北朝鮮の金正恩の姿に違和感を覚えた。声もいつもと違うように聞こえたし、語る内容もふだんと違うように思えた。何より私にはつい先日来よりも老けて見えたのだ。

 これは以前からささやかれている影武者ではないか。別人ではないか。

 専門家は声紋鑑定などでたぶん確認しているからそんなことはないのだろうけれど。分かっていても黙っている可能性もないではない。

 そのあと急に韓国との閣僚級会談に応じたり、平昌オリンピックに参加を表明したり、今までとは明らかに違う態度を示している。

 病気などで代役を立てたのか。それとも見違えるほど衰えて見えていたのは本人が病気で外見が変わったのか。

 それとも私が正月の昼酒で妄想しただけなのか。

映画『オデッセイ』2015年アメリカ

 監督リドリー・スコット、出演マット・デイモン、ジェシカ・チャスティン、クリステン・ウィグ、マイケル・ペーニャ、ショーン・ビーン、ケイト・マーラ他。

 観よう観ようと思いながら観そびれて(そんな映画が山のようにある)いた一本。息子と見て二人とも感動した。好い映画である。

 サバイバル映画(パニック映画のなかにもサバイバル映画はたくさんある。危機的状況を切り抜けるのはサバイバルそのものだから)やリベンジ映画は面白い。感情移入しやすいのだろう。そういえば前回息子と二人で観たのがレオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント 蘇りし者』もサバイバル映画であり、しかも復讐映画であった。これも傑作と言っていい。

 息子も私もマット・デイモンが好きである。『グッドウィル・ハンティング 旅立ち』という映画を二人で観て以来である。そういつも二人で映画を観ているわけではない。めったにないことなので私が厳選しているのである。ちなみにティム・ロビンス主演の『ショーシャンクの空に』も二人で感激した映画である。私の趣味は悪くないと息子は思っているはずだ(たぶん)。

 肝心のこの映画のことである。死んだと思われて独り火星に取り残された植物学者で宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)が、残された水や食糧などの量から生きのびるのは不可能と思われる状況を、一つひとつ打開しながら克服していくという物語である。再び地球から新しい宇宙船が来て救援されるまで短くても4~5年という日々をどう生きのびるのか。

 サバイバルの鉄則。諦めたらそこで終わり、諦めなければ必ず道は開ける。そして希望が見えると必ずさらに思いがけない試練がやってくる。神が彼を試すかのようだ。

 彼が生きのびていることを地球では知らない。どうしたらそれを知らせることができるか。しかしそのころ、火星の監視映像から彼が生存していることに気がついた者がいた。

 これほど苛酷な究極のサバイバルがあるだろうか。しかもそれに絶望せずに時に自らをユーモアで元気付けしていく主人公の素晴らしさにぐっとこないわけにはいかない。マット・デイモンだからできるリアリティである。

 そう、この映画はこれが毛筋ほども嘘くさいと思わせたら終わりである。その破綻が全くない。観客は主人公とともに喜び、主人公とともに絶望し、また危機に立ち向かうのである。 

 まことによくできたサバイバル映画だと思う。

 ところで本日の『夢千代日記』の再放送はNHKのBSではなく、地上波でした。申し訳ありません、訂正します。

2018年1月 7日 (日)

五十嵐貴久『波濤の城』(祥伝社)

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 映画を観ているように楽しめた。面白い。

 波濤の城とは巨大クルーズ船のことである。この小説はパニック小説であるから、転覆することなど絶対にあり得ないと思われたこの船に遭難の危機が訪れる。

 あの映画『ポセイドン・アドベンチャー』や『タイタニック』を観た人ならば、この小説を映像的に頭に描きながら観ることができるであろう。実際にあった海難事故とこれらの映画を盛り込みながら、さらにその上を行くパニックが起きるのである。

 予期せぬ事故による浸水、そして巨大台風、さらに火災が船客や乗組員を襲うのだが、実はこの災害が恐ろしいのは、ほとんどの原因が繰り返される船長の判断ミスという人災であることだ。その判断のミスはまさかという思い込みや、そうであって欲しくないという根拠のない願望によって起きる。そのへんは人間だからそういうこともあるだろうと思えないこともないが、その自分の間違いを糊塗するためにさらにそれを隠蔽しようとするのである。その姿に接すれば、同情が怒りに変わっていく。

 あのセウォル号事件(事故というより事件だろう)の船長を彷彿とさせる自己中心的で見苦しいこの小説の中の船長の姿は、物語を一層盛り上げる。そのために逃げ遅れる人がでることでハラハラドキドキ度が高まるのである。

 主人公はたまたま乗り合わせた二人の女性消防士。取り残された人々を最後まで救助し続けたために、逃げ遅れた人たちを連れて出口を求めて最下層まで降りることになり、そこから救命ボートのある八階まで再び上がっていくまでのサバイバルが、あの『ポセイドン・アドベンチャー』を思わせるのである。自分の命を省みずに人を助ける人、人間の本質は弱さであるけれど、善でもあることを感じさせてくれる数々の危機突破のドラマがてんこ盛りである。

 読み出したら途中でやめられなくなって、一気読みしてしまった。人間は危機に瀕しても諦めなければ必ず突破口はあるものだと信じさせてくれる。そう信じたいものである。

夢千代日記

 先月、脚本家の早坂暁氏が亡くなった。その追悼番組として、明日から『夢千代日記』の全五話がNHKBSで再放映される。私が録画してあるのは地上波での再放送をDVDに収めたものなので、もう一度BDに収め直そうと思っている。もとの画質が当時のものだからたいした違いはないが、それでも少しはマシであろう。

 このドラマはすでに三度ほど見直しているけれど、これを機会にもう一度観たいと思う。これはシリーズ化された。3シリーズか4シリーズあり、コレクションをし直すために、すべて再放送されるとありがたいのだがどうだろうか。そのあと映画化もされて、もちろん劇場で観た。映画化されたものは思想的な要素が強すぎて私の『夢千代日記』のイメージを損なうもので、二度と観たいと思わない(もう一度観たら、思想的な部分に目を瞑ることができて案外好い映画だと思うかもしれない気もしないではない)。

 もし興味のある人は、めったにない機会なので、今回の再放送を見逃さないようにして欲しい。傑作です。

 ちなみに、私のドラマ・ベストスリー、山田太一『冬構え』(すべて笠智衆主演の三部作のひとつ。他の『ながらえば』、『今朝の秋』も傑作。NHKアーカイブスで観られる)、早坂暁『夢千代日記』、倉本聰『北の国から』。この三人の脚本家の傑作は他にもたくさんあって、あげていけばきりがないのでこれまでとする。

2018年1月 6日 (土)

明日で日常にもどる

 娘のどん姫は一度自分の家に帰り、昨晩再びやって来て、息子と三人で深夜の酒盛り。ビールで乾杯した後、日本酒は三人とも飲み飽きたので、まずグラタンでワインを飲み、そのあとエビチリなどの中華で紹興酒を飲む。

 この紹興酒は息子がなにかのくじ引きで当てた景品だそうで、何と紹興産の本物の二十年物である。今まで十五年物は飲んだことがあるが二十年物は初めて。味が濃くてしかも飲みやすい。ただし、息子は紹興酒があまり得意でないので再びビールを飲み出した。

 エビチリはわれながら上出来で、子どもたちの評判もよかった。息子が一番最初に討ち死にし、どん姫がそれに続いた。みなこたつでそのまま寝ようとするので強引に布団にほうり込む。いつもはみなで手分けして片付けるのだが、久しぶりに一人ですべて片付ける。

 一息ついて寝たのは三時半を過ぎていた。朝、どん姫は仕事に出かける。遅番だから車で送れればよかったのだが、酒がまだ抜けていない。娘に朝飯を食べさせて見送る。どん姫は「いってきまぁーす」と元気よく出て行った。

 そのあと息子と朝昼兼用の食事をする。息子は夕方から友人達と名古屋で飲み会である。まことによく続く。たぶん帰って来るのは最終電車であろう。その息子も明日は広島へ帰る。

 みなそれぞれの日常にもどる。これで正月は終了である。

 にぎやかで楽しい祭が終われば寂しさがやってくる。それはテンションの下がることであるが、多少ほっとしないことはない。ずっと祭というわけにはいかないし、そもそも体力もお金も続かない。

 さあ、つぎの祭を楽しみに日常を生きることにしようか。寂しさがあるからこその祭の楽しさなのだから。

今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社)

 「このミステリーが凄い!」2018年国内編一位、「週刊文春 ミステリーベスト10」2017年国内部門一位、「第27回鮎川哲也賞受賞」他。著者はこれがデビュー作である。

 これも本格ミステリーのつもりで買い、読み始めて驚かされた。なぜ驚いたのか書いても別に差し支えないようにも思うのだが、どうも何を説明してもネタばらしになるおそれがあるし、私と同様に驚く楽しみを奪うことになりそうなのでやめておく。

 大学生とOBたちが夏休みを数日過ごす予定で、ある湖畔の金持ちの大きなペンションにやってくる。主な目的は近くの廃屋を舞台の短いホラー映画の制作だ。総勢十人を超える彼らがついには三階建てのそのペンションに閉じこめられる事態となり、その中で殺人が行われる。

 犯人は彼らを追い詰めているとんでもないものなのか、それとも内部の誰かなのか。しかもどう考えても不可思議な状況での殺人が起こり、しかもそれが連続する。その目的は?方法は?理由は?そしてその犯人は?

 絶体絶命の状況でそれらが見事に絵解きされて行く鮮やかさは痛快である。

 面白かった。繰り返すが読むまえに説明を聞いたら面白さが損なわれる。そのぶん何も知らずに一気に読んだら唸ることは必至である。こんなのもありなのだ。

2018年1月 5日 (金)

貴志祐介『ダーク・ゾーン 上・下』(角川文庫)

 外の風を浴びるために息子と名古屋に出かけて何冊か本を購入。今回は読みやすそうな日本のミステリー本ばかりである。そこで貴志祐介の本を真保裕一の本と勘違いして買ってしまったことに後で気がついた。変わった題名だなあ、なんとなく宮部みゆきの本みたいなテイストかな、と思って読んでみた。

 主人公・塚田はダーク・ファンタジーゲームのような異世界で突然覚醒する。彼が異形の者たちを率いて敵と戦うという話だが、本人も人間ではない姿に変わっている。率いる仲間たちも敵の主要メンバーも、実は彼の知る人たちが変貌したものであることが次第にわかってくる。誰がこんな世界を創造したのか?なんと舞台は軍艦島(端島)である。そこには昼はなく、月の出ている時間と暗闇が交互に訪れる。

 ルールが次第に分かり出す。主人公は元々将棋奨励会の三段、将棋界では四段から本当のプロなのだが、その四段を目指している。そして敵の主将は同じ奨励会三段の好敵手であり友人であった。 

 このゲームの七番勝負と現実世界が交互に語られる中で、次第にこの異世界の存在理由が明かされていく。最後の最後に「慟哭の真実(by帯の惹句)」が明かされる。ある程度想像通りなのだが、けっこうぐっとくる。

 最初はこの不思議な世界にシンクロできなかったが、次第にルールとキャラクターを呑み込んで、はまっていく。私は将棋もゲームもそれほど得意ではないが、それでも十分に興奮して楽しめる。女性でも楽しめるだろう。

2018年1月 4日 (木)

りりぃを聞きながら

 私は北側の洋間を寝室にしている。そこは遊び部屋でもあり、オーディオルームでもある。寝ながら音楽を聴くために、どうしても北枕で寝ることになる配置なのであるが、ずいぶん前からそれで不都合はない。ただ北側なのでいささか寒い。

 キーボードの三分の一が効かなくなったダイナブックをデジタル音源のストレージ(外付けハードディスクのようなものか)にしている。手持ちのCDをデジタルアップリンクしてダイナブックに保存しているので、アンプをつけ、USBを繋いだCDプレイヤーのスイッチを入れれば枕元で好きな音楽が聴ける。

 昨晩はひさしぶりにドライデーにしたので、早めに目覚めた。とてもすっきりとした目覚めである。昨晩飲み会だった息子はまだ寝ているので、寝床でりりぃのアルバムを聴く。ハスキーな声が心地よい。

 今日から仕事の人も多いだろう。新しい年が始動する心地がする。私はずっと日曜日だけれど。今年はいままで以上にあちこち出かけたいし本も読みたいし映画も見たい。なんだか充電が完了した充実した気分の朝である。善い三が日であった。

2018年1月 3日 (水)

胃がふやける

 大晦日から二日までの三日間で飲んだ酒の量、一升瓶が四本半、500ミリのスーパードライが11本。札幌グランドホテル料理長監修のおせち料理をすべて平らげ、つまみも山のように作ったけれどすべて平らげつくして、さすがに今日はもう酒を飲む元気がない。

 とにかく息子もどん姫もよく飲みよく食べる。若いし健康な証拠であり、親としては喜ばしいことである。

 息子は今晩は友人達との飲み会だそうだ。どん姫も友達と約束があるという。次の三人での飲み会は5日の予定で、鍋でもしようと思っている。

 さすがに私の胃袋も悲鳴を上げている。なんだかアルコールでふやけてしまったような気分である。元に戻るのに二週間くらいかかるだろう。まことにバカ酒のみであるが美味しいし嬉しいしで止まらないのである。

 つい薬を飲むのを忘れると、子どもたちに「薬を飲め!」と注意されている。焼け石に水だが、飲まないよりはよいだろう。なんだか例年以上に良い正月である。幸せである。

2018年1月 2日 (火)

渡邉哲也『日中開戦2018-朝鮮半島の先にある危機』(祥伝社)

 戦争というと軍事的なものばかりを思い浮かべてしまうが、「冷戦」はそもそも軍事的な衝突ではないのに戦争と呼ばれていた。ただし代理戦争としての戦争があった。しかし東西の冷戦は終わった。

 しかし今、新たな冷戦が始まっているといえないか。

 著者がいう戦争には「外交」「経済」「軍事」の三つの戦争があるのだという。なるほど、そういう意味では日中はすでに開戦しているといえないことはない。

 中国は時代錯誤の膨張政策を推し進めている。そこに来たるべき世界に対しての中国なりのビジョンがあるのなら良いが、それは見えない。見えないだけではなく、そもそもないとしか思えない。膨張し覇権を拡大することそのことが目的と化しているとしか見えないのである。 

 日中の戦いはその中国の膨張政策との戦いといえる。少なくともアメリカには民主主義と自由という理念らしきものがあり、日本は同じ理念を共有する国としてアメリカに組みするのは当然である。

 残念ながら習近平の目指す中国の未来は、民主主義とも自由とも違うことが明確になりつつある。アメリカのトランプ以上に中国は中国のみの利益を追求しようとしているように見える。

 しからば日本はそれに流されないように自国を防衛しなければならない。外交的に、そして経済的に日本を護るにはどう考え、どう行動するべきなのか、そのことを現在の世界状況を総括しながら考え、あるべき日本の姿を提案しているのだ。

 今の日本のマスコミはそのような視点を欠いて世界を論じているように思う。もっとリアルな世界を見て、何をあるべきものとするかをそれぞれが考えるときではないかとの問いかけには共感する。

 その視点からのテロ防止法の解釈と意味は参考になった。

 グローバリズムが終焉を迎えたように見える今、これから世界はどうなるのか、今までのような平和を謳えば平和が続くという脳天気な認識では日本は今の安定した生活を維持できないと、すでに若者の方が先に気がついている。何しろ危機的事態に直面するのは若者である。その若者の足を老人は引っ張ってはならない。こころしよう。

2018年1月 1日 (月)

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。


今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ただいま酩酊中

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新年恒例の画像で失礼いたします。

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