人生の要諦は「集中力」であると私は思い、子どもたちにも繰り返しそう伝えてきた。本当の実力は持続力かもしれないが、私には残念ながらそれがあまり備わっていない。集中力と持続力がともに備わっている人こそが人に優れた功績を残す人である。
私はそのような優れた人たちからみると能力が劣ることを若いときに繰り返し思い知らされてきた。多少の自負はあったのであるが、人並みかそれ以下であることを理解する程度には愚かではなかったのである。
それでも集中力には自信があった。人より劣っていても、集中しているときには実力以上の能力を発揮できることに気がついていた。あとで考えるとどうしてそんなことが出来たのか、と思うようなことがしばしばある。だから試験は得意である。一夜漬けは得意だし、試験の時の集中力は自分でも驚くほどである。頭がフル回転して熱くなり、顔が真っ赤にほてって、しかも膨張してくるのが分かるのである。
そういうときは不思議なことにうろ覚えのことが頭の奥からすらすらと出てくる。そして集中して思いだしたものは記憶に刻み込まれて忘れないものになる。だから試験は好きだったし、試験のおかげで増えた知識はたくさんある。
そのかわりふだんはボンヤリしている。
現役時代は営業という仕事をしていた。営業は人に会う。どんな人とどんな展開になるか、事前に頭の中でシミュレーションをして面談に臨むのであるが、想定通りに行くことはまずないし、そもそも想定できる予備情報のないことの方が多いものだ。
行く前はずいぶん緊張するし、ときには逃げ出したくなることもあるけれど、目を瞑ってエイヤッと場に臨む。そうすると思ってもいない自分がそこに現れる。ほとんど考える前に言葉がどんどん出て来るし、相手の言葉の意味も頭にスイスイと入ってくるのである。
後で考えるとどうしてそんなにうまいことしゃべれたのか自分でも分からない。自分でない自分が勝手に話を進行しているのである。
もちろんいつもいつもうまくいくとは限らないが、ふだんの自分では出来ないレベルの仕事が、集中すると何とか多少とも出来ることは不思議なほどである。
本を読んでいてもそういうことがある。そういうときは回りの一切が五感から飛んでしまっていて、時間すらそこにはない。気がつくと一気に百頁も二百頁も読み進めていて驚く。
それなのにその私の集中力の出現が、近頃めったになくなったことはまことに残念である。それは歳のせいであることはもちろんであるが、どうも自分をそういう状況に追い込むような機会がなくなっているからであるように思う。
予定をほとんど立てず、知らない人に会う機会の多い独り旅をするのも面白いかもしれない。どうしていいか分からない事態こそ、私を励起させるような気がする。今年は極力そんな旅を実行しようかと思う。
ただ一番心配なのは、今までは酒を飲むと記憶力が回復するという超能力があったのに、今は飲むほどに記憶があいまいになるところをみると、長年の深酒で私の集中力が錆び付いてしまっているかもしれないことである。窮地に立ったらますますうろたえてしまうようなら、もう終わりである。そうなる前にとことん緊張感に自分を追い込む場面をつくることにしなければ・・・。
そういえば昨年なかばまでの三年間は、ストレスフルな裁判沙汰(調停や審判など)が続いていた。これは精神の退化を食い止めはしたけれど、あまりのストレスで、人生初めての不眠になってしまった。今もそれが尾を引いて睡眠のリズムは狂ったままだし、不定期の睡眠薬の服用は続いている。
ああいうのはできれば願い下げだが、人生は好事魔多しである。明日なにがあるか分からない。それを切り抜けるためにもささやかな自分の能力を磨いておく必要があるかもしれない。ボンヤリしてばかりいられないのである。
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